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レジェンド達との邂逅

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羽田空港に降り立った直人は、すでに気疲れしていた。

空港の喧騒。

自分が違う世界に来たような錯覚に陥る。

この間は、夜行バスに長時間揺られて着いた。

バスの中で寝はしたものの充分な睡眠は取れず、ボーッとしながらバスターミナルに降り立った。

そのまま、コーチ達の誘導のまま路線バスに乗り会場近くのホテルにたどり着いた。

その時との落差。

初めて乗る飛行機に緊張し、ようやく着いたと思ったら、長い連絡通路が待っている。

そして、連絡ロビーの人混み。

人酔いしてしまいそうだった。

「お、いらっしゃった」

キョロキョロと辺りを見回していたコーチが言い、足早に歩き出す。

直人も急いで後をついて行く。

「ご無沙汰しております。この度は、いろいろご尽力をいただいた上に、お出迎えまでしていただいて恐縮です」

歳の割にがっしりとした体格の紳士に向かって言う。

「いやいや、ちょうど時間があったものだし、郷土の新進の若手選手に早く会いたかったから出しゃばりました」

紳士はニコニコと笑いながら直人を見る。

ここに来るまでに、コーチや顧問から何度も聞いていた人物だ。

オリンピック参加のキップが、戦争に絡んだ政治問題のために無くなってしまった同郷の元水泳選手。

潰えてしまった夢に一時は気落ちしたようだが、その後、学生スポーツ振興活動へと精力を注ぎ、コーチも部長もかつて世話になったという。

その元選手が優しい目で直人を見ている。

「朝日直人です。よろしくお願いいたします」

「沖田です。君の活躍をテレビで見て爽快だったよ。これからよろしく」

「よろしくお願いしますっ!」

直人は頭を下げる。

「立ち話もなんですから、早く車まで行きましょう。宿泊予定のホテルには関係者達も君を待っている。瀬口くんも会うのを楽しみにしていましたよ」

紳士、、、沖田は気さくな人柄だった。

沖田が理事を務める団体の職員が運転手を務めていたが、その職員からも沖田を慕っているのが伝わってきた。

出会った後、車に乗ったあたりは緊張していた直人だが、沖田の巧みな話術にホテルに着く頃にはすっかりと打ち解けていた。

コーチはずっと緊張しっぱなしではあったが。

国際大会でも使われる水泳施設の近くでチェックインをする。

沖田は12時に最上階のバーラウンジで昼食を取ろうと告げた。

それまで40分程度ある。

それまでは部屋でゆっくりしてくれとも。

だが、部屋に来ても、直也にはやる事が無い。

窓を開くと無味乾燥なビル群が並ぶ大通りが見下ろせるだけだ。

水泳施設は見えない。

ゆっくりしろと言われても、ゆっくりしたくないんだよな、、、

スマホでも見て時間を潰そうか。

鞄からスマホを取り出す。

飛行機に乗り込む時に電源を落としたままだ。

起動する。

ラインでメッセージが届いていた。

百合香だ。

合宿、頑張ってねとだけある。

そのメッセージに、胸が痛む。

別に百合香に飽きたと言うわけではない。

が、以前ほど由里香には時間を割いていない。

元々、直人の方からアタックし、カップルになったというのに。

メッセージや電話も、以前は直人から送っていた。

しかし、最近は、泳ぐことが楽しくて仕方ない。

水泳のことばかり考えている。

少しでも速くなりたい。

速くなれば“ヒメ”が喜んでくれる。

身体に伝わる振動で分かる。

夜中のプールで感じる“ヒメ”の振動、波動が直人の心の中心に根を張っている。

それに連れ、百合香の存在が小さくなってしまっている。

軽い罪悪感を感じる。

飽きたとかいうのではないのは分かってほしい。

けれど彼女の返事に一喜一憂し、どんな返答が良いか考える自分には戻れない。

しばらく水泳に集中したいんだ、だから少し待ってくれ、、、と先に言えれば良かったのだが、百合香の方から、“直人くんは水泳に専念してね。あたし、応援してる。連絡は練習の合間の空いた時間で良いよ”と言われてしまった。

どこかにその彼女のメッセージを喜んでいる自分が居る。

今もそうだ。

返信しようかと思っても、薄っぺらな心の籠っていない言葉しか浮かんで来ない。

だから、グッドマークのスタンプを押すだけに留めた。

ネットで水泳施設の概要を調べているうちに12時が近付いた。

部屋の内線電話が鳴る。

コーチだ。

お待たせするのも失礼なので早めに行くかと言う。

確かにそうだ。

直人は窓側に置かれた椅子から立ち上がると、キーを持って部屋を出る。

タバコを吸うコーチとは別の階だ。

エレベータで最上階に向かう。

バーラウンジに着いた直人は目を見開く。

壁際のテーブルに沖田とともに座っていたのは絶対王者と呼ばれる瀬口選手だった。

広い肩幅、そして、無駄のない長身、意思の強そうな眉。

間違いようがない。

遠目でもオーラを放っている。

聞くところによると、孤高のアスリートで、群をなすのは嫌いらしい。

相手が有名人だろうが、権力者だろうが、忖度はなく、バッサリと切り捨て、自分が認めた相手の言うことしか聞かないと言う。

競技大会前後のインタビューでも鷹のように鋭い目で相手を見ながら、厳しい表情に笑顔も浮かべず、一言一言ゆっくりと返答するため、マスコミ泣かせとも言われていた。

その瀬口選手が、沖田さんと歓談している。

リラックスした表情。

初めて見るプライベートの絶対王者は、ヤンチャな少年のような雰囲気を醸していた。

直人の緊張が一気に増す。

ホールの人が直人をその席に案内する。

瀬口と沖田は、来た来たとでも言うように笑顔を直人に向ける。

「朝日ですっ!よろしくお願いいたしますっ」

緊張で上擦った声と、腰を90度に曲げて頭を下げる姿に、年長の2人の視線に優しさが宿る。

「朝日くん、そんなに緊張せずに腰掛けなさい。瀬口くんが君に興味を持って、ぜひ紹介をしてくれと言われてね。折角だからランチにお誘いしたんだ」

沖田が言いながら、椅子に座るように促す。

緊張のあまり動きがぎこちなくなった直人は、カクカクとゼンマイ仕掛けの人形のような動きでテーブルにつく。

「瀬口くん、大会以来だね。あの時は表彰式や、メディアの取材でゆっくり話せなかっただろ。だから、今日、押しかけさせてもらったよ。お邪魔虫だったかな?」

絶対王者の冗談めかした言葉に直人はさらに硬くなる。

「そ、そんなことは、ありません。光栄です。お会いできて光栄です。嬉しいです」

気の利いた事を言いたいのだが、緊張で頭が真っ白になりかけていて、言葉が浮かんで来ない。

そんな直人の様子に沖田と瀬口は目を細める。

そこにコーチがすっ飛んできた。

「お待たせしまって申し訳ありませんっ!」

まだ12時には10分あり、コーチは決して遅れたわけではない。

が、テーブルには思いがけず、現在の水泳会に君臨する瀬口の姿があり、しかも、コーチにとって恩人の沖田ももう席に着いている。

「しっ、失礼しますっ。お待たせして、ほんっとうに、申し訳ありません」

椅子に座り、深々と頭を下げる。

コーチの額に緊張の汗が浮かび出す。

「まぁまぁ、そんな気にせずに。午前の会合が思ったより早く終わってしまってね、時間より前に着いてしまった。会合に一緒に出ていた瀬口くんが、若手のホープの朝日くんに興味を持っていたんで、一緒に誘ったんだ」

そして、ウエイターを呼び、注文を始める。

大人の3人は、折角だから一杯だけど生ビールを頼み、直人はジンジャーエールを注文した。

沖田が場を和ごますように会話をリードする。

大会後、個人メドレーで直人に敗れた瀬口が、完敗だっ、慢心してたっと悔しがりながらも嬉しそうだった事。

選抜された選手のみが参加する合同練習に、直人を特別参加させようと瀬口が熱心に動いてくれたこと。

コーチとの関係から、沖田が表立って動くと公私混同となってしまう危険があったので、瀬口の働き掛けがとても有り難かったこと。

そして、直人の参加が決まった時に、瀬口が喜んでくれたこと。

直人は話を聞きながら、恐縮しまくりだった。

「瀬口さんは、何故、朝日くんをそんなに気に入って下さったんですか?」

コーチが聞いた。

「朝日選手には、邪念が無いからね」

え?

邪念?

直人は思わず瀬口の顔を見る。

「ライバルに負けたくないという闘争心とか、勝たなければスポンサーが離れてしまうという危機感とか、表彰台に上がれば名声が手に入るという虚栄心とか、そういった邪念に縛られず、とにかく泳ぐのが好きで泳いでいるって姿が眩しかった。昔の自分もそうだったと思い出させて貰ったよ。今の自分は、スポンサーやメディアへの対応、勝手に付けられた“絶対王者”なんて呼び名に縛られて、完全な俗物だ」

瀬口が優しい目で直人を見ながら言う。

思わぬ言葉に、直人は驚く。

言葉には実感できなかったけれど、瀬口が直人を誉めてくれているのは間違いがなく、それが嬉しかった。

「いやぁ、瀬口選手が俗物だなんて、ご謙遜にも程がある」

コーチが言う。

「いや、俗物ですよ。ま、お世辞を単純に喜ばないだけまだマシと自分では思ってますが、、、」

サラッと口にする。

コーチの顔が強張る。

10代半ばに頭角を表してから第一線を歩み続けただけあって一筋縄ではいかないタイプのようだ。

「朝日くんは、泳ぐのが楽しくて仕方ないんだろう?」

「はいっ」

直人は頷く。

確かに、その通りだった。

「俺も、泳ぐのが楽しくって仕方なかったんだよ、、、、」

瀬口が子供時代を語り出す。

日本海がほど近い田舎。

近くには、川もあり、湖もあった。

娯楽施設の少ない土地で、気候が良くなると水遊びに出かけるのが普通だった。

「泳ぎ方なんて誰も教えてくれなかったから、自己流で泳いでたんだ、、、」

懐かしそうに瀬口が語る。

直人はその光景が目に浮かぶようだった。

おそらく川も湖も澄んでいただろう。

その中で自分の思うがままに手足を動かし水中を行く。

楽しかっただろう、、、

「泳ぎなんて、俺にとっては当たり前のことだったんだけど、中学のプールの授業でぶっちぎりのタイムを出したら、大人達が大騒ぎしだしてさ。それからは、操り人形になったみたいだったよ。訳の分からないうちに大会に出させられ、海外にも遠征して、皆がチヤホヤするようになって、金メダル、金メダルと勝手に囃し立てられた。国内では、あっという間にトップになったけど、海外にはすごい選手が沢山いてさ。好きだから泳いでいると言ったけど、負けるとやっぱり悔しくて、段々と自分の中の水泳に対する気持ちが変わっていってしまってたんだ。けど、海外のデカい湖や川で泳いだのは気持ちよかったな。それぞれの川や湖に、それぞれの“”があって、、、」

”?

直人はビクンと反応する。

それって“ヒメ”みたいなモノなんだろうか、、、

そして、“”という言葉への直人の反応を見て、瀬口と沖田がチラッと目を合わせる。

「君を見て、泳ぐのが楽しくてたまらなかった頃を思い出して、しがらみが少し流された気がしたよ。だから、ゆっくりと話してみたかったんだ」

直人は瀬口の言葉に照れる。

「川や湖とか自然の中で泳ぐことはあるの?」

直人は少し考えて答える。

「キャンプとかに行った時に泳いだことはありますけど、泳ぐのはほとんどプールでした」

何故か沖田、瀬口は軽く失望したような雰囲気となる。

特に沖田は少しガッカリとしたように体が少し萎んだような感じになる。

それに気付いたのかどうか、直人は続ける。

「でも、屋内プールよりも屋外プールの方が好きです。体育館やジムのプールはなんか、消毒剤の匂いがキツくて、あの水にはなれません」

「屋外プール?」

沖田の顔に精気が戻る。

「はい。市営公園の中にある古いプールなんですけど、子供の頃から行きなれていて、そのプールで泳ぐのが好きです」

「コイツ、、、いや、朝日くんは、設備の整った屋内プールでトレーニングすれば良いものの、カルキ臭い水が嫌だといって、その市営プールで自主練してるんですよ」

ホウッ、、、

軽く息を吐き、沖田が直人をジッと見る。

瀬口は、そんな沖田と若い直人を交互に見、何故か心配そうな表情になる。
































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