ANGEL ATTACK

西山香葉子

文字の大きさ
上 下
6 / 18
第11章 New inmate

第11章 New inmate

しおりを挟む
「あたしの名前の漢字知らんかったんかーい、って思ったよ」
 メールを受け取った翌日曜日、由美は、大急ぎで明日朝が締め切りの原稿をやっつけた後、夕方開店の藤花亭に行き、座敷に毬子を呼び出して喋っていた。毬子は今夜は信宏とここで待ち合わせなので、信宏が来たら由美はカウンターに行くつもりだ。
 毬子は、予定より早くに藤花亭に行く羽目になったが、エータローから由美にメールが来たと聞くと表情を真剣なものに変えた。
「いつ返事するの?」
「水曜日までには返事する」
「ふうん」
「あんたどうするのよ。祐介居ること教えるの?」
「それか……」
 もうエータローは思い出のひと・過去のひとだ。ということが、この間八木に話していて気がついた。
 崎谷のことも、八木のことも気になる。
「あんたはどこまであたしのこと話す?」
「家電変わってないことまでかな」
 などと由美と毬子が喋っていると、厨房の中では、
「おかーさんおかーさん」
 と明日香が呼んでいる。
「なに明日香」
「今夜みんなで集まって勉強するから、オレンジジュース4本ちょうだい」
 明日香は母親を拝んでいるような手つきである。しかし明日香の方が5センチほど背が高いので、なんだか妙な感じ。
「4本は多い。2本だね、4本なら2本分お小遣いから引くよ」
「えーっ、そんなあ」
「うちは商売をやっているんよ、明日香」
「はあい、じゃあいらない。ちょっと買い物行ってくる」
 と言って明日香はくるりと踵を返した。

「へえ、祐介の父親が」
 由美毬子コンビに信宏が混ざって(姉弟に由美が混ざってというべきか)、座敷で喋ってる。
「イギリスでけっこう仕事してたっぽいね」
 と由美。
「俺会ったことないんだよな。ガキだからよくわからんかったし。行ってみたいけど」
「あんた仕事の方はどうなってるの」
「そうでした」
「信宏くんライヴ来る? 入れてあげられるかもしれない」
「仕事と相談ですね」
「さー、仕事の話しよ!」
 と毬子が始めたので、由美はカウンターに移動した。

「あんた全然できてないじゃん」
「誰が数学問題集110Pまでできてるって?」
「みゆき」
「すげえ」
 藤花亭の2階では、中学生の勉強会が始まろうとしていた。勉強会というより、宿題片づけ会である。明日香と祐介のやりとり。
「歴史のレポートは丸写しはバレるよ」
「そんなこと言ったってテーマ決めれんけえ」
「お姉ちゃんにノートパソコン借りようか? あと、毬子さんが持ってる歴史の漫画の感想文書くとか」
 と言っても香苗は今友人と会ってていないので、貸してくれと祐介にメールを打ってもらうことになるが。明日香は高校に入学するまで携帯電話を持てないのだ。
「ダイニングでネット出来るんかい」
 ピンポーン、と階下でインターフォンが鳴った。
 明日香が慎重に階段を降りていく。

 もっとも、毬子と信宏の今回の打ち合わせは、制作会社からの伝達事項を信宏が伝えるというものだった。
 サイズも決まった、改めてラフ描いてくれとのことである。
 デジタルにした方がいいかな……これは。
 ラフ画をスキャンして、パソコンでぺン入れして、いや、ペンタブも買うか?
「姉ちゃん?」
「ああ、ごめん」
「由美さん呼ぶ?」
「絢子さんと話してない?」
「なーにー。話終わったの?」
「うん」
 カウンターは混んでいた。
「由美がこっち来ればひとりお客さん入れられるね」
「まったく、邪険にしたり来いって言ったり……」
 由美は呆れながらも、座敷にコップと箸と皿を持ってくる。
「ミックスもう1枚」
 藤花亭の夜は更けていく。

「abが25で?」
「うんうん」
 みゆきに相槌を打つ祐介だが。
「相槌打ってないで少しは自分で考えろ」
「こーゆー時ことわざなかったっけ?」
「『下手の考え休むに似たり』を都合のいい時に持ち出すんじゃない」
「ちっ」
「英語終わった」
「ネモちゃんはやーい」
 一哉は無駄口をたたかない分早いようだ。
 中学生たちはそのまま、22時まで宿題と格闘する。終わって店に回ったところ祐介が毬子を見つけ、一緒に帰った。

 翌日。
 毬子は、池袋のビックパソコン館に行き、店員に相談に乗ってもらいながら、新しいデスクトップパソコンとペンタブ、PHOTOSHOPを選んだ。
 店員は言う。
「漫画やイラストを描くならデスクトップですよ」

 その頃由美は、締め切り前にあげた原稿のリテイクに対応しつつ、エータローあてのメールの文面を考え始める。
 以下を書いた。

「Re:俺の知っているイワブチユミに届きますように
 エータロー久しぶり。あんたが探している岩渕由美です。漢字忘れたの?笑
 毬子は元気だよ。家族が増えてる。引っ越したけど、同じ業平橋で、家の電話番号は変わってないよ。忘れてないならかけてみたら。
 あいつ今モテてるよ。
 凱旋ライヴには行きます。毬子と、当時小学生だった毬子の弟くん連れて行くつもり。
 楽しみにしています。
 怪我とかしないようにね。
               岩渕由美」


 水曜日。崎谷との待ち合わせだ。今回は絵を見てもらうので尚更緊張する。服はシャンパンゴールドのキャミソールワンピースに白いカーディガン。スカート丈は長い。
 ひと目見て、
「綺麗ですね」
 とひとこと。
「クリアファイルをめくるといろいろわかっちゃいますよー」
 と照れ隠しをする毬子。
 崎谷は服装にもかけていたのだが。それは黙っておく。
「この2枚、同じ場所なんですか? 同じ位置に同じ時計が描いてある」
「そうなんです」
 やった! 気づいてくれた!
「よく見ると皆同じ制服着てますよね。このキャラクターで何かストーリーが浮かびそうですね」
「あっはい、この女の子はパンツですけどね」
「え?」
 という崎谷は驚いた顔をした。あ。
「スラックスのことですよー」
 と言いつつこの言い回しも通じるかな、と不安になった毬子である。
「ああ、下着じゃないんですね……」
 と崎谷が赤い顔をした。

「じゃあこの4人で何か1作考えてみましょう。ネーム出来たら連絡してください」
「わかりました」
「じゃあ話題を変えて」
 と言ってから、
「すみません、ビール、ジョッキで!」
 と崎谷は大声で厨房に言った。
「あいよっ!」
 と絢子の声がする。
 その時、店の扉が開いた。
「八木さんいらっしゃーい」
 と隆宏が言う。
 ふっと入り口に目を向けた毬子に、八木は会釈をした。

 ビールが来て、崎谷は半分ほど飲む。それまで2人からは何も言葉が出ない。
「あ、あたし、崎谷さんに言わなきゃいけないことがあるんです」
「なんですか?」
 と、なんでも飲み込んでくれそうな笑顔を崎谷は向けた。
 毬子は俯く。で、一気に言う。
「あたし、子供いるんです。結婚はしたことないんですけど。中学3年の男の子。高校もやめて、この店の大将夫婦の子と一緒に3人で3人育てました……っ。黙っててごめんなさい。りんだか由美が言ってるかなとも思ってたんですが」
「そうか、大先輩なんですね……」
 崎谷は更にビールを飲む。
 岩渕は、よく友達の話をした、と、佐藤先生の結婚式の際に彼女に言ったっけ。
 昔、岩渕から頻繁に、シングルマザーの友達の話を聞いたけど、それが七瀬さんのことだったのか、とパズルのピースがはまったような感覚を味わう崎谷だった。

 八木はこの時、座敷にひと組だけいる毬子と崎谷の会話を漏れ聞いて。
「あれどういうことなんです?」
 と小声で隆宏に聞いた。
「前にあのひと毬ちゃんにここで告白しちょったんですよ。その絡みじゃないですか?」
 顔を寄せて小声で話す男2人。

「とりあえずふたりでどこかに行きませんか?」
「崎谷さんお忙しいでしょう」
「なんとかなるかと」
 漫画編集部に異動して夫婦仲が悪化したひととデートか……
 うーむ……
 恋を始めるにはふたりで出かけることが当たり前になっている方がいいけれども。
「少し考えさせてください」
 と毬子は言った。

「たまには早く帰ります」
 と言って、崎谷が伝票を持って立ち去った。
 まだ帰りたくないな。
「ここ、いいかな?」
 毬子は、ちょうど空いていた八木の隣に座る。
「どーぞ」
 八木は淡々と返す。
「毬ちゃん今日服どうしたの、珍しいの着てるね」
「店で着てたんですけど、持って帰って、カーデと合わせたら街でも着れるかなって、夏限定で」
「脚生足?」
「あ、そうだ」
 と唐突に八木が言った。
「どうしたの八木さん」
「いや、毬子さんがいたなーって。
 スカルってバンドあるじゃないですか」
 八木は上半身を毬子に向けて話す。
「ああ、あるねえ。由美がよく仕事で行ってるよ」
「そのスカルの武道館2枚取れたんですけど、一緒に行く人が居なくて。どうですか?」
 元カノの文佳と行くために取ったチケットだが、彼女と行くわけにいかないし、バンド仲間に聞いても、誰もスケジュールが合わなかった。職場ではまだ、そんな話をできるほど仲の良いひとはいない。幸いにして文佳からその件に関する問い合わせはないが。
「何日?」
「9月1日」
「行く」
 即答していた。
 スカルとはSkull。髑髏またはされこうべの意味である。こんな名前だけどヴィジュアル系ではなくて、フォークロック、王道な感じ。
「前にもミスチル歌ってたし、ああいうの好きなの?」
「うん」
「そういや前にライヴTシャツっぽいシャツ着てたね。スカルのも持ってるの?」
「うん。ライヴ行くと大抵パンフレットとTシャツは買う」
「いいね、楽しみにしてる」
「チケットいつ渡しますか?」
「当日でいいよ」
「当日何時待ち合わせにします?」
 このやり取り。
 毬子はわくわくするものを感じていた。
「4時半に業平橋駅の改札は?」
「OK。
 あー良かった。やっと決まった。ひと月くらいずっと気にかかってたんですよ。あ、メアドとか交換しときますか」
 
 連絡先を交換しながら、それ、元カノと行くつもりで取ってたんじゃないの? とツッコミたいのを、毬子は堪えていた。絢子も同様だった。

 店の扉が開いた。
「ただーいまー、あ、毬子さん」
「おかえり、香苗」
 服とメイクと髪型が、通勤時だけの無難なスタイルだ。カッターシャツに今日は、ブルーのフレアスカート。長い茶髪をひとつにまとめてる。ちなみに茶髪なので、隆宏に、店のカウンターに入ることを許されていない(これは祐介もだが)
「遅かったね、残業?」
 と言い合う。
 毬子が崎谷と離れてカウンターに来てからそこまでの間に、3回ほど毬子の肘が八木にぶつかった。
 ドキッとする八木。
 八木の、毬子と反対の隣に香苗が滑り込み、きつくなったカウンター。
 今度は毬子の左腕が八木の腕にジトっと触れる。
 袖をまくっていたので、地肌。
 何考えてんだ俺、と思う。
 それで。
「すいません、お勘定してつかあさい」
「あいよ。2300円」
 八木は財布からお金をピッタリ出して絢子に渡し、そのまま店を出ていく。
 それを受けて毬子も、
「今日はもう帰るわ」
「良かったね。打ち合わせうまくいって。
 ところでさ、八木さん、そのライヴ、元カノちゃんと行くために取ってたと違うの?」
「あたしもそう思った―!」
「しかし毬ちゃん、即答やったね。さっきの編集さんの告白には返事待たせちょるのに」
「だって、りんだの担当ですよ? あとあと面倒そうじゃないですか。八木ちゃんはそんなしがらみ全然ないし」
「ほか。あ、帰るなら400円ね」
「はあい」
 崎谷が帰ってから飲んだビール代は、しっかり取られた。

「ただーいまー」
「おかえりー。また藤花亭?」
「打ち合せしてたのよ」
 玄関まで出てきた祐介に、ストラップ付きのサンダルを脱ぎながら言う。
「宿題終わった?」
「数学で3つわからんところあるくらい」
 ほほう、今年は真面目にこなしてるんだな、と思いつつ。
「ふむ。誰かに教えてもらう?」
「そうしたい。アスカや仁科も悩んどった問題やし」
「とりあえず……大卒大卒……」
 大卒と言われてパッと頭に浮かぶのは、三村夫妻と由美である。八木は……あの歌手と同じ大学って言ってたから大卒か。
 その中でヒマなヤツと言ったら……
 律子だ。
「律子に電話するけどいい?」
「律子さんと言ったら三村の叔父さんの不倫の話どうするんだよ。まだしてないよな」
「……してない」
「どうする?」
「とりあえずうちに呼んで勉強見てもらおう」
 と、いうわけで。
 RRRRR
『はい』
「律子?」
『うん。お姉ちゃん、久しぶり』
「急で悪いんだけど、祐介の宿題見てくれるかな? 友達もわからない問題あるんだって」
『祐介やる気になったんだ。行く』
「明日来られる? もうあさってまでだから夏休み」
『わかった。何時頃にする?』
「三村さんに聞かなくていいの?」
『今日もまた遅いしね。明日出かけるくらい何も言わないでしょ』
「電話かメールくらいはしときな。じゃあ明日の11時ねって、満員電車大丈夫?」
『取手始発乗れば。
 おっけー』
 電話は切れた。

 翌日11時少し前。
 ドアチャイムが鳴って、律子が現れた。
「久しぶりー」
「久々っすー」
 部屋から出てくる祐介。
「何がわからないの?」
「証明ばっかり」
「証明か……」
 祐介の部屋に入り、
「うわ、教科書懐かしいー」
 という声が台所の毬子まで聞こえてきた。

 12時半。
「お昼出来たよーっ」
 という毬子の声で、祐介と律子が部屋から出てくる。
 焼きそばだった。プラスきゅうりとなすのぬか漬け。
「進んだ?」
「全然予習してないからね。あたしも理系じゃないからさ、あんまりあてにしないでよ」
「そんなこと言ったらあたしの周り誰も理系いないじゃん」
「八木さんは?」
「八木ちゃんだってデパートに就職したんじゃ文系なんじゃない?」
「誰それ」
 律子の瞳がやや鋭くなる。
「藤花亭の新しい常連」
「祐介がやらかしたんでお詫びに藤花亭案内したら、店を気に入ってくれたらしくて、よく会うのよ。あ、9月の1日、彼とスカル観に行くからね」
「ついたち」を「いっぴ」と毬子は言った。
「へえ……」
 お姉ちゃん相変わらず明るいなあ、と思う律子である。続いて、祐介また何をやらかしたんだか、とも。
「ふうん」
 中学も3年生になると、小さな子供の頃のように「大人は一括で大人」といかず、若いひとと年配者、というように整理されはじめてくる。でも八木の本当の年齢を知らないからか、それとも目の前の宿題のせいか、祐介はこのライヴの話をサラっと流してしまった。

 数学で3問わからない問題がある上に、歴史のレポートを書かなきゃならないのがまだ終わってない、というのがわかって、毬子が怒鳴り声をあげつつ、ノートパソコンを祐介に明け渡して。
 結局、毬子の本棚から、歴史漫画を1作読んでその感想を書くことでお茶を濁す。「アドルフに告ぐ」にした。
 夕ご飯時。
「どうするの今日」
「泊まってっていいよね」
「あたしたちはいいけど、三村さんは?」
「今から電話する」
「食べてからにしたら」
 と言っても律子はそんなに食べる方でないので、それからすぐに食べ終わって、食器を洗って戻ってきた。
 RRRRR
『はい、三村です』
「あたし」
『どうした?』
「お姉ちゃんのところに泊まっていくけど」
『わかった。迷惑かけるなよ。今日原稿取りで遅いし』
「じゃあね」
 電話を切った。
「原稿取りだって言ってるけどホントかしら。同じ雑誌ならお姉ちゃんが行ってる先生と締め切り同じでしょ?」
「漫画以外のページを作るんで忙しいんじゃないの?」
 実際今回は、まりあという雑誌の読者コーナーのカットの原稿取りだったのだが。
「それにしたってさ」
 由美に電話してみようかと思う毬子だが、取り返しのつかないことになるかと思うと、勇気は出なかった。

 翌日も、叔母甥コンビは問題に向かう。
 毬子は漫画のアイデアを練っていた。
 ネタ帳に書いていく。
 学園ものってトシでもないしなあ……
 制服と時計を同じものにしなきゃ良かったなあ。
 RRRRR
 絢子だった。
「はい。どうしたの?」
「毬ちゃん? 香苗の誕生日カラオケ日取り決まったよ」
「遅いじゃないのよー、いつ?」
 というと、絢子は9月の第2日曜日を答えた。
「あいつらは?」
 あいつら、というのは、第1章から2章にかけて明日香の誕生祝いをしていた派手な面々である。
「あいつらは1週後。当日に近い日にするみたい」
「ふうん。あたしは行く、祐介にも伝えるね」
「ありがと」
「あ、今律子来てるのよ。祐介の宿題手伝ってもらってて」
「へえ。いっぺん店に来てって言ぅゆて」
「わかった。誕生日、誰に声かけた?」
「八木さんとみゆきちゃんと一哉くん。由美ちゃんには連絡つかなくてまだ言ってない」
「返事は?」
「八木さん空いてるから行くって。あと中学生は行くって」
「由美はフリーランスだからなあ」
「じゃあ祐ちゃんに伝えてね。宿題頑張ってって」
「わかった。じゃあね」
 電話を切ると、祐介の部屋に歩いて行って。
 コンコン。
「なーにー?」
 祐介の声だ。
「入っていい?」
「いいよー」
 ガチャとドアを開けて。
「進んだ?」
「ひとつ解けた」
「良かったじゃん。でも明日までには上げたいよね」
「今日ボクシング休む!」
「あれ? 律子は?」
「トイレ」
「そうそう、今絢子さんから電話があってさ、香苗の誕生祝いカラオケやるって」 
 というセリフに続いて、9月の第2日曜という。
「あー、先輩たちに遠慮してくれたんか」
「どういうこと?」
「先輩たち連休でやるから」
「なるほど」
「戻ったよ、も少しやろっか祐介」
 対人恐怖気味な人間とは思えない明るさで、律子は祐介に声をかける。
「計算は反復練習なんだけどねえ……」
「なにそれ、どういう字書くの」
 祐介は「反復練習」という四字熟語がわからないらしい。
「『繰り返し練習すること』だよ、スラムダンクで桜木花道が2万回シュート練習するのがそれ」
「あ、ちょっと電話するね」
 毬子は由美の携帯に。
「もしもし、あたし。香苗の誕生祝いカラオケの日取りが決まったって絢子さんから電話きてさー」
『何日?』
 毬子は9月の第2日曜日を答えた。
『ごめん、その日仕事だ』
「じゃあそれ絢子さんに言って」
『了解。じゃあね。今原稿書いてんの』
「悪いね。頑張れ」
『そっちこそ』
 と切れた。
 お互い原稿を書く身になったということだ。
 ふと見ると、律子が。
「っ……」
 今にも泣きださんばかりの表情をしている。歪んでいる。
「どしたの律子」
「何であんな人と仲良くしてるのお姉ちゃん」
 涙声になった。
「……え?」
「ひとの旦那寝取って平気な顔で仕事したり生活してるような人」
「それ、疑ってたの?」
「朝電話かけると背後に彼女の声が聞こえるの。わざとかと思うくらいあった」
「それ本当の話だぜ」
「祐介!」
「最初に見たの俺とアスカやったもん。渋谷のラブホ街でその組み合わせ見て、最初の1か月誰にも言えんかった」
「あんたそんな酷なこと……」
 全員立ち上がっていた。
 律子は何も言わずに泣いている。
「本当のこと知っといた方がええよ。はっきりせんまま妄想膨れさせとくんはロクなことにならん」
「あたし家に帰らない。三村の顔二度と見たくない」
 俯いていた顔をあげてキッと壁を睨み、決意めいた言葉を口にする律子。
 勉強どころの騒ぎじゃなくなってしまった。

 3人は、15分ほど祐介の部屋に立ち尽くしていたが、律子は、
「今日中にあげなきゃいけないんでしょ、宿題やろう」
 と、自分が何のために呼ばれたのかを思い出し、祐介を机の前に座らせた。

 夕食の席で、あらためてもう家に帰らないと言い、荷物は平日昼間に帰ってつくって送る、と言った。
 問題はひとつ残すし、えらいことになったと毬子は思った。

 よく考えたら律子は、宅配便の配達員でさえも、初めてのひとは苦手なわけで。
 大丈夫かなと不安になりながら、翌日はスカルのライヴで八木と待ち合わせである。
「待った?」
「今来たとこ」
 ううう、懐かしささえ感じるなこのやり取り。
「新しいアルバム出たよね」
「うん」
「やっぱり新しいのが中心なのかな」
「アップナンバー多いからそうなんと違う? ライヴ向け」
「高校の時バンドではコピーしてたの?」
「俺らの高校の頃にはまだいなかったよ」
「あそっか、じゃあどこのバンドをコピーしてたの?」
「スピッツかな……声高くて大変だったけど、あとミスチルとかラルクとか」
「ラルクは祐介も好きだよ」
「へえ、じゃあ今度ラルクのチケット取れたら祐介くん誘おうかな」
「受験終わってからにしてね」
「そうか。ごめん。勉強の方どうなの」
「妹が来て宿題教えてた。妹、わけあって家に帰りたくないって言ってるから、受験本番まで教えてもらおうかとか考えてる」
「妹さん、結婚してるんだっけ?」
「うん」
 まずいこと聞かれたな、と思いながらも八木はそれ以上は突っ込まないでくれた。
 そのまま話し続け、電車を降り、武道館の敷地に入り、八木はツアーグッズの列に並びに行った。

 八木は、キーホルダー、パンフレット、Tシャツ、不織布バッグ、タオルなどばっちりグッズを買ってきていた。
 席はアリーナの後ろの方。
 ライヴの出来は上々で、由美、このどこかにいるかな、などと考え、そういえば由美のせいで律子が居座ることになったんだっけ、などと考えを巡らせていたところ。
 バンドやってる子たちの話にしようかしら。
 という発想が唐突に湧き出た。
 楽器描くのはプロでも面倒くさがる、というのは完全に忘れていた。

 りんだの手伝いに行ってる間に、家に誰かがいるのはいいかもしれない。
 と考えて、律子を無理に追い返さないことにした。
 それをいいことに、本当に家に帰って荷物を送りつけてきた律子である。
 スカルのライヴを見た次の次の日が、「ウッドハウス物語」の9月の仕事の日だ。

 いつものように、みわちゃんがりんだから指示を受けてきて、個々に何をやればいいか指示を出していく。
 今回はまずベタ塗りだ。
 続いてスクリーントーン貼り。
 ただし今回は、いつもより早くネームがあがったせいで、主線が入っている原稿の枚数が多いのだとか。既に、32枚中24枚に主線が入っているという。

 いつもより1日早く仕事が終わって、律子に家事をやってもらって、眠る。
 それは、律子が台所の洗い片づけをしていて、祐介が学校に行っている最中に起きた。
 RRRRR
「はい」
『国際電話です』
「なんだあ?」
 国際電話なんてあてがない。切ろうかと思った途端、ガチャっという音の後、久々に聞く声が聞こえた。
「七瀬さんのお宅ですか? 俺、エータローだけど……」
しおりを挟む

処理中です...