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第一章 あやかしのいる美容室
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「髪を長くしても、邪魔なだけよ」
それは母さんの口癖のようなものだった。
僕がまだ7歳頃。肺がんを患っていた父さんが、宣告されていた余命三ヶ月の寿命を待たずして亡くなった時にも、だったと思う。
ある日、母さんが腰にまで達していた長い髪をバッサリ切り落として帰ってきた。
以来、母さんは白髪も染めなくなった。そのうち化粧すらもしなくなり、いつも質素な安物の服ばかりを着るようになっていた。そのことについて、「うちは母子家庭になったから仕方ないのよ」と姉は言っていたが、当時の僕にはよく意味が分からなかった。ただ幼心として、綺麗だった母さんが急激に老いていくような感じがして怖かったのは今でもよく覚えている。
母さんを綺麗にしてあげたいという願望が芽生えたのも、そのあたりからだろうか。
「いい龍之介、勉強よ。とにかく勉強だけを頑張りなさい。母さんみたいになっちゃダメよ」
また母さんは、ある時から教育熱心となった。まるでなにかに取り憑かれたみたく、僕に対して勉強を強要するようになった。最初は全く勉強についていけなくて、いつも母さんに叱られていた。あんなにも優しかった母さんがどうしてって、僕はよく一人で泣いていた。
そんな生活が一年くらい続いた頃。僕は徐々に、勉強というものが分かるようになっていた。学校や塾のテストでも、ある程度の高得点代を維持できるくらいには賢くなっていた。母さんが、僕のことを褒めてくれるようになった。それが無性に、嬉しかった。いくらテストで良い点数を取ったところで、ウチはご褒美なんてでない。でも僕からすれば、母さんの笑顔こそがご褒美であり、幸せだったのだ。
あとは母さんが自分のことを気にかけてくれさえすれば満足だったが、それだけはただの一回もなかった。
そして高校三年生の夏頃、本格的な受験の波に乗ろうとしていた時。僕は有名進学校のトップを貼り続けるくらい賢くなっていた。今後は医学部に進むべきだろうと、担任にも強く太鼓判を押されていた。
ただ、問題はお金だった。
「大丈夫。龍之介はなにも心配しなくていいのよ」
母さんは、僕を医学部に進ませる気でいた。でもそれがどれだけ大変なことなのかくらい、その頃にもなれば僕もちゃんと理解していた。
もっと、別のなにかが欲しかった。母さんに頼らなくても自分の力だけで生きていけるなにか、特別なものが。
ちょうど、その頃だった。
「自分の力だけで生きていける、なにか、特別なものが欲しかったんです」
パソコン越しの動画に映る彼女は、開口一番そう言った。たまたま動画サイトにアクセスして、たまたま間違ってその動画を開いてしまっただけ。でもその言葉を聞いた瞬間にも、なにか強烈な印象を突きつけられた気分だった。
「人にはない、特別なもの。それが私にとっては、誰かを綺麗にするという、ただそれだけのことだったんです」
彼女の名前は、白石美麗。都内新宿にある美容室「アテナヘアー」で勤める美容師。18歳の頃から既にそのお店で働き始め、若干23歳という若さにしてカリスマ美容師と呼ばれる存在にまで上り詰めたという。
これだと、直感的に僕はそう思った。
そんな彼女についてのインタビュー動画を見た後は、あっという間だった。
「母さん。僕、美容師になりたいんだ」
その時見せた母さんの顔とは、それはまるで鳩が豆鉄砲でも食らったような、とにかく複雑な表情をしていた。
「龍之介。あなたは私のこれまでの努力すらも、無駄にしてしまうの?」
母さんは、酷く落胆していた。ただその時の僕は、母さんの額に走る皺にばっかり目がいっていた。また、その白髪頭に。
早くどうにかしてあげたかった。今は無理でも、そのうち、いつかは。誰よりも努力して、頑張って。カリスマ美容師と、なって──
「勉強のやり過ぎで頭がおかしくなったんじゃないか? 美容師なんて肉体労働の底辺職になったら、絶対苦労するぞ」
卒業式の日。一番仲良くしていた友人には、そんなことを言われた。どうも僕は裏で、「人生ドロップアウト組」と揶揄されていたらしい。
「ま、俺には関係ないけど。とりあえず、人生の夏休みに入らせてもらいますわ」
彼は、大学を人生の夏休みと言った。彼は、受験戦争から離脱した僕を酷く見下していた。
「せいぜい頑張ってくれよ、未来のカリスマ美容師くん?」
僕の反骨精神に、火がついた瞬間だった。
鎌倉美容専門学校卒業後は、希望通り「アテナヘアー」で働くことが決まった。
その店名は、ギリシャ神話に登場する戦の女神に由来しているという。「気高く強い美しい女性を創り上げる」というコンセプトのもと、数々の賞コンテストで華々しい功績を納め、また舞台やテレビで活躍する有名人たちを受け持つ超有名な美容室だ。それこそ全国から美容師たちが集まり、数多くの美容師が夢破れ、選ばれた美容師だけが生き残る。そんなにも過酷な、栄光と挫折が表裏一体の世界。
その中には、もちろん彼女もいた。
「よろしくね、龍之介くん」
憧れの存在、白石美麗。やはり、彼女は「アテナヘアー」の中でも突出した才覚を発揮していた。いち早く、彼女の隣に並びたかった。
終電がなくなるまで毎日練習に明け暮れ、翌日は誰よりも早く出勤して朝練をした──シャンプーのやり過ぎで、酷い手荒れを起こしかゆくて眠れない夜が続いた──激務過ぎて、たった半年間で六人いた同期は僕を残して全員が辞めた。
想像を絶するハードな日常の連続だ。それでも、僕は負けたくなかった。絶対に美容師で成り上がってやろうと、死ぬ気で頑張ったのだ。
その甲斐もあって、いつしか僕は「巷で話題のイケメンカリスマ美容師」などとSNSで騒がれ始め、雑誌やテレビの取材が一気に入ってきた。僕の技術を求めて、全国から予約が殺到。そのうち何人もの有名芸能人を担当することになっていた。休んでいる暇がないくらいの多忙な毎日であった。
そんな僕は今現在、北鎌倉の実家に寄生している。帰省ではなく、寄生だ。
寄生して、もう一年になる。
それは母さんの口癖のようなものだった。
僕がまだ7歳頃。肺がんを患っていた父さんが、宣告されていた余命三ヶ月の寿命を待たずして亡くなった時にも、だったと思う。
ある日、母さんが腰にまで達していた長い髪をバッサリ切り落として帰ってきた。
以来、母さんは白髪も染めなくなった。そのうち化粧すらもしなくなり、いつも質素な安物の服ばかりを着るようになっていた。そのことについて、「うちは母子家庭になったから仕方ないのよ」と姉は言っていたが、当時の僕にはよく意味が分からなかった。ただ幼心として、綺麗だった母さんが急激に老いていくような感じがして怖かったのは今でもよく覚えている。
母さんを綺麗にしてあげたいという願望が芽生えたのも、そのあたりからだろうか。
「いい龍之介、勉強よ。とにかく勉強だけを頑張りなさい。母さんみたいになっちゃダメよ」
また母さんは、ある時から教育熱心となった。まるでなにかに取り憑かれたみたく、僕に対して勉強を強要するようになった。最初は全く勉強についていけなくて、いつも母さんに叱られていた。あんなにも優しかった母さんがどうしてって、僕はよく一人で泣いていた。
そんな生活が一年くらい続いた頃。僕は徐々に、勉強というものが分かるようになっていた。学校や塾のテストでも、ある程度の高得点代を維持できるくらいには賢くなっていた。母さんが、僕のことを褒めてくれるようになった。それが無性に、嬉しかった。いくらテストで良い点数を取ったところで、ウチはご褒美なんてでない。でも僕からすれば、母さんの笑顔こそがご褒美であり、幸せだったのだ。
あとは母さんが自分のことを気にかけてくれさえすれば満足だったが、それだけはただの一回もなかった。
そして高校三年生の夏頃、本格的な受験の波に乗ろうとしていた時。僕は有名進学校のトップを貼り続けるくらい賢くなっていた。今後は医学部に進むべきだろうと、担任にも強く太鼓判を押されていた。
ただ、問題はお金だった。
「大丈夫。龍之介はなにも心配しなくていいのよ」
母さんは、僕を医学部に進ませる気でいた。でもそれがどれだけ大変なことなのかくらい、その頃にもなれば僕もちゃんと理解していた。
もっと、別のなにかが欲しかった。母さんに頼らなくても自分の力だけで生きていけるなにか、特別なものが。
ちょうど、その頃だった。
「自分の力だけで生きていける、なにか、特別なものが欲しかったんです」
パソコン越しの動画に映る彼女は、開口一番そう言った。たまたま動画サイトにアクセスして、たまたま間違ってその動画を開いてしまっただけ。でもその言葉を聞いた瞬間にも、なにか強烈な印象を突きつけられた気分だった。
「人にはない、特別なもの。それが私にとっては、誰かを綺麗にするという、ただそれだけのことだったんです」
彼女の名前は、白石美麗。都内新宿にある美容室「アテナヘアー」で勤める美容師。18歳の頃から既にそのお店で働き始め、若干23歳という若さにしてカリスマ美容師と呼ばれる存在にまで上り詰めたという。
これだと、直感的に僕はそう思った。
そんな彼女についてのインタビュー動画を見た後は、あっという間だった。
「母さん。僕、美容師になりたいんだ」
その時見せた母さんの顔とは、それはまるで鳩が豆鉄砲でも食らったような、とにかく複雑な表情をしていた。
「龍之介。あなたは私のこれまでの努力すらも、無駄にしてしまうの?」
母さんは、酷く落胆していた。ただその時の僕は、母さんの額に走る皺にばっかり目がいっていた。また、その白髪頭に。
早くどうにかしてあげたかった。今は無理でも、そのうち、いつかは。誰よりも努力して、頑張って。カリスマ美容師と、なって──
「勉強のやり過ぎで頭がおかしくなったんじゃないか? 美容師なんて肉体労働の底辺職になったら、絶対苦労するぞ」
卒業式の日。一番仲良くしていた友人には、そんなことを言われた。どうも僕は裏で、「人生ドロップアウト組」と揶揄されていたらしい。
「ま、俺には関係ないけど。とりあえず、人生の夏休みに入らせてもらいますわ」
彼は、大学を人生の夏休みと言った。彼は、受験戦争から離脱した僕を酷く見下していた。
「せいぜい頑張ってくれよ、未来のカリスマ美容師くん?」
僕の反骨精神に、火がついた瞬間だった。
鎌倉美容専門学校卒業後は、希望通り「アテナヘアー」で働くことが決まった。
その店名は、ギリシャ神話に登場する戦の女神に由来しているという。「気高く強い美しい女性を創り上げる」というコンセプトのもと、数々の賞コンテストで華々しい功績を納め、また舞台やテレビで活躍する有名人たちを受け持つ超有名な美容室だ。それこそ全国から美容師たちが集まり、数多くの美容師が夢破れ、選ばれた美容師だけが生き残る。そんなにも過酷な、栄光と挫折が表裏一体の世界。
その中には、もちろん彼女もいた。
「よろしくね、龍之介くん」
憧れの存在、白石美麗。やはり、彼女は「アテナヘアー」の中でも突出した才覚を発揮していた。いち早く、彼女の隣に並びたかった。
終電がなくなるまで毎日練習に明け暮れ、翌日は誰よりも早く出勤して朝練をした──シャンプーのやり過ぎで、酷い手荒れを起こしかゆくて眠れない夜が続いた──激務過ぎて、たった半年間で六人いた同期は僕を残して全員が辞めた。
想像を絶するハードな日常の連続だ。それでも、僕は負けたくなかった。絶対に美容師で成り上がってやろうと、死ぬ気で頑張ったのだ。
その甲斐もあって、いつしか僕は「巷で話題のイケメンカリスマ美容師」などとSNSで騒がれ始め、雑誌やテレビの取材が一気に入ってきた。僕の技術を求めて、全国から予約が殺到。そのうち何人もの有名芸能人を担当することになっていた。休んでいる暇がないくらいの多忙な毎日であった。
そんな僕は今現在、北鎌倉の実家に寄生している。帰省ではなく、寄生だ。
寄生して、もう一年になる。
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