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第6話 最後の優しさ
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俺は無力だった。
彼女の苦しみを前にして、俺にできることは何もない。聖女イリーナのような治癒の奇跡も、賢者マルスのような状況を打開する魔法も、俺は持っていない。ただ、そこにいることしかできない。それは、かつてパーティーにいた頃と何も変わらなかった。
彼女の苦しげな呼吸が、静かな堂内に響き続ける。高熱で朦朧としながらも、彼女は必死に痛みに耐えていた。その額に浮かぶ汗は、まるで血の涙のようだ。
このままでは、彼女は衰弱してしまう。
何か、何かできることはないか。
思考を巡らせる。そうだ、栄養だ。高熱で体力を消耗しているなら、せめて何かを口にしなければならない。パーティーにいた頃、皆の体調管理をするのは俺の役目だった。風邪をひいた仲間には、消化が良くて栄養のあるスープを作ってやったものだ。
もちろん、今ここにスープを作る材料も道具もない。だが、何か腹に入れられるものなら。
俺はゆっくりと立ち上がった。その物音に、セレスティアがびくりと肩を震わせる。
「……どこへ、行くの」
その声には、見捨てられることへの恐怖が微かに滲んでいた。
「すぐに戻る。ここで待っていてくれ」
俺はそれだけ言うと、彼女に背を向けて教会を後にした。
村に戻る道を、今度は駆け足で下りる。目指すは、村に一軒だけある小さな雑貨屋だ。店先で干し肉やパンを売っていたのを、先ほど通りかかった時に見ていた。
店に入ると、無愛想な女主人が訝しげな顔でこちらを一瞥した。構わずに、店先に並べられたパンを手に取る。その中に、緑色の練り込まれたパンがあった。
「婆さん、これは?」
「……薬草パンさ。気休め程度の滋養強壮にはなるかね」
これだ。俺は懐を探り、持っていた銅貨を全て取り出した。森で拾った珍しい木の実を、旅の行商人に売って手に入れた、なけなしの金だ。それをカウンターに置く。薬草パンを一つ買うと、ちょうどぴったりの金額だった。
これで、俺はまた無一文になった。だが、不思議と後悔はなかった。
パンを懐にしまい、再び丘の上の教会へと急ぐ。戻ってきた俺の姿を見て、セレスティアは少しだけ安堵したような表情を浮かべた。
俺は彼女の前にしゃがみこみ、懐からまだ温かいパンを取り出して差し出した。
「これを」
セレスティアは、俺の手にあるパンと俺の顔を、戸惑ったように交互に見た。
「……なに?」
「薬草パンだ。少しは足しになるだろう。腹が減っているはずだ」
彼女はすぐには意味が理解できないようだった。ただ、戸惑った目で俺を見つめている。
「……どうして」
「どうして、と言われてもな。あんた、倒れそうだったから」
俺のぶっきらぼうな答えに、彼女はますます困惑した顔になる。
「……施しなら、いらないわ。わたしは、哀れんでもらうために、こんなことをしているんじゃない」
彼女は顔をそむけ、か細い声で抵抗した。その言葉には、彼女が守り続けてきたであろう、最後のプライドが感じられた。
「哀れんでなどいない」
俺は即座に否定した。
「ただ、俺も腹が減っていた。だから、自分の分を買うついでに、あんたの分も買ってきた。それだけだ」
嘘だった。俺は自分のパンなど買っていない。なけなしの銅貨は、全てこの一つのパンに消えた。だが、そうでも言わなければ、彼女はこのパンを受け取らないだろう。
俺はパンを彼女の膝元にそっと置いた。
「いらないなら、それでもいい。ここに置いておく」
そう言って立ち上がり、彼女から少し距離を取る。無理強いはしたくなかった。
しばらくの沈黙が流れた。セレスティアは膝元のパンを、じっと見つめている。やがて、彼女は震える手で、おそるおそるパンに触れた。
その指先に、パンの温かさが伝わったのだろう。彼女の肩が、小さく震えた。
彼女はパンを手に取ると、小さな口で、ゆっくりとかじった。ぱさついたパンだが、薬草の香りがほのかにする。彼女は何度も、何度も咀嚼し、そしてこくりと飲み込んだ。
その瞬間だった。
彼女の大きな青い瞳から、堰を切ったように涙が溢れ出した。ぽろぽろと、大粒の涙が頬を伝い、膝の上に落ちていく。嗚咽を漏らすでもなく、ただ静かに、とめどなく涙を流し続けていた。
それは、痛みや苦しみから来る涙ではなかった。
長い孤独の中で凍りついていた心が、パンの温かさで、人の優しさで、ゆっくりと溶けていくような、そんな涙だった。これまで誰にも向けられなかった、純粋な善意。見返りを求めない、ただの優しさ。それが、今の彼女には何よりも胸に染みたのだろう。
その姿を見て、俺はたまらなくなった。泣いている彼女を、どうにかしてやりたかった。
気づけば、俺は彼女の隣に膝をついていた。そして、何を思ったか、ごわごわした自分の袖でその涙を拭ってやろうと、無意識に手を伸ばしていた。
「……あ」
セレスティアが小さく声を漏らす。
俺の手が、涙に濡れた彼女の手に、そっと触れた。
その瞬間だった。世界が、光に包まれた。
彼女の苦しみを前にして、俺にできることは何もない。聖女イリーナのような治癒の奇跡も、賢者マルスのような状況を打開する魔法も、俺は持っていない。ただ、そこにいることしかできない。それは、かつてパーティーにいた頃と何も変わらなかった。
彼女の苦しげな呼吸が、静かな堂内に響き続ける。高熱で朦朧としながらも、彼女は必死に痛みに耐えていた。その額に浮かぶ汗は、まるで血の涙のようだ。
このままでは、彼女は衰弱してしまう。
何か、何かできることはないか。
思考を巡らせる。そうだ、栄養だ。高熱で体力を消耗しているなら、せめて何かを口にしなければならない。パーティーにいた頃、皆の体調管理をするのは俺の役目だった。風邪をひいた仲間には、消化が良くて栄養のあるスープを作ってやったものだ。
もちろん、今ここにスープを作る材料も道具もない。だが、何か腹に入れられるものなら。
俺はゆっくりと立ち上がった。その物音に、セレスティアがびくりと肩を震わせる。
「……どこへ、行くの」
その声には、見捨てられることへの恐怖が微かに滲んでいた。
「すぐに戻る。ここで待っていてくれ」
俺はそれだけ言うと、彼女に背を向けて教会を後にした。
村に戻る道を、今度は駆け足で下りる。目指すは、村に一軒だけある小さな雑貨屋だ。店先で干し肉やパンを売っていたのを、先ほど通りかかった時に見ていた。
店に入ると、無愛想な女主人が訝しげな顔でこちらを一瞥した。構わずに、店先に並べられたパンを手に取る。その中に、緑色の練り込まれたパンがあった。
「婆さん、これは?」
「……薬草パンさ。気休め程度の滋養強壮にはなるかね」
これだ。俺は懐を探り、持っていた銅貨を全て取り出した。森で拾った珍しい木の実を、旅の行商人に売って手に入れた、なけなしの金だ。それをカウンターに置く。薬草パンを一つ買うと、ちょうどぴったりの金額だった。
これで、俺はまた無一文になった。だが、不思議と後悔はなかった。
パンを懐にしまい、再び丘の上の教会へと急ぐ。戻ってきた俺の姿を見て、セレスティアは少しだけ安堵したような表情を浮かべた。
俺は彼女の前にしゃがみこみ、懐からまだ温かいパンを取り出して差し出した。
「これを」
セレスティアは、俺の手にあるパンと俺の顔を、戸惑ったように交互に見た。
「……なに?」
「薬草パンだ。少しは足しになるだろう。腹が減っているはずだ」
彼女はすぐには意味が理解できないようだった。ただ、戸惑った目で俺を見つめている。
「……どうして」
「どうして、と言われてもな。あんた、倒れそうだったから」
俺のぶっきらぼうな答えに、彼女はますます困惑した顔になる。
「……施しなら、いらないわ。わたしは、哀れんでもらうために、こんなことをしているんじゃない」
彼女は顔をそむけ、か細い声で抵抗した。その言葉には、彼女が守り続けてきたであろう、最後のプライドが感じられた。
「哀れんでなどいない」
俺は即座に否定した。
「ただ、俺も腹が減っていた。だから、自分の分を買うついでに、あんたの分も買ってきた。それだけだ」
嘘だった。俺は自分のパンなど買っていない。なけなしの銅貨は、全てこの一つのパンに消えた。だが、そうでも言わなければ、彼女はこのパンを受け取らないだろう。
俺はパンを彼女の膝元にそっと置いた。
「いらないなら、それでもいい。ここに置いておく」
そう言って立ち上がり、彼女から少し距離を取る。無理強いはしたくなかった。
しばらくの沈黙が流れた。セレスティアは膝元のパンを、じっと見つめている。やがて、彼女は震える手で、おそるおそるパンに触れた。
その指先に、パンの温かさが伝わったのだろう。彼女の肩が、小さく震えた。
彼女はパンを手に取ると、小さな口で、ゆっくりとかじった。ぱさついたパンだが、薬草の香りがほのかにする。彼女は何度も、何度も咀嚼し、そしてこくりと飲み込んだ。
その瞬間だった。
彼女の大きな青い瞳から、堰を切ったように涙が溢れ出した。ぽろぽろと、大粒の涙が頬を伝い、膝の上に落ちていく。嗚咽を漏らすでもなく、ただ静かに、とめどなく涙を流し続けていた。
それは、痛みや苦しみから来る涙ではなかった。
長い孤独の中で凍りついていた心が、パンの温かさで、人の優しさで、ゆっくりと溶けていくような、そんな涙だった。これまで誰にも向けられなかった、純粋な善意。見返りを求めない、ただの優しさ。それが、今の彼女には何よりも胸に染みたのだろう。
その姿を見て、俺はたまらなくなった。泣いている彼女を、どうにかしてやりたかった。
気づけば、俺は彼女の隣に膝をついていた。そして、何を思ったか、ごわごわした自分の袖でその涙を拭ってやろうと、無意識に手を伸ばしていた。
「……あ」
セレスティアが小さく声を漏らす。
俺の手が、涙に濡れた彼女の手に、そっと触れた。
その瞬間だった。世界が、光に包まれた。
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