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交錯する想い

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““ヒメ”、オレ、結構すごいみたいだよ。合同練習でさ、メドレーリレー以外でも良いタイムを出せたんだぜ。瀬口さんがペース配分を教えてくれたんだ。ガムシャラに泳いでいるんじゃダメだって。それと、フォームも直してくれた。オレ、早くなっただろ。合同練習に参加した甲斐があったよ”

夜のプール。

直人の鍛えられた身体が水の中を自在に動く。

息抜きのために水飛沫をあげ水面に勢いよく頭を出す。

酸素を吸い込む直人の頭の上、東京とは全く違う煌めきが散りばめられた星空が広がる。

直人の上半身が水面で捻られ、再び水中に消える。

成長盛りの若い身体は、合同練習でのトレーニングも手伝い、しなやかで力強い身体に変化している。

“瀬口さん、マジでカッコいい人なんだよ。人よりも早くプールサイドでストレッチを始めて、上がるのも最後なんだ。で、オレのことも可愛がってくれてさ。瀬口さん、一人っ子だから、弟が出来たみたいだって言ってくれたんだ。自分のクラスのインターバルに、休まないでわざわざオレのクラスまで見に来てくれて、色々アドバイスもくれたんだよ”

クルクルと水の塊が直人の周囲を回る。

少しこそばゆい。

“酷いヤツ等がいてさ、いつも瀬口さんと一緒にいたら、オレのこと“金魚のフン”って言うんだぜ、頭きたよ”

ブルブル、、、、

怒りの波動が伝わる。

“大丈夫だよ、“ヒメ”怒らなくても大丈夫。オレ気にしてないよ。瀬口さんがさ、言いたい奴らには言わせておけ、そいつらに向ける怒りのパワーがあるなら練習に向けろって言うんだ。負け犬の遠吠えは、最高の褒め言葉だと思って受け止めなって、、、”

彗星のように現れ、特例で強化練習に参加した直人にやっかみの目を向ける者達は多かった。

そして、トップに君臨する瀬口が、そのぽっと出の直人を可愛がるのも気に入らない。

だから、瀬口のいない所で聞こえよがしの嫌味を直人に投げつけた。

“けど、瀬口さん、ちゃんとそれを分かってるんだよ。きっと、あの人も苦労したんだろうな。学生時代からトップを走り続けて来たんだから、オレには到底わからない苦労がさ、、、”

直人はヒラリヒラリと舞うように夜のプールを泳ぐ。




「違うんだよ。そうじゃないっ。ハンスに媚びるんじゃない。好きだから、その気持ちに従って振る舞うだけ。オンディーヌは異世界、水の世界の女性、、、異形なんだ。唯の可愛い恋する乙女じゃないっ!自分の感情のまま自然に振るまえ!周りの顔色は伺うなっ!凛としているんだ、、、お前の周りだけ別の世界、精霊の世界の空気を出せっ!もう一度最初からっ!」

百合香は涙を堪える。 

共演者達からウンザリとした空気が漂って来るのが怖い。

精霊の王にはドラマなどにも出演するベテランを、騎士ハンス役には2.5次元ミュージカルに出演している若手俳優を客演に迎えている。

ベテラン俳優は田舎の劇団と見下す雰囲気を隠さないし、若手俳優はいつもピリピリしている。

主演の1人を務めていた2.5次元ミュージカルの集客が落ち、新作がなかなか作られないのに加え、共演者が大劇場の大作ミュージカルに抜擢されたことに焦りを感じているようだ。

演技を磨くため、地方の劇団に客演したが、中央からも注目されているこの公演を成功させ、舞台俳優としてステータスをアップさせたいらしい。

百合香に対しても無言のプレッシャーをかけてくる。

「もう一度っ」

百合香は場ミリを確認し、立ち位置に着く。

膨大な量の台詞をやっと頭に入れたけれど、それだけではダメなようだ。

去年演じた『ハムレット』のオフィーリアも長いセリフに困惑したが、『オンディーヌ』のタイトルロールと比較したら、所詮は何人も居る主要登場人物の1人に過ぎなかった。

キチンと演じなくちゃ、、、

オフィーリアが紛れ当たりだとは思われたくない。

舞台女優になるという夢を叶えたい。

“君なら間違いなく人気アイドルになれるよ”

昨日も熱心なスカウトがやって来て百合香を口説いた。

断っても断っても、やって来る。

“ほら、、、”

差し出したのは高そうなワンピースを纏い頭を傾げて笑顔を浮かべる女の子の写真。

“こんな子でもトップアイドルになれるんだよ。君だったらもっとセンセーションを巻き起こせる。地味な演劇なんかをやっているなんてもったいない。芝居がやりたいならドラマでも、映画でも、すぐに出ることができる。僕が保証するよ”

この人は、何を言っているんだろう。

私のことを全く理解していない。

初めて舞台に立った去年。

愛するハムレットが、自身の復讐を遂げるため狂気を装い、恋人であるオフィーリアを愚弄して棄てる。

恋人の豹変に心身を壊したオフィーリアは狂った挙句、川に落ちて溺れて死ぬ。

演出家からも、共演者からもダメ出しを受け、それに食らいつくように必死で稽古をし、迎えた初日の舞台。

楽屋から舞台に向かうために廊下へ足を踏み出した時から、満場の拍手の音が舞台に押し寄せて来たカーテンコールまで、ほとんど記憶がない。

けれど、その拍手に包まれた時、幸福な達成感を感じ、涙を流した。

ハムレットの母親である王妃ガートルードを演じた時折りドラマの脇役にも登場する女優さんが泣く百合香を抱きかかえる。

主演のハムレット役の男優が百合香を紹介するように手を差し伸べ、拍手が優里香へと向けられる。

百合香は泣きながらお辞儀をする。

拍手が高まる。

あの瞬間が忘れられない。

卒業したら東京へ出て女優になるという夢は、別に有名になりたい訳ではない。

チヤホヤされたい訳でもない。

あの初日の感覚を忘れられないのだ。

そして、地方公演でやって来る本格的な劇団の芝居を観て、自身もこの本格的な舞台に立ちたいと思ったからなのだ。

だから、自分に与えられたオンディーヌ役は演じ切らなければならない。

ここで挫けてしまっては、自分には才能がなかったことになる。

あたしは、ヘラヘラ笑ってカメラ越しに媚を売るだけの人形じゃない。

女優になるんだ。

相手役のキッカケを受け、百合香はセリフを喋り始める。

失望が周囲に広がっていくのが分かる。

その空気に負けないように百合香は動き、セリフを紡ぎ出す。

あたしは、どうすれば良いの?

どう演じればいいのっ?!



“オレ、筋トレも始めたんだ。マシンを使うのってかったるくて嫌いだったんだけど、ちゃと鍛えるべき部位を決めてトレーニングするとちゃんと筋肉がついて泳ぐのも楽になるんだ。瀬口さんから、トレーニングメニューももらったんだよ。“ヒメ”、オレがマッチョになったらどうする”

、、、、、

““ヒメ”くすぐったいよ”

そして直人は自身の厚くなった筋肉を見せびらかすように両腕と両脚を大きくゆっくりと動かし、プールの底近くを泳いでいく。

直人を包む水の塊、、、“ヒメ”も直人に寄り添うように移動する。

“やっぱりこのプールが1番だよ。競技場は広いし、設備も凄いんだけど、プールの水が味気なくて、、、なんか泳いでいて、イマイチ、気が乗らなかったんだよ”

“ヒメ”から喜びの波動が伝わり直人は嬉しくなる。

“そういえば、“水の精霊”って有名なんだね”



不思議そうな波動、、、

直人は合同練習の最終日、立食で行われた親睦会を思い出す。

初めて会う年配のお偉方を次々と紹介されて、直人は緊張していた。

その会場は沖田がセッティングしたようだ。

「さすがは沖田さん、見事な調度品を用意されましたな」

立食パーティーの手配だけでなく、会場を飾る絵画や彫刻も沖田が手配したらしい。

それぞれ透明感がある女性の姿がモチーフとなったものばかり。

岩の横、ワンピースの長い裾をひらめかせ身を翻す女性の彫刻。

岩のところが台になりその横に躍動感のある女性が彫られている。

水中に長い髪をたなびかせる女性のリトグラフ。

波間の岩に座る女性の油絵。

「今夜のテーマは、、、人魚姫?、、、いや、セイレーンか、、、?」

問われた沖田が答える。

「芸術は、見る人それぞれの解釈でテーマを感じてくだされば、、、」

「沖田さん、そうやってはぐらかさず、こちらの教養を高めるためにもテーマを教えてくださいよ」

沖田はふと振り返った。

瀬口の横に直人がいることを確認するようにチラッと見、直ぐに前を向く。

「本日の調度品のテーマはウンディーネ、、、」

「ウンディーネ、、、ッ?」

直人が知った単語に驚き、つい呟きを洩らす。

沖田が振り返り、つられたように周りのお偉方も振り返り直人を見る。

「朝日くん、ウンディーネを知っているのかね」

沖田と瀬口の視線が、一瞬、交わる。

そして、瀬口は意味ありげな目で直人を見た。

「確かウンディーネって“水の精霊”ですよね。僕の友達が演劇をやっていて、今度、ウンディーネをモチーフにした舞台をやるんです」

沖田が身を乗り出す。

「ということは『オンディーヌ』か。ジャン=ジロドゥが書いた戯曲、、、」

「そう、それです」

「朝日くんの友達がやっているのなら、私も観に行こうかな、、、」

そこへ割り込んでくるお偉方がいた。

「ほう、“水の精霊”ですか。いやぁ、朝日選手は水泳だけじゃなく、文学にも造詣深いとは、博学だ。驚いた。すごい!」

大仰に驚いて見せたのは、確かマスコミ関係のお偉方だ。

他のお偉方も直人の方を向く。

直人は彼らの好奇の視線が煩わしい。

全国大会で彗星のように現れた直人は、そのシュッとしたルックスも手伝って、どうやらを持っていると判断されたらしい。

今回の練習期間でも、グングンとタイムを伸ばし、それが、直人への注目を増すことになっている。

知名度がさらに上がる前に直人と繋がりを持っておこうという魂胆がありありとしている。

この人達は、上っ面のお世辞にオレが喜ぶと本気で思っているんだろうか、、、直人は思う。

彼らは名誉職とでもいうのだろうか、それぞれ、マスコミ、広告代理店、政治の世界の重鎮で、主催団体にも理事として名を連ねているが、練習には顔を一度も見せず、この懇親会にしか顔を出していない。

恐らく、アスリート同士の親睦よりも、彼ら重鎮とのパイプ繋ぎが目的だろう。

瀬口からは、スポンサー探しも競技を続けていくためには大事なことなんだと言われていた。

“瀬口さん、マジですげぇよ。オレですら取材とか、オジさん達の対応が面倒になってワ~~ッて叫びたくなるのに、あの人は、ずっとそんな人達を相手にしながら、きちんと練習をし、タイムを伸ばして、世界に君臨したんだ。並大抵のことじゃないよ”

直人は休息も取らず泳ぎ続ける。


金網の外、カシッと金網が擦れるような音がする。

細く白い指が金網を掴んでいる。

プールをジーッと見ている。

カシャ、、、カシャ、、、 

小柄な影が金網を登る。

そして、乗り越えると、スッとプールサイドに飛び降りる。

ヴァッ!

水飛沫が上がり、直人が顔を出し息継ぎをする。

が、プールサイドの人影には気付かず、すぐ水中に潜る。

夜の暗いプールの底の方を移動する直人の陰影。

目を凝らさなければ見逃してしまうような陰影をジーッと見続ける。

そして、服に手をかける。

一枚、一枚、、、

全て脱ぎ捨てる。

決意に満ちた表情で人影、、、百合香がプールに向かい歩き出す。

プールの縁の水がフルフルと小さく震え出す。

風か?

風は吹いていない、、、

泳ぐ直人の四肢が立てた波か?

いや、プールの縁だけがポコポコと泡立つように水が活動している。

スゥッ、、、

水がプールサイドに打ち上げられるように乗り、そのまま静かに百合香の足元の方へ向かう。

百合香は、水の動きに気付かず歩く。

もとより、プールサイドだから踏み出した足裏に水が当たっても不思議には思わない。

そして、暗闇だ。

プールから水がプーサイドを這うように百合香の方へ向かっているのは見えない。

そして、百合香は何かを決心したような硬い表情を浮かべている。

恐らく、些細なことは気にする余裕がないのだろう。

うっすらと見える直人の陰影を見据えながら、ゆっくりとだが確実に足を進める。

百合香が踏みしめるプールサイドの層は厚くなり、くるぶし辺りまで濡れる。

え?

流石に訝しく思ったのか百合香が足元に目を下ろした瞬間、足元の水は音もなく勢いをつけ、足下から百合香の裸の肌を駆け上る。

叫ぶ暇もないまま、百合香を水の薄い層が包み込む。

もがくように手を、上半身を動かす百合香の身体を包んだ水の層がグルグルと回転し始める。



朝の光がうっすらとさす頃、直人はプールから上がる。

手早く身体を拭き、ジャージを着ると金網を登り家路に着く。

プールサイドにグショグショに濡れた百合香の衣服が残っているのには気付かなかった。











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