神様スイッチボックス

葦元狐雪

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静かな世界

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 僕は走っている。
冷たい空気が頬を叩き、白色のスニーカーがアスファルトを蹴り上げる。肺に流れ込む空気は喉を傷つけ、込み上げてくる痰の塊に、思わず「オエッ」とした吐き気を催す。
 相変わらず、静寂な世界は靴の鳴らす音と、呼吸の音だけに耳を傾けている。視界に入る色とりどりの立ち並ぶ街路樹に、ピクリとも動かない通行人たちは、さながら、大規模な現代アートのようである。体が熱いので、とうとう私服の青いジャケットを脱ぎ捨て、シャツの袖をめくり上げた。呼吸のリズムを乱す、道行く障害物をかわしながら走っていると、前方には、オレンジ色の大型バスが歩道の縁石に乗り上げ、街路樹に衝突する寸前で止まっていた。
 「一体何事だ」と思った僕は、一旦走ることを止め、荒い呼吸を整えることにした。幸いにもバスの周囲には通行人はいないが、車内には、何人か乗客が取り残されたままであることが確認出来る。
乗降口に近寄り、扉越しに中の様子を覗き込むと、頭に両手を当て、うずくまる運転手が目に入る。まるで、「許してください、なんでもしますから」などと言い出しそうな具合だ。しかし、この運転手はなぜうずくまっているのだ。操縦を諦めたのだろうか。
 奥の方に目を向けると、迫真の表情をした年端の行かない男の子が、何かを投げつけているような格好をして固まっている。その男の子の目線の先には、座席に運転手と同じような格好でうずくまる、黒いスーツを着たサラリーマンらしき男性がいた。もしや、この男がバスを事故へ導いた原因ではないかと推測するが、周囲を観察すると、男の子以外の乗客は何かに怯えた表情をしているため、おそらく、自身の予想は違うのだと思われる。ではこの男の子が犯人なのか? いや、小学生ほどの年齢の人物が、たった一人でこれほどの事態を作ることは考え難いだろう。もし仮にナイフを持って乗客たちを威嚇したとしても、子供1人なら、大人が2人もいれば簡単に沈黙化できるはずである。
 はっきり言って異様な光景だ。状況がさっぱりわからない。とりあえず僕は、時が動き出した場合を考えて乗客たちを避難させることにした。避難させると言っても、無論、彼らは動くことができないため抱えるか、もしくは引きずって降ろすしかない。僕は閉まっている乗降口の扉を力ずくで開くと、一番奥の座席にいる老婦人を引きずり下ろす。そのまま次々と乗客を引きずり下ろしていき、残るは運転手のみである。どうやらこの時が止まった状態の『物体』は、なぜか一切の重さを感じることがなく、容易に運ぶことができた。助ける途中、座席の下に牛乳瓶が転がっていたが気にしないことにする。考えたら長くなってしまうからな。引きずられる運転手に僕は言う。「運転手は最後に逃げないとダメなんだ。これは『船員法』で定められた立派な決まりだからな。あれ? 『船員法』だから船だけに適応されるのかな? まぁいいか、結局助けたのは通りすがりの僕なんだから」
 乗客たちを助けた後、僕は再び病院に向かって走り出した。あれほど救出に時間を割いたにもかかわらず、全く時が進んでいないことは幸いだった。あの『スイッチ』が原因であることは間違いないが、未だに信じきれてはいない。突然時が動き出すことも考えられるし、すべての時間が止まっているとは限らないのだ。もしかすると、停止する範囲がある程度決まっていて、病院では普通に時間が進んでいるかもしれない。などと様々な可能性を思案してしまうが、考えていても仕方ないので、横腹の痛みに耐えながら走る。
 それにしても不思議な感覚だ。自身が放つ音だけが聞こえるこの空間は、不気味でもあり、それがまた心地よくもあった。まるで自分だけの世界を手に入れたようで、幼い頃はこんな夢を見ていたような気がする。不謹慎ではあるが、もう少しこの世界を満喫してみたいという思考がフッと現れたが、それを、怒っている妻のイメージが黒板消しで消し去ってしまった。妻は窓を開け放つと、黒板消しをパンパンと叩き、腰に両手を当て「こんな時に何を考えているの? 一刻も早く来てちょうだい!」と言い、「ごめんなさい、今すぐ行きます」と僕は深々と頭を下げる。
 しかし喉が乾く。ずっと走っているから、もう口の中の水分はほとんどなくなり、苦肉な策として、自分の唾液を飲むことでなんとか凌いでいる。遠くに自動販売機が目にはいるが、そういえば時が止まっていたんだった、とがっかりした気分になり、そうなると、僕は最終手段である『梅干しのイメージ』をするしかなかった。
 視界の少し先に、伊勢君と立ち寄った喫茶店があり、あと数100メートルで病院に到着することが分かると、走るペースがグンと早くなる。息遣いは犬のように激しく、時折、片足の力が抜けて躓きそうになるが、なんとか体制を立て直す。
あと少しで着く、待っていてくれ。
しかし自分の意思に反して足取りは重くなり、とうとう地面に倒れ伏してしまった。壊れかけの笛の音色のような音を口から出し、額からはとめどなく汗が流れ出てくる。やはり日頃から運動をしておくべきだったな、と今更どうしようもないことを考えるが、そんなことはどうでもいいのだ、今は病院へ行くことだけを考えるのだ、と自身を奮い立たせるも、力を失った両脚はひ弱に震えるだけであった。

「くそっ! あと少しで辿り着くんだ、助けないといけないんだよ、家族を助けさせてくれよ」

己の貧弱さに軽蔑し、目からは悔し涙が溢れ出てくる。頬を伝い、口内へと忍び込んだ塩水は、渇ききった喉にわずかな安らぎを与える。

「おいおい、そこで終わりか? 情けねぇなぁ。あともう少しじゃないか。ほら、立てよ」

またしても、伊勢君の声が聞こえてきた気がした。「うるさい」と言おうとするが、言葉ひとつも発することができないほど疲弊していた。よろけながら、そばにあった街路樹に捕まりながらなんとか立ち上がると、目にまとわりついている涙を乱暴に腕で拭う。夜空には星がいくつか輝いており、冬の澄んだ空気ならではの美しさを魅せている。
 ふと、その情緒溢れる空を見上げると、黒い大きな塊が高くに浮かんでいるように見えた。幻かと思い、目を擦った後にもう一度見上げると、それが月の光さえ蔽い隠してしまうほど巨大な物体が、遥か空に停止していることは事実であると認識せざるをえなかった。
 僕は乱れた息を整えると、必死の形相で走り出した。いますぐに家族に会い、愛しているということや、別れの言葉を一刻も早く伝えたかったのだ。
 バネ仕掛けの人形のような足取りで走る僕を、黒く巨大な隕石が見下ろしていた。
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