悪役令嬢レベル100

夏見ナイ

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第53話 『本物』のアシュリーの日記

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秘密の部屋は静寂に満ちていた。
魔石の放つ淡い光が私の顔を青白く照らし出す。私は机の前に座ったまま、目の前に置かれた一冊の日記から目を離すことができなかった。
頭がうまく働かない。
ページに綴られていた衝撃的な内容が、私の思考を麻痺させていた。
この日記の書き手。
私がこの身体に憑依する前の、正真正銘の『アシュリー・フォン・ヴァルハイト』。
彼女は私と同じ、日本からの転生者だった。
それも一度や二度ではない。何度もこの世界で生と死を、そして世界の滅びを繰り返してきた、ループする運命に囚われた魂。
「……嘘でしょう」
乾いた唇からか細い声が漏れた。
私はまるで何かに憑かれたかのように、再び日記の最初のページを開いた。
流麗で力強い筆跡。それは間違いなく私が鏡の前でサインの練習をする時に書く文字と同じだった。だが、そこに込められた魂の重みは、私のそれとは比較にならないほど重く、そして悲痛だった。

『○月×日。晴れ。
今日、私は十五回目の誕生日を迎えた。そして、全ての記憶を取り戻した。
ああ、また『ここ』から始まるのか。
ヴァルハイト公爵家の庭園。咲き乱れる薔薇の香り。侍女が淹れてくれた紅茶の味。
全てが懐かしく、そして全てが絶望の色を帯びて見える。
これが私の七度目の人生の始まり』

日記はそんな諦念に満ちた言葉から始まっていた。
読み進めるうちに、彼女の壮絶な人生の断片が私の頭の中に流れ込んでくる。
一度目の人生。
彼女は何も知らなかった。乙女ゲームの世界に転生したことに純粋に喜び、悪役令嬢としての運命を回避しようと努力した。そして、見事に王子とのハッピーエンドを掴み取った。
しかし、その先に待っていたのは世界の滅びだった。
聖女リリアがその癒やしの力を完全に覚醒させた時、空が裂け、大地から『古の災厄』が溢れ出した。国々は崩壊し、愛する人々は目の前で塵と化していった。
彼女は何もできずに、ただ絶望の中で死んでいった。

『二度目の人生で私は全てを思い出した。そして悟った。これはハッピーエンドの先に真のバッドエンドが隠されている、呪われたゲームなのだと』

二度目、三度目、四度目。
彼女は諦めなかった。
あらゆるルートを試し、あらゆる選択肢を選んだ。騎士団長の息子と結ばれても、宰相の息子と手を取り合っても、あるいは誰とも結ばず一人で国を支えようとしても。
結果はいつも同じだった。
聖女が覚醒し、世界は滅びる。
その、変えようのない絶対的な結末。

『五度目の人生。私は聖女リリアを殺すことを試みた。彼女さえいなければ災厄の引き金は引かれないはずだと。
だが、無駄だった。私が彼女を手にかけようとすると世界の理そのものが私を阻んだ。まるで物語の筋書きから逸脱することを許さないとでも言うように。そして、リリアを害そうとした私は王子に断罪され、断頭台の上で六度目の人生の始まりを迎えることになった』

その文章からは血を吐くような無力感と、深い疲労が滲み出ていた。
私は知らず知らずのうちに、日記のページを握る手に力が入っていた。
この『アシュリー』という少女は、私とは全く違う。
私はこの世界に来て、面倒事から逃げることしか考えていなかった。追放され、誰にも知られず静かに暮らすことだけを夢見ていた。
だが、彼女は違った。
逃げることも諦めることもせず、たった一人でこの世界の呪われた運命に立ち向かおうとしていたのだ。
その手段があまりにも苛烈で、破壊的であったとしても。

『六度目の人生で私はついに世界の構造の真実に触れた。災厄の正体。聖女の役割。そして、エネルギー源となる五カ国の聖地の存在。
このループを断ち切る方法は一つしかない。
私が悪になるのだ。
世界中から憎まれ恐れられる、絶対的な悪役になる。
誰にも悲しまれず、誰にも惜しまれず、ただ一人で罪を背負い世界の土台となっている聖地を、国ごと破壊する。
それが私の七度目の人生の唯一の目標』

彼女の決意は悲壮なまでに固かった。
私が見たあの断片的な戦場の記憶。
憎悪と罵声を浴びながら、彼女は一体どんな思いで剣を振るっていたのだろうか。
『五国の破壊者』『虐殺の紅姫』。
その不名誉な称号は彼女が自ら選び取った、孤独な戦士の証だったのだ。
私は胸が締め付けられるような痛みを感じた。
同情?憐憫?
違う。
それは自分と同じ『転生者』でありながら、あまりにも違う生き方を選んだ一人の少女に対する畏敬の念に近かった。
彼女は英雄だった。
誰にも知られることのない、悪の仮面を被った真の英雄だったのだ。
私はそっと日記のページを閉じた。
これ以上読み進めるのが怖くなった。
この日記に込められた彼女の覚悟と孤独と絶望の重みに、私の心が耐えきれそうになかった。
「……私には、関係ない」
私は自分に言い聞かせるように呟いた。
「これは彼女の物語。私の物語じゃない。私は何も知らない。何も見なかった」
そうだ。
私はこの重すぎるバトンを受け取るつもりなど毛頭ない。
世界を救う?最後の希望?
冗談じゃない。そんな面倒事、誰が引き受けるものか。
私の目標はあくまでスローライフ。穏やかで、平和で、退屈な毎日。
それだけだ。
私は決意を固めるように椅子から立ち上がった。
そして、この秘密の部屋から一刻も早く立ち去ろうとした。
この日記の存在を記憶の底に封じ込めて、忘れてしまおう。
そうすれば、またいつもの日常に戻れるはずだ。
私は通路へと続く出口に向かって早足で歩き出した。
しかし、数歩進んだところで私の足はぴたりと止まった。
脳裏に日記の最後の言葉が蘇る。

『お願い。
私の代わりに、この、あまりにも美しくて残酷な世界を救って』

それは呪いのようだった。
七度の絶望を繰り返し、心が折れて消えていった少女の最後の祈り。
「……っ」
私は胸を押さえた。
忘れることなどできない。
一度知ってしまった真実から目を逸らすことなどできはしない。
私の心に一本の、決して抜けることのない棘が深く、深く突き刺さってしまった。
面倒だ。
とてつもなく、面倒なことに巻き込まれてしまった。
だが、それと同時に私の心の奥底で、これまで感じたことのない小さな感情が芽生え始めていることにも気づいていた。
それは怒りだったのかもしれない。
こんな理不尽な運命をたった一人で背負わされた、名も知らぬ同郷の少女に対する。
そして、そんな彼女の覚悟を踏みにじるかのように、のうのうと続いているこの世界の理そのものに対する。
私はしばらくその場に立ち尽くした。
そして、やがて一つの大きなため息をつくと踵を返し、再びあの机へと戻っていった。
そして、先ほど閉じたばかりの日記を再びその手に取った。
もう少しだけ。
もう少しだけ、この孤独な戦士の物語を知る必要がありそうだ。
私のスローライフ計画は、この瞬間、大きく、そして決定的にその軌道を変え始めていた。
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