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霧雨の森
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ここは晴れがなかった。
青い空は本の挿絵だけの幻であった。
⁂
雨粒たちの絶え間ないノックに、窓ガラスもうんざりしていそうだ。よく耐えていると思う。カントリー調のキッチン——小さな食卓に赤いマグカップを置き、丸椅子に腰掛け、ほっと短いため息とともに窓の向こうの空をみやった。どんよりした雨雲の群は足早に、背高い木々の梢がその競争を眺めている。今日はさほど強い雨ではない。
時計は午後三時を示していた。
つとカチャカチャと機械的な音が背に聞かれ、振り返ると、そこにはお盆に茶器とビスケットを乗せた、ブロンド髪の給仕の少女の姿態が迫りつつあった。はたして彼女はロボットである。よく働いてくれるのだが、なぜ私の面倒をみるのか、誰につくられたのか、いつから居るのか、どうして十五時きっかりにバター茶とビスケットを用意するのか、少女の得体は未だ未開だ。質問に一度も答をくれないので、もはや気にしないし、考えないことにしている。
ちなみにキッチンは別にもう一つ設けてあって、彼女はそこで製菓するらしい。私はここが一番落ち着くので、ひねもすこちらにて過ごす。
少女は私の対面に着席した。お互い黙して一緒にバター茶を飲み、ビスケットを食べながら、ペリー・コモが古いラジカセの中で歌っているのを楽しむ。
いつもの午下り。
そんなゆるやかな時間が好きだった。しかし、突然にしてそれは耳慣れぬ音をもって断たれた。初めて得た音である。どこから聞こえたのかは瞭然だ。息を凝らした。玄関の方で、ふたたびジリジリという音が鳴った。
⁂
「どうも、こんにちは」
こわごわドアスコープを覗いたおり、濡れそぼる黒髪は毛先をまったくうなじの方へ流し、紺色をした外套の肩を雨に湿して、ポーラーハットを胸に抱えた、老年の紳士がにこやかにそう言った。
「こんにちは」
私はすぐ口許を手で隠した。俯いた。なにぶん声を発すに久しく、だから声帯は衰えをあらわし、結果、しゃがれたようなおかしな声音になったのが恥ずかしかったのだ。下唇を噛んでまた彼を見た。紳士の微笑は増したけれど、むしろそれは嘲りの類とは異なる慈愛の笑みに近しい。私の警戒がちょっとゆるんだ。
「失礼しました。なにかご用でしょうか」
「森に迷ってしまいまして、道をお尋ねしたいのです。街へ出るにはどちらへゆけばよろしいですかな」
ふと困った。ついぞ家から出たことがない故、答える術を見出せずしばし沈黙していると、紳士が心配そうに「もしもし?」......話しかけてくる。
——急かさないで欲しいわ、頭が真っ白になるじゃない!
「もしもし?」
「ごめんなさい、わかりかねます」
「そうですか。では......」
あきらめるのかと思いきや、しかし彼は「一晩泊めてくださいませんか」と申し立てた。
「そろそろ夜が来ます。そうなると、森の脱出は極めて難しくなるでしょうし、ともすれば野犬に襲われます。どうか、一晩だけ」
「ごめんなさい」
「え?」
「無理なんです」
私は玄関扉のやや右下を見つめて言った。ドアノブがあるはずの所はそれらしい痕跡を残して蝋か何かで埋められ、微動もしない木の板は覚えない数多の引っかき傷と冬の温度とを厳しく保っていた。
扉の向こうで紳士の歎く声がした。
「母さん、もういい加減にしてくれ!」
了
青い空は本の挿絵だけの幻であった。
⁂
雨粒たちの絶え間ないノックに、窓ガラスもうんざりしていそうだ。よく耐えていると思う。カントリー調のキッチン——小さな食卓に赤いマグカップを置き、丸椅子に腰掛け、ほっと短いため息とともに窓の向こうの空をみやった。どんよりした雨雲の群は足早に、背高い木々の梢がその競争を眺めている。今日はさほど強い雨ではない。
時計は午後三時を示していた。
つとカチャカチャと機械的な音が背に聞かれ、振り返ると、そこにはお盆に茶器とビスケットを乗せた、ブロンド髪の給仕の少女の姿態が迫りつつあった。はたして彼女はロボットである。よく働いてくれるのだが、なぜ私の面倒をみるのか、誰につくられたのか、いつから居るのか、どうして十五時きっかりにバター茶とビスケットを用意するのか、少女の得体は未だ未開だ。質問に一度も答をくれないので、もはや気にしないし、考えないことにしている。
ちなみにキッチンは別にもう一つ設けてあって、彼女はそこで製菓するらしい。私はここが一番落ち着くので、ひねもすこちらにて過ごす。
少女は私の対面に着席した。お互い黙して一緒にバター茶を飲み、ビスケットを食べながら、ペリー・コモが古いラジカセの中で歌っているのを楽しむ。
いつもの午下り。
そんなゆるやかな時間が好きだった。しかし、突然にしてそれは耳慣れぬ音をもって断たれた。初めて得た音である。どこから聞こえたのかは瞭然だ。息を凝らした。玄関の方で、ふたたびジリジリという音が鳴った。
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「どうも、こんにちは」
こわごわドアスコープを覗いたおり、濡れそぼる黒髪は毛先をまったくうなじの方へ流し、紺色をした外套の肩を雨に湿して、ポーラーハットを胸に抱えた、老年の紳士がにこやかにそう言った。
「こんにちは」
私はすぐ口許を手で隠した。俯いた。なにぶん声を発すに久しく、だから声帯は衰えをあらわし、結果、しゃがれたようなおかしな声音になったのが恥ずかしかったのだ。下唇を噛んでまた彼を見た。紳士の微笑は増したけれど、むしろそれは嘲りの類とは異なる慈愛の笑みに近しい。私の警戒がちょっとゆるんだ。
「失礼しました。なにかご用でしょうか」
「森に迷ってしまいまして、道をお尋ねしたいのです。街へ出るにはどちらへゆけばよろしいですかな」
ふと困った。ついぞ家から出たことがない故、答える術を見出せずしばし沈黙していると、紳士が心配そうに「もしもし?」......話しかけてくる。
——急かさないで欲しいわ、頭が真っ白になるじゃない!
「もしもし?」
「ごめんなさい、わかりかねます」
「そうですか。では......」
あきらめるのかと思いきや、しかし彼は「一晩泊めてくださいませんか」と申し立てた。
「そろそろ夜が来ます。そうなると、森の脱出は極めて難しくなるでしょうし、ともすれば野犬に襲われます。どうか、一晩だけ」
「ごめんなさい」
「え?」
「無理なんです」
私は玄関扉のやや右下を見つめて言った。ドアノブがあるはずの所はそれらしい痕跡を残して蝋か何かで埋められ、微動もしない木の板は覚えない数多の引っかき傷と冬の温度とを厳しく保っていた。
扉の向こうで紳士の歎く声がした。
「母さん、もういい加減にしてくれ!」
了
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