ANGEL ATTACK

西山香葉子

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第5章 CLOUDY HEART——壊れゆく恋

第5章 CLOUDY HEART——壊れゆく恋

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 りんだの結婚式から一夜明けた。
「うーん、昨夜飲んだだけじゃなくて、最近藤花亭行き過ぎだな……」
 毬子は下着姿で体重計に乗っていた。
 かなり増えている。
 身長170センチの標準体重は60キロ前後だ。

 まあ、絵の上達と体重減量は両立しないと考えた方が良いでしょう。寝食忘れて描けば別かもしれないが。
 太り過ぎないように気を付けなくてはね。

 一日どれか一食、春雨にするかね。
 スーパー行って買い物だ。

「まーりちゃん」
「絢子さん」
 16時、スーパーの青果売り場にてさっそく、藤花亭の女将に会った。
「カラオケの日程決まったんよ」
「いつですか?」
 言うと絢子は7月の第2日曜日を答えた。それにプラスして、
「さっき八木さん誘ったけえね」
 何故絢子さんが頬を染める、と突っ込みたかったが、このカラオケは、藤井家4人七瀬家2人を基本に友達を呼ぶのは自由だ。香苗が中高校生だった頃は、香苗の親友の麻弥が頻繁に参加してたし、他にも一哉やみゆきがよく混ざっているので、そんなものだろう。由美や、毬子の弟・信宏、隆宏のきょうだいも混ぜたことがある(隆宏は6人きょうだいの末っ子だ。ちなみに毬子の妹・律子は毎度断っている)。藤花亭の常連の親父がいることもあって、プレスリー爺さんがそんなあだ名をつけられたのも、このカラオケ大会が原因だ。根本美容室の瑞絵や瑞絵たちの母親の琴子が居ることもあった。
「由美ちゃん呼んでよ。麻弥ちゃんは今年からハローの社員じゃけえ、多分呼べん」
 絢子の言葉は標準語と広島弁がミックスされたりする。上京して26年の割に広島弁が残っている方だ。
「あーそうですねえ。わかりました」
「ほじゃねー」
 と言って絢子は先を歩いていく。

 買い物はローカロリーなものが多かった。まあ、祐介にも無駄にならんでしょ。たんぱく質は必要だけど。だから鶏肉は買ってある。
 RRRRR
「はい」
『姉ちゃん?』
「信宏か、そろそろ電話しようと思ってたのよ。仕事辞めて絵に全力投球してる」
 弟だ。信宏に対する気持ちをそのまま述べた。
『あー、じゃ本当に話詰めようよ』
「あんたに合わせる」
『じゃあ金曜日に藤花亭で』
 金曜の藤花亭ってうるさくないか? と思わなくもないが、弟はお好み焼きが好物だから仕方ない。
「了解」
 と言って電話を切る。

 その日は一日花をデッサンしていた。
 夜、由美をカラオケに誘おうかな、と思い、家電から家電に電話をしてみる。
 出ない。携帯にもかけたけど出ない。
 仕事かな、お風呂かな?
 まあいい、また明日電話してみよう。

「今日はそろそろ……」
 明日香は机の前でのびをして、参考書を机の上の本立てにしまう。

 翌朝。七瀬家は、親子揃って7時半に起きた。
 8時過ぎ。
「そろそろ時間だよ」
「髪型決まんねえ」 
 とぼやく祐介に呆れながらも強くは言わない。
 二度寝しようかなと思ったそばから、あ、由美に電話しようと思う。
 今朝も家電で。短縮ダイヤルになっている。
 RRRRR
『はい』
 あ、男のひとだ……なんか聞き覚えがある声……
「あーっ!」
 受話器を落とした。
 今の……義弟だ。
 三村芳樹さん。

 妹の夫である。毬子より彼の方が2歳ほど年上なのだが(由美と三村の元同僚である少女漫画誌「まりあ」の崎谷は、三村より更に2年上だ)。
 受話器から『もしもし? もしもし?』という独特のかすれた低い声がしばらく聞こえていたが、ほどなくツー、ツー、ツー……という音に変わった。
「どうしたん?」
「いや、今ね……由美に電話したんだけど、律子……の……旦那さんが出たのよ」
 まだ心臓がドキドキしている。
「その組み合わせなら俺、渋谷のラブホ街で見たことあるぜ」
「……えーっ!?」
 驚き過ぎて言葉がなかなか出てこない。口は開いたっぱなしの毬子だ。
「根本と仁科がわしらを探してうろうろしてたとかいう日があったろ。あの日わしらは、渋谷でアスカが欲しがって予約してたCD取りに行ったんじゃけど、そこからラブホ街入ってって」
 毬子の瞳が祐介を睨んだ。
「中入っとらん。アスカに誘導されたぽいところはある。で、疲れてるし帰ろうとか言ってたら、とある建物から出てくる叔父貴と由美さん見たんよ。
 アスカもその気失くしてそれからすぐ帰ったってわけ」
「……」
 あまりのことに何も言えない。
「こんなこと誰にも言えんと思って今まで黙っちょったんけど」
「……」
 知りたくはない話である。
 由美は昔からあまり、自分の恋愛の話をしないのだが。
 いくら元同僚とはいえ友達の妹の夫はないだろう。
「とりあえず、ひと月ほどずっと言えなかったこと話せてスッとしたわ」
「風邪をひとに伝染して(うつして)治したようなこと言わないで」
 秘密は他人に打ち明けてココロの重しを取るという。
 秘密を打ち明けられた方のことは考えないのかこら、とも思うが、中学生にそこまで求めるのは酷かもしれない。こんな重大なこと。
 ふと気づくと、祐介の姿がない。
 少し遠くで、ばたんとドアが開閉する音がした。
 逃げたな……と思った。時計を見ると、遅刻ギリギリな時間である。
 中学生を早く帰宅させた原因が不倫なんて、手放しで喜べないじゃない。

 それからは、横になっても眠れないし、鉛筆でデッサンしても線が不安定。
 あーもやもやする!

「アスカ、次の休み時間、ちょっと来て」
 女子の中に入っていくのも慣れたものだ。
 SHRが終わって少しの隙に、明日香に言う。
 男子どもが冷やかしそうな状況 だが、それどころではない。

「ふむふむ……」
 指されて黒板の前に立たされて、因数分解からの二次方程式を解く祐介。教師は喜んでいた。

 数学の時間が終わって、明日香と祐介、アイコンタクトで廊下に出る。
「あんまり遠くへ行けんから……ここでええか」
 階段の下にしゃがんだ。
 教室は2階にあるので1階降りてきた格好。
「あんたどうしたの。指されて正解だしちゃって」
「おふくろが、因数分解やっとけばどこか高校引っかかる言うから勉強したんよ。
 で、叔父貴と由美さんの件、おふくろにバレた」
「マジなの?」
「ああ」
「なんで」
「おふくろが朝から由美さん家に電話したら、叔父貴が出たらしい」
「家電にかけたの?」
「らしいな。それで、ラブホ街でその二人見たことあるっつったら驚いて何も言えないでおった。風邪をうつして治したようなこと言うなとか言われたな」
「なんでそんなこと」
「言えないでいたことを言えてスッとした言うたら、そう返された。大将やおばちゃんには言うなよ」
「わかった」
「戻ろうぜ」
「うん」
 こりゃ教室から離れたところで話す話題だわ、と思いながら明日香は祐介の後をついて行く。
 次の時間は公民で、教室移動も宿題もなくて助かった。
 教師と同時に教室に入る2人。ドアは違うけど。
 礼が終わった途端、後ろから祐介に話しかける者がいる。
「何内緒話よ」
「見ちゃいけないものの話や」
「話してもいけないんか?」
「こら根本ー。私語するなー」
 教師に軽く叱られて、一哉は追及を諦めた。

 子供たちがそんなやり取りをしている一方で、毬子が2時間半ほど悶々としていたら、携帯電話が鳴った。
 RRRRRRR
『もしもし』
 声を聴いてドキッとした。
「あ、由美」
『家電に電話もらったって聞いて。なんか用だった?』
「あ、藤井家とのカラオケ決まったから参加しないかと思って」
『なん日?』
 7月の第2日曜を答える。
『ごめん。行けないわその日、ライヴ観なきゃ。
 ところで来週、付き合ってくれない?』
「金曜じゃなければいいよ」
『水曜の夜でどう? おてんば屋の個室抑えとく』
「ありがと」
 三村さんから、誰から電話があったか聞いたな。
 藤花亭でなく、ハローの1階の個室おさえとくというからには、全部白状する気なのかもしれない。
 内緒話をするには、藤花亭は不向きだから。座敷とカウンターしかないから。

 話は文佳に飛ぶ。
 八木ちゃんの、声が聞きたい。
 電話してみよう。
 携帯にかけたが、出ない。
 今日山本くんと約束あるから、夜はかけれないんだけどなー。

「ただーいまー」
 祐介、帰宅第一声である。
「おかえりー」
 クロゼットの前に祐介が現れる。
「なにやっちょるん?」
「服の片付け」
 毬子は、絵を描くのも藤花亭に行くのもひと休みして、これやった方がいいかなあ、とかねて微かに思っていた、箪笥とクロゼットの片付けを始めたのである。断捨離という言葉は、まだこの頃はないか。
 床が服でいっぱいだ。
 サテンでシャンパンゴールド色のドレス、パステルピンクの春物のスーツ。ブルーのキャミソールワンピース。いろいろ。質はピンからキリまで。フリルなどの飾りはないものばかりだ。
「職場からいっぱい服持って帰って来たからね」
 もっとも、今やる気になったのは、由美のことで悶々としているのからの現実逃避目的である。
「そういや今朝なんで、由美さん家に電話したんじゃ?」
 現実逃避したがっている毬子の心理を知らん顔して、核心を突く祐介。
「もうすぐ藤井家とのカラオケあるから参加しないかって。絢子さんが呼びたがってたの。昨夜も電話したけど出なかったから」
「なるほど」
「あんた帰って来たってことは今何時なの?」
「もうすぐ4時」
「ちょっと夕飯の買い物行ってくるわ。今日は家に居るでしょ。食べよう」
 言って毬子は立ち上がった。パンパン、と手を叩く。サテンのアイボリーのキャミワンピが膝から落ちた。

 と言って、スーパーへ行き、帰宅してできた夕ご飯はハッシュドビーフとサラダだった。あと、母親から分けてもらったぬか床で漬けたキュウリ。
「元気ないな」
「そお?」
「由美さんのことそんなショックやった?」
「そりゃ……」
 わかるなら突っ込むなよ! と息子に八つ当たりするわけにもいかず。
 弟ならそれが出来たんだけどなあ……
 更に元気がなくなる毬子である。

 話は再度札幌に飛ぶ。また時計台の前。
 戸惑い気味な表情の文佳。
「来てくれてありがとう」
 またも後から現れた山本は言う。
 またススキノの方へ歩く午後5時40分。

「八木ちゃんに不満があると言えばあるよ。たとえば、こないだ東京行った時、八木ちゃん家の最寄り駅のそばにカラオケボックスがあるんだけど、そのカラオケ屋の周りが朝早くから消防車でいっぱいだったことがあって、真相わかったら教えてもらう予定だったのに、あたしから連絡取らなきゃ教えてくれないんだもん」
 居酒屋で注文を終えて、話し始める文佳である。

「おす」
「おす」
 水曜日午後7時、短い言葉だけ交わして、おてんば屋という居酒屋に入る。例の、バルサンを炊いて大騒ぎを引き起こした居酒屋である。
「予約の岩渕ですけど」
 というとすぐ個室に通された。6人くらいは入れそうな部屋。
 席にかけてすぐ。
「ビール」と由美。 
「ライムサワー」と毬子。
 それから食事のメニューを見始め、店員は個室を去っていく。
「……こっちは目撃者もいるんだから、シラ切っても無駄だからね」
 毬子は思い切って強気に出た。
「……どういうこと?」
 由美は不思議そうな顔をする。
 そもそも驚いたのは毬子の方である。なのに目撃者をおさえてあるなんて、意味が分からない。
「ひと月くらい前に、アスカと祐介が、渋谷のラブホ街で建物から出てくるあんたと三村さんを見たって言うのよ。あの電話の朝、あいつ登校前でさ、受話器落っことしてるあたしからどこへかけて誰が出たか聞いたらその話白状したわ。誰にも言えないで黙ってたんだって」
 ここまで聞いた由美は、しばらく驚きを隠さなかった。
「って、アスカちゃんと祐介? なんで?」
「そこから説明がいるのか。あのふたり最近付き合ってるのよ。あんた知らなかったっけ?」
「知らない知らない。そーか、あいつらオトシゴロなんだね……」
 ちょうどその時、有線からスターダスト・レビューの「シュガーはお年頃」という曲が流れ始めた。なんつー古い曲をなんつータイミングで、と由美は思う。音楽ライターという職業柄知っている曲だ。
「話をそらすなよ。あんただって、藤花亭じゃなくこっちでしかも個室おさえたあたり、白状する気はあるんでしょ」
「……始まりは律っちゃんの愚痴でさ」
 なんとなく理解はできなくはない。律子の人間関係と言ったら、姉である自分と夫である三村くらいでこの2人に依存してるから、三村のストレスもかなり溜まるのだろう。酷い時は買い物にも出ていかない。生協注文して取ってると言ってたか。嫁いだ時は知らない人ばかりだった取手、そのままなのだろうか。対人恐怖なのかもしれない。
 だからと言って、不倫の免罪符には、なるかならないか意見は割れるところだろうか。
 三村だって誰かを頼ったり、受け止めてもらいたいことがあるだろう。
 とはいえ、学生時代もろくに友達がいなかった律子で、依存が深くなることは予想できなかっただろうか。
「あと、あいつが終電乗れなかった日のホテル替わりね。男として見てないと言ったら嘘つけって言われるだろうし……でも情熱がないんだ最初から」
 由美はヤケのように言って、いつものメンソールの煙草をくわえた。
「情熱のない不倫なんてそんなのあるの?」
 驚いて真顔で聞き返す毬子。不倫の経験がないから余計謎になる。
 女の若さ目当ての不倫とも言い難いし。
 むしろ律子の方が若いし。
 由美から返事は返ってこない。もともと由美が聞き役に回ることの多い関係性なのだ。下手なインタビュアーである。
 由美はインタビューのプロだし。
「律子の内気さに辟易してるのは同情も共感もするけど、だからと言ってあんたと不倫というのは……」
「申し開きはできません。律ちゃんを深く傷つけそうでごめんなさい」
 由美は咥えた煙草を口から外して頭を下げた。そして続けた。
「とにかく祐介とアスカちゃんに見られてたってのは予想外だったわ」
「この話に想定内のことなんかひとつもないわ」
 と毬子はこの頃流行った言葉を口にする。
 話が一段落したところで、コンコン、と音がした。
「失礼します」
 シーザーサラダ、ほっけ、たこ焼き、イカリング、鶏の唐揚げ、などなど様々な料理が運ばれてきた。
 毬子がグレープフルーツサワー、由美がウーロンハイを注文すると店員は出ていく。
 店員が出ていくと由美は口を開いた。
「とりあえず三村に話す。あんたが律ちゃんに話すかは自由ね。三村から聞きたいだろうけど」
「あの時は驚いたって言っといて。
 あと、どっちが誘ったにせよ、傷つく人間が出るのはダメ」
「三村はあたしに頼りたい気持ちを、恋愛と勘違いしているのかも」
「どういうこと?」
「律っちゃん相手だといつも頼られるところでなくちゃいけないから、プレッシャーだと言ってた気がする。律っちゃんあの性格だし」
 うーん。とうなって考え込む毬子。
 由美は恋してる感じがしないので、情熱がないというのは本当らしい。始めた頃はあった情熱が醒めたのかもしれないが。
 恋愛よりも友情っぽいな。
 友情でベッドインしてしまうのって、腐女子が漫画にハマる際にそんな風に見える話だけど。男同士で。
 しかし、夫に若くない愛人がひとりだけ、って深刻に夫婦仲が冷え込みそうな話だな、と最近4コマ漫画で読んだ話を思い出して考えた。亡くなったダイアナ妃なんてそんなケースじゃないさ。

 その後、絵の話や仕事の話をして、午後11時に解散した。

 サッポロは。
 冗談には笑ってくれる。
 でもふとした拍子に沈んだ表情を浮かべる文佳。
 どう思ってるんだろうと山本はわからない。

 更にその翌々日は信宏と藤花亭でえある。

「ちょっと飲み歩き過ぎかな……」
 と思いつつ、いつもの通りを通って藤花亭到着。
 行動半径は500メートル以内だけど。
「何か今日信宏くんから予約入ってるけど、毬ちゃんでいいの?」
「はいあたしです」
「じゃあお座敷ね」
 サンダルを脱いであがって、しばし待つ。

「おす」
 座敷で発売されたばかりの漫画雑誌を読んでいた毬子に声がかけられる。
「おす」
「何か話進んだ?」
「注文させてよ。全然進んでないの姉ちゃん周りだけ」
 というと信宏は、ミックスとウーロンハイを頼んだ。毬子も豚玉とビールを頼む。

「ビルの屋上に置く看板を描けば良いわけ?」
「そういうこと。バスケをイメージした画像がいい」
「ラフ画像何点か見せないといけないわよね」
 直接会うか、FAXか、ラフ画をスキャンしてメールに添付して送るか。
「具体的なサイズは?」
 というとさすがにビルの看板らしく大きい数字が出てきた。600センチ×1000センチ。シートで貼り付けていくとのこと。
「となるとどこで作業すんの。作業場あんの?」
「あー、そーか……」
「あと画材は? あたし油絵はやったことないよ。アクリル画なら高校の美術の授業でやったけど」
「任せる。油絵の質感欲しい気もするけど」
「勘弁してよ」
 その時信宏は、毬子が小さなメモを片手に喋っていることに気づいた。
「姉ちゃんてメモ魔だったっけ?」
「メモ魔になったのよ。どこにネタがあるかわからんからね」
「なるほど」
「今回はメモ重要でしょ。あんたも下調べ不足じゃないの? 作業に必要な情報をもっとちょうだいよ」
「看板制作のベテランな会社があるんだ。そこと仕事するから、そこの担当者に近いうちに会わせるよ。何か完成したカラーイラスト持ってるといいかも」
「なるほど」
 その時持参する絵を塗るのはコピックでいいけど本当に仕事するならアクリル画かな……などと考えていた毬子である。2021年なら完全に、タブレットで見せるだろう。

 当面はその会社のひとに見せるイラストを描けばいいわけか。投稿用原稿用紙でいいか。できるだけ大きい方がいいはず。
 それとも、パソコンを新調する?
 サイズのことが不安ではあるけど。

 押上はそうして夜が更けていったが、八木は同じ押上で、1本の電話を受けていた。
「はい」
『八木ちゃん? やっとつかまったー』
「……」
『少しは声を聴きたいと思ったっていいじゃん!』
 それか……
「ごめん、手が離せんくて……」
『どういうつもりなの?』
「……」
 何に対して「どういうつもりなの?」かわからない八木である。
『わかった。それにしてもカラオケ屋の件と今回でよくわかった』
「何が」
『それは会ってから言う。来週休みの日札幌に来て』
「マジか! 先週広島行ったばかりじゃ……」
『いい?』
「……ハイ……」
 文佳の声音にはNOを言わさない何かがあった。
『だいたい八木ちゃんはいつもあたしにばかり連絡させてばっかで……』
 このまま文佳がまくしたてて、八木は電話を切るタイミングを計るのに30分かかった。

 来週は木曜に休みが取れている。サマーバーゲンが始まる時期だが、あとで埋め合わせするつもりである。
 職場から直接空港へ行くことになった。職場が日本橋であることに感謝したい気持ちである。羽田空港まで乗り換えなしで行ける。
 そして前日になった。
 仕事が終わって、ロッカーに入れておいたボストンバッグを出し、京急線直通都営浅草線のひとになる。職場ではすれ違うひとの目を引いた。
 文佳は実家暮らしだから泊めてもらうわけにいかない。急な話でもホテルを取るしかなかった。予定外の出費に舌打ちする。

 一日空けてくれるのかと思ったら、文佳は休みではないらしい。文句を言ったら、あたしが東京へ行った時に休み取ってくれた? と意地が悪かった。
 待ち合わせは午後5時20分、札幌時計台だ。八木が時計台に着くとほどなく文佳が現れた。
「何時の飛行機で帰るの?」
「明日の朝イチ」
「そっか。もひとり来るから待っててね」
 ? 真面目な話をするんじゃなかったんか?
 と思ってたら山本幸治が現れた。
「お久しぶりです」
「久しぶり……」
 何でここに集められたんだと言いたい心理の山本だが、それは口に出さない。
 3人はススキノへ向かって歩き始めた。

 おてんば屋のススキノ店に入った。個室を予約してあったらしい。全国チェーンなんだな、と少し驚く。「ここって押上にもあるよ」と八木は口にするが2人とも乗ってこない。
 ビールで乾杯する。
 しばらくは山本の仕事の話が盛り上げた。洋服屋である八木には、関わりはあるが知らないことの多い世界である。
 唐揚げ、たこ焼き、シーザーサラダ、その他いろいろ料理も来た。

 八木が2人と向かい合う形で座っているのだが、一切くっつかないその感じが、なにかを八木の頭に囁いていた。
 文佳が切り出したのは唐突だった。
「それでね、あたし、八木ちゃんと別れて山本くんと付き合おうと思うの」
「「え!?」」
 男二人、同時に声をあげる。
「このところ、あたし大事にされてないなってわかった。だったら山本くんに応えてみようかと思ったの」
「すいません」
 と言って山本は頭を下げた。大学時代のバイトの上司であるから、ある程度筋は通した方が良い。
「山本?」
「意思表示はしてたんで……」
 知らないうちにそんなことが起こってたんか、と驚く八木である。
「というわけで、もう八木ちゃんに会いに東京行かないし、電話もかけないから。決めたから」
「大事にしてなかったわけじゃないんよ。ただ、東京に今でも慣れてないし、先週は広島でバンド再結成したし……」
「恋愛ってタイミングだからね」
 文佳のこの台詞を最後に全員、並んだ料理を黙々と食べた。

「じゃあね、今までありがと」
「どうもすいませんでした」
 という2人の言葉を最後に2人と別れて、1キロほどめくら滅法歩き、ふと上を見上げるとテレビ塔が見えた。
 次にここに来るときは違う目的になる。
 不思議な感覚がした。
 もう午後8時だ。最終の飛行機には乗れないだろう。
 ホテルに帰って、明日の仕事に備えなければ。

『お姉ちゃん、旦那の編集部に描いてる漫画家さんのアシスタントになるんだって?』
 八木がテレビ塔を見ている頃、毬子に、律子から珍しく電話が来たと思ったら。
『ここんとこちょいちょい外泊するんだよね、ほんとに仕事かな?』
 まだ三村は彼女に話していないらしい。シラを切るのになけなしの演技力を遣う毬子。
 早く知れないかな。

 翌日、宵の口の藤花亭。
「由美ちゃん最近誰のライヴ行ったの?」
 などと藤井夫妻が由美に話しかけていると、八木が仕事帰りにボストンバッグを持ったまま、藤花亭に入った。
「あら八木さん遠くへ出かけてらしたんですか?」
「ちょっと札幌へ……」
「ひょっとして……」
 と言って隆宏は右手の小指を立てる。
「ふられましたよ」
「あー、じゃあ八木さん今夜はビール飲み放題で!」
 割と誰にでもそういうこと言うんだなこの店。
 行きつけの店つくっといてよかった。
 それっきり夫妻は仕事に集中していて八木に特に声をかけたりはしなかったけど。
 由美については、この女性ここで見たことあるな、という感覚である。

 毬子はこの時近所のスーパーにいたが、冷房が寒くて一度外へ出た。
 天気は黒雲が迫っている。
 早くお会計しようっと。

 八木が入ってから40分後。がらっと扉が開くと同時に雨の音。
「毬ちゃんこんばんは」
「うーっす、毬子」
「あー、由美、来てたの?」
「え、おふたり、友達なんすか?」
 八木はやや戦々恐々な感覚で言う。
「うん、小中学校が一緒。高校はあたし漫画ばっかり描いてたから同じところ行けなかったあはは」
 などと毬子は笑っている。
 翌日12時出勤なので、八木はそのまま閉店まで藤花亭に居た。
 
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逃げたかったのは、 疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。 無愛想で冷静な上司・東條崇雅。 その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、 仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。 けれど―― そこから、彼の態度は変わり始めた。 苦手な仕事から外され、 負担を減らされ、 静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。 「辞めるのは認めない」 そんな言葉すらないのに、 無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。 これは愛? それともただの執着? じれじれと、甘く、不器用に。 二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。 無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

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