いつでも僕の帰る場所

高穂もか

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第八章~遥かな扉~

四百八十五話【SIDE:宏章】

 廊下を渡り、賑やかな笑い声がリビングに届いてきた。
 
 ――成、楽しそうだなぁ……
 
 綾人君の声に紛れた、かわいい妻の声に聞き入る。すると、母さんがコーヒーカップから目をあげて笑った。

「むこう、盛り上がってるねえ」
「久しぶりに会えて、嬉しいんだろうな……成が嬉しそうで、俺も嬉しいよ」

 しみじみと言うと、母さんが目を丸くした。

「ほお。それなら、ついに交流解禁しちゃうのかな?」
「それとコレとは別。兄貴とは、極力関わらせたくないから」

 しら、としてコーヒーを啜ると、母さんは両眉を上げる。
 母さんと俺は向かい合って、コーヒーを飲んでいた。コーヒーと、小腹が空いたというので作った握り飯と漬物を挟んで、ぼつぼつと話をしていたのだが。

「頑固だなあ、宏は。こんなに仲良しのふたりを引き離して、良心が痛まないのかい?」

 ずいと身を乗り出して、説教をする母に苦笑する。まったく、母親の小言というのは、いくつになっても的を射ていて困る。

「俺だって、二人を引き離したいわけじゃないよ」

 三日前から、ずっとソワソワしていた妻を思う。料理の下ごしらえをしたり、掃除をしたりと慌てている様さえ、弾む鞠みたいに楽しそうで。
 
 『成……おやつは、もう十分じゃないか?』
 『あ、あとちょっとだけ、作らせて!ナッツをマシュマロで固めたの、綾人好きやから……!』
 『俺がやるから、お前はもう座ってなさいッ』

 止めなければ、ずっともてなしの準備を続けたに違いない。
 
 ――成は、本当に綾人君が好きだよな。ちょっと妬けちまう……。
 
 病み上がりだというのに、子犬のようにはしゃいでいるのが、あんまり可愛くて。我慢させていたのが申しわけなくもある。まあ、ちょっとモヤモヤせんではないが……ふたりは友情だとわかっているので、ギリギリ許容範囲だ。
 俺が許せないのは――。

「俺はただ……成に傷ついてほしくないんだよ」

 コーヒーカップの、黒く揺らぐ水面を眺め、呟く。
 俺のことなら、いくらでも我慢できる。
 だが、成は別だ。あの子が傷つけられるようなことだけは、絶対に許せない。俺は、テーブルの上で拳を固く握りしめる。

「兄貴は成を傷つけた。また同じことをしないと言い切れないうちは、適度な距離をあけておきたいんだよ」

 兄という男は、内側に一歩踏み込ませると百歩詰めてくるようなところがあった。普段なかなか人と打ち解けないせいか、身近な人間には異常なほどに世話を焼く。美点であり、欠点であるそれはひとたび働けば、兄の”善意”の範疇にひとを押し込めようとする。
 ――そういう兄貴の性格を忘れて、成と関わらせたのは俺の落ち度だ。

「宏……」
「別に兄貴と絶縁しようとか、そんなんじゃないから。心配しないでくれ」

 いつも、家族のことばかり案じている母を安心させるよう、微笑む。すると、母さんはふうとため息をついた。

「そういうことなら、いいんだけどね。まあ、確かに朝はお節介焼きだしなあ」

 仕方ないな、と言いたげな笑みを浮かべ、手を差し出された。小言の終わりを察し、握り飯を一つ渡す。母さんは、ばくりとかぶりつき、もぐもぐと口を動かした。

「じゃあ、朝のことはそれでいいとして。さっきの話の続きなんだけどさ。――宏は、本気なんだね?」

 緩んだ空気が一瞬にして、引き締まる。俺は真顔で、カップを置いた。

「ああ、本気だよ」
「そっか……」

 母さんは、嘆息した。俺は笑う。

「俺がそう言うと解ってて、知らせてくれたんじゃないのか?」
「そりゃ、そうだけど。思いっきりが良いんだよなあ」

 綾人君と違い、母さんは今日、俺達を祝いに来てくれただけじゃなかった。
 数日前、野江本家に城山の使いがやってきたことについて、話し合うために来てくれたのだ。
 

 *
 

 『野江宏章さんと話し合いの場を持たせてほしいのです。春日成己さんの所有権について』

 城山の使いと名乗る男は、ぬけぬけと言ったらしい。応対した佐藤さんが、さっさと追い返してくれたそうだが――電話で母さんから聞いたときには、はらわたが煮えくり返る思いだった。
 
 ――俺の妻を攫い、酷い目に遭わせておいて、よくもそんな真似ができるな。
 
 すぐに話し合うべきだと思ったが、成には聞かせたくなかった。やっと体調も落ち着いてきたところなのに、また辛い思いをさせてしまう。
 
 『宏ちゃん』

 俺の腕の中で、安堵したように眠り込む成己。この優しい眠りを破ることは俺であっても許せない。

「……」

 成の部屋から届いてくる、楽しそうな声に耳をそばだてる。
 純粋に、再会を喜んでいた成を思うと、罪悪感に胸がチクリと痛んだ。
 今回、綾人君がついて行きたいと申し出てくれたのは、俺にとっても好都合だった。綾人君が成を引きつけておいてくれれば、存分に話し合える。

「母さん。成は俺の妻だ。俺は、夫として当然のことをするだけだよ」

 身を乗り出すと、母さんは頭をかいた。

「んー、僕もね。お前達が、番になったと聞いてたじゃない。それなのに、また城山がね……しゃしゃり出てくるから、驚いたのさ。もう、こっちで突っぱねようかとも思ったんだけど、一応さ」
「ありがたいよ。俺を蚊帳の外にされたら困る」

 城山が、俺の家ではなく本家に顔を出した。この時点で、母の答えはすでに決まっていたはずだ。それでも、俺に話を持って来てくれたのは、俺の顔を立ててくれたのだと思う。

「じゃあ……やるんだね?」

 浮かない顔で、母が尋ねる。俺の覚悟を推し量るような目に、迷わず頷いた。
 話を聞いた時点で、俺の答えも決まっていた。

「俺は、成を傷つけるモノを許したくない。あいつを……城山陽平を、二度と成に近づけないようにしてやりたいんだ」
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