80 / 105
075. 氷が溶けた笑顔
しおりを挟む
リリアーナ・フォン・クラインフェルトが、ヴァルテンベルク辺境伯アレクシスの正式な婚約者となってから、辺境領の空気は、以前にも増して明るく、希望に満ちたものとなっていた。領主とその未来の伴侶が、確かな信頼と愛情で結ばれているという事実は、人々の心を安堵させ、未来への期待を大きく膨らませたのだ。
リリアーナ自身も、婚約者としての新しい立場に少しずつ慣れ始めていた。砦の中では「リリアーナ様」と呼ばれることにまだ気恥ずかしさを感じていたが、彼女のひたむきな働きぶりや、誰に対しても変わらぬ優しい態度は、人々の尊敬と親愛をますます深めていた。彼女は、婚約者という立場に驕ることなく、これまで通り畑に出て土にまみれ、厨房でスープを作り、加工場で村の女性たちと共に特産品開発に励んでいた。
アレクシスとの関係も、婚約を機に、ゆっくりと、しかし確実に変化していた。彼は依然として言葉少なで、感情を表に出すことは稀だったが、リリアーナに向ける眼差しには、隠しきれない温かさと、深い信頼が宿るようになっていた。彼は、公務の合間を縫って、リリアーナが作業をしている畑や加工場を訪れる頻度が増えた。それは「視察」という名目だったが、明らかに、彼は彼女のそばにいる時間を求めているようだった。
「……作物の生育は順調か?」
畑で作業するリリアーナの隣に立ち、アレクシスはぶっきらぼうに尋ねる。
「はい、アレクシス様。おかげさまで、驚くほど元気に育っています。見てください、このジャガイモの大きさ!」
リリアーナは、泥のついた手で掘り起こしたばかりの立派なジャガイモを、誇らしげに彼に見せる。
「……ふむ。見事だな」
アレクシスは、素っ気なく応じるが、その口元はほんのわずかに緩んでいる。リリアーナは、そんな彼の小さな変化を見つけるたびに、胸が温かくなるのを感じていた。
二人きりになる時間はまだ少なかったが、それでも、彼が執務室にいる時間に、リリアーナがお届け物(ハーブティーや味見用の料理)を持っていくと、彼は以前のようにすぐに下がらせるのではなく、少しだけ、他愛のない会話を交わすようになった。
「今日のハーブティーは、少し柑橘系の香りが強いな」
「はい、新しいブレンドを試してみました。気分をすっきりさせる効果があるかと……お口に合いましたでしょうか?」
「……悪くない」
そんな短いやり取りだけでも、リリアーナにとっては至福の時間だった。彼の声を聞き、彼の表情の変化(たとえそれが微かであっても)を見ることができる。それだけで、彼女の心は満たされた。
しかし、リリアーナには、一つだけ気がかりなことがあった。それは、アレクシスが、まだ心からの笑顔を見せてくれたことがない、ということだった。婚約を発表した時も、彼女の料理を「悪くない」と言ってくれた時も、彼の表情は確かに和らいではいたが、それはまだ、本当の意味での「笑顔」とは言えないものだった。
(アレクシス様が、心の底から笑える日が来たら……きっと、もっと素敵だろうな……)
彼の過去に触れ、その孤独と傷を知ったリリアーナは、彼に心からの安らぎと幸福を感じてほしいと、強く願っていた。そして、そのきっかけを、自分の手で作れたら……。
そんな想いを胸に、リリアーナはある特別な料理を作ることを思い立った。それは、彼がかつて「悪くなかった」と評した、雪ウサギネズミのクリームシチューとミートパイ。あの時、彼は我を忘れたかのように夢中で食べてくれた。もしかしたら、あれは彼の好物に近いものなのかもしれない。あるいは、彼の心の奥底にある、何か温かい記憶(たとえそれが朧げなものであっても)に触れる味なのかもしれない。
幸い、春になってからも、フェンが時折、雪解けの森で活動を始めた雪ウサギネズミを見つけてきてくれることがあった。リリアーナは、その貴重な肉を使い、以前よりもさらに心を込めて、シチューとパイを調理した。
今回は、畑で採れたばかりの新ジャガや、香り高い春のハーブをたっぷりと加えた。クリームソース(もどき)も、ヤギの乳だけでなく、栄養価の高い木の実のペーストを少し加えて、より濃厚でコクのある味わいに仕上げた。パイ生地も、雑穀粉に少しだけ精白された小麦粉(これもアレクシスの配慮で手に入ったものだ)を混ぜ、サクサクとした食感を目指した。
調理の間、リリアーナはずっとアレクシスのことを考えていた。彼の笑顔が見たい。彼に、心から「美味しい」と感じてほしい。その想いが、彼女の手を通じて、料理へと注ぎ込まれていく。それは、もはや単なる料理ではなく、彼女の彼への深い愛情と、彼を癒したいという切なる願いが込められた、特別な一皿となっていた。
夕方、リリアーナは出来上がったばかりの熱々のシチューとパイを、保温できる容器に入れ、アレクシスの執務室へと自ら運んだ。届け役の側近に頼むこともできたが、今日はどうしても、自分の手で届けたかったのだ。
「……失礼いたします、アレクシス様」
リリアーナが緊張しながら扉を開けると、アレクシスは山積みの書類に向かい、眉間に皺を寄せてペンを走らせていた。領主としての彼の仕事は、常に激務なのだ。
「……リリアーナか。どうした?」
彼は、顔を上げずに尋ねた。いつものお届け物の時間よりは少し早い。
「あの……今夜の、お夕食にでも、と思いまして……」
リリアーナは、おずおずと容器を差し出した。「以前、お口に合ったようでしたので……雪ウサギネズミのシチューと、パイを焼いてみました」
その言葉に、アレクシスのペンがぴたりと止まった。彼はゆっくりと顔を上げ、リリアーナと、彼女が差し出す容器を交互に見つめた。その瞳には、驚きと、そして何か予期せぬ贈り物を受け取った子供のような、戸惑いの色が浮かんでいた。
「……わざわざ、私のためにか?」
彼の声は、わずかに掠れていた。
「はい。いつもお忙しいアレクシス様に、少しでも元気になっていただきたくて……。お口に合うか分かりませんが……」
リリアーナは、顔を赤らめながら言った。
アレクシスは、しばらくの間、言葉もなくリリアーナを見つめていた。そして、ゆっくりと立ち上がり、彼女から容器を受け取った。蓋を開けると、ふわりと立ち上る、温かく芳醇な香り。それは、彼があの日味わった、忘れられない記憶を呼び覚ます香りだった。
彼は、無言のまま、執務机の脇にある小さなテーブルに、シチューとパイを並べた。そして、リリアーナに向き直ると、静かに言った。
「……ここで、一緒に食べないか?」
それは、彼からの、初めての明確な誘いだった。
「えっ……!? わ、わたくしも、ですか……?」
リリアーナは、あまりの予想外の申し出に、心臓が飛び跳ねるのを感じた。
「ああ。君が作ったものを、君と共に味わいたい」
彼の声は、穏やかで、真剣だった。その瞳には、もう迷いはなかった。
リリアーナは、喜びと緊張で胸がいっぱいになりながら、小さく頷いた。「……はい……喜んで……」
アレクシスは、予備の食器を用意し、リリアーナの分のシチューとパイも取り分けた。二人は、小さなテーブルに向かい合わせに座り、少しぎこちない雰囲気の中で、食事を始めた。
アレクシスは、まずシチューを一口、ゆっくりと味わった。途端に、彼の表情が、目に見えて和らいだ。
「……うまい……」
それは、心の底から漏れたような、素直な感想だった。「以前よりも、さらに……深みが増している。このハーブは……?」
「はい、畑で採れたばかりの、春の香りのハーブを加えてみました」
リリアーナは、嬉しそうに答えた。
彼は、次にパイを口にした。サクサクとした生地と、中の濃厚なフィリング。
「……パイも、絶品だ。生地が、以前より軽やかになったな」
「少しだけ、小麦粉を混ぜてみたんです」
「なるほど……」
アレクシスは、一つ一つの料理を、まるで宝物を味わうかのように、ゆっくりと、丁寧に食べた。そして、食べるほどに、彼の表情から硬さが消え、穏やかで、満たされた色合いが濃くなっていくのを、リリアーナは見て取った。彼の隠された傷の痛みも、この温かい食事によって、確実に癒されているようだった。
そして、食事が終わりに近づいた頃。リリアーナが、ふと、シチューの鍋に残っていた、一番美味しそうな肉の塊を、アレクシスの皿にそっと移してあげた時だった。
「あら、アレクシス様、これが一番柔らかくて美味しいところですよ。どうぞ」
それは、彼女にとっては何気ない、親愛の情から出た行動だった。
アレクシスは、自分の皿に置かれた肉の塊を見て、一瞬、きょとんとした顔をした。そして、次の瞬間。
彼の口元が、ふわりと、自然に綻んだのだ。
それは、これまでリリアーナが見たことのない、本当に穏やかで、温かく、そして心からの「笑顔」だった。
氷が溶けた、瞬間だった。
硬い仮面の下に隠されていた、彼の素顔。それは、驚くほどに優しく、魅力的な笑顔だった。その笑顔は、まるで春の陽光のように、部屋全体を、そしてリリアーナの心を、明るく照らした。
リリアーナは、息を呑んで、彼の笑顔に見入ってしまった。あまりにも突然で、あまりにも美しくて、言葉を失うほどだった。
「……アレクシス様……?」
アレクシスは、自分が笑っていることに気づき、少しだけ照れたように視線を逸らした。しかし、その口元には、まだ笑みの名残が残っていた。
「……いや……すまない。君があまりにも自然にするものだから……つい……」
彼は、少しだけどもりながら言った。それは、彼が幼い頃に、もしかしたら母から受けていたかもしれない、無償の愛情のようなものを、リリアーナの行動に感じ取ったからなのかもしれない。
その笑顔を見たリリアーナの胸には、これまでにないほどの、熱い幸福感が込み上げてきた。彼の氷を溶かすことができた。彼の本当の笑顔を引き出すことができた。その事実が、彼女にとっては何よりの喜びだった。
「……とても、素敵な笑顔ですわ、アレクシス様」
リリアーナは、涙ぐみながら、心からの言葉を伝えた。
アレクシスは、彼女の言葉に、再び少し照れたような顔をしたが、今度は視線を逸らさず、彼女を真っ直ぐに見つめ返した。そして、その瞳には、深い愛情と、感謝の色が、はっきりと映し出されていた。
氷の辺境伯の、初めて見せた心からの笑顔。それは、リリアーナの心を込めた料理がもたらした、最高の奇跡だったのかもしれない。そして、その笑顔は、二人の関係を、もはや後戻りできない、深く温かい絆で結びつける、決定的な瞬間となったのだった。辺境の地に訪れた春は、ついに、氷の心をも溶かし始めたのだ。
リリアーナ自身も、婚約者としての新しい立場に少しずつ慣れ始めていた。砦の中では「リリアーナ様」と呼ばれることにまだ気恥ずかしさを感じていたが、彼女のひたむきな働きぶりや、誰に対しても変わらぬ優しい態度は、人々の尊敬と親愛をますます深めていた。彼女は、婚約者という立場に驕ることなく、これまで通り畑に出て土にまみれ、厨房でスープを作り、加工場で村の女性たちと共に特産品開発に励んでいた。
アレクシスとの関係も、婚約を機に、ゆっくりと、しかし確実に変化していた。彼は依然として言葉少なで、感情を表に出すことは稀だったが、リリアーナに向ける眼差しには、隠しきれない温かさと、深い信頼が宿るようになっていた。彼は、公務の合間を縫って、リリアーナが作業をしている畑や加工場を訪れる頻度が増えた。それは「視察」という名目だったが、明らかに、彼は彼女のそばにいる時間を求めているようだった。
「……作物の生育は順調か?」
畑で作業するリリアーナの隣に立ち、アレクシスはぶっきらぼうに尋ねる。
「はい、アレクシス様。おかげさまで、驚くほど元気に育っています。見てください、このジャガイモの大きさ!」
リリアーナは、泥のついた手で掘り起こしたばかりの立派なジャガイモを、誇らしげに彼に見せる。
「……ふむ。見事だな」
アレクシスは、素っ気なく応じるが、その口元はほんのわずかに緩んでいる。リリアーナは、そんな彼の小さな変化を見つけるたびに、胸が温かくなるのを感じていた。
二人きりになる時間はまだ少なかったが、それでも、彼が執務室にいる時間に、リリアーナがお届け物(ハーブティーや味見用の料理)を持っていくと、彼は以前のようにすぐに下がらせるのではなく、少しだけ、他愛のない会話を交わすようになった。
「今日のハーブティーは、少し柑橘系の香りが強いな」
「はい、新しいブレンドを試してみました。気分をすっきりさせる効果があるかと……お口に合いましたでしょうか?」
「……悪くない」
そんな短いやり取りだけでも、リリアーナにとっては至福の時間だった。彼の声を聞き、彼の表情の変化(たとえそれが微かであっても)を見ることができる。それだけで、彼女の心は満たされた。
しかし、リリアーナには、一つだけ気がかりなことがあった。それは、アレクシスが、まだ心からの笑顔を見せてくれたことがない、ということだった。婚約を発表した時も、彼女の料理を「悪くない」と言ってくれた時も、彼の表情は確かに和らいではいたが、それはまだ、本当の意味での「笑顔」とは言えないものだった。
(アレクシス様が、心の底から笑える日が来たら……きっと、もっと素敵だろうな……)
彼の過去に触れ、その孤独と傷を知ったリリアーナは、彼に心からの安らぎと幸福を感じてほしいと、強く願っていた。そして、そのきっかけを、自分の手で作れたら……。
そんな想いを胸に、リリアーナはある特別な料理を作ることを思い立った。それは、彼がかつて「悪くなかった」と評した、雪ウサギネズミのクリームシチューとミートパイ。あの時、彼は我を忘れたかのように夢中で食べてくれた。もしかしたら、あれは彼の好物に近いものなのかもしれない。あるいは、彼の心の奥底にある、何か温かい記憶(たとえそれが朧げなものであっても)に触れる味なのかもしれない。
幸い、春になってからも、フェンが時折、雪解けの森で活動を始めた雪ウサギネズミを見つけてきてくれることがあった。リリアーナは、その貴重な肉を使い、以前よりもさらに心を込めて、シチューとパイを調理した。
今回は、畑で採れたばかりの新ジャガや、香り高い春のハーブをたっぷりと加えた。クリームソース(もどき)も、ヤギの乳だけでなく、栄養価の高い木の実のペーストを少し加えて、より濃厚でコクのある味わいに仕上げた。パイ生地も、雑穀粉に少しだけ精白された小麦粉(これもアレクシスの配慮で手に入ったものだ)を混ぜ、サクサクとした食感を目指した。
調理の間、リリアーナはずっとアレクシスのことを考えていた。彼の笑顔が見たい。彼に、心から「美味しい」と感じてほしい。その想いが、彼女の手を通じて、料理へと注ぎ込まれていく。それは、もはや単なる料理ではなく、彼女の彼への深い愛情と、彼を癒したいという切なる願いが込められた、特別な一皿となっていた。
夕方、リリアーナは出来上がったばかりの熱々のシチューとパイを、保温できる容器に入れ、アレクシスの執務室へと自ら運んだ。届け役の側近に頼むこともできたが、今日はどうしても、自分の手で届けたかったのだ。
「……失礼いたします、アレクシス様」
リリアーナが緊張しながら扉を開けると、アレクシスは山積みの書類に向かい、眉間に皺を寄せてペンを走らせていた。領主としての彼の仕事は、常に激務なのだ。
「……リリアーナか。どうした?」
彼は、顔を上げずに尋ねた。いつものお届け物の時間よりは少し早い。
「あの……今夜の、お夕食にでも、と思いまして……」
リリアーナは、おずおずと容器を差し出した。「以前、お口に合ったようでしたので……雪ウサギネズミのシチューと、パイを焼いてみました」
その言葉に、アレクシスのペンがぴたりと止まった。彼はゆっくりと顔を上げ、リリアーナと、彼女が差し出す容器を交互に見つめた。その瞳には、驚きと、そして何か予期せぬ贈り物を受け取った子供のような、戸惑いの色が浮かんでいた。
「……わざわざ、私のためにか?」
彼の声は、わずかに掠れていた。
「はい。いつもお忙しいアレクシス様に、少しでも元気になっていただきたくて……。お口に合うか分かりませんが……」
リリアーナは、顔を赤らめながら言った。
アレクシスは、しばらくの間、言葉もなくリリアーナを見つめていた。そして、ゆっくりと立ち上がり、彼女から容器を受け取った。蓋を開けると、ふわりと立ち上る、温かく芳醇な香り。それは、彼があの日味わった、忘れられない記憶を呼び覚ます香りだった。
彼は、無言のまま、執務机の脇にある小さなテーブルに、シチューとパイを並べた。そして、リリアーナに向き直ると、静かに言った。
「……ここで、一緒に食べないか?」
それは、彼からの、初めての明確な誘いだった。
「えっ……!? わ、わたくしも、ですか……?」
リリアーナは、あまりの予想外の申し出に、心臓が飛び跳ねるのを感じた。
「ああ。君が作ったものを、君と共に味わいたい」
彼の声は、穏やかで、真剣だった。その瞳には、もう迷いはなかった。
リリアーナは、喜びと緊張で胸がいっぱいになりながら、小さく頷いた。「……はい……喜んで……」
アレクシスは、予備の食器を用意し、リリアーナの分のシチューとパイも取り分けた。二人は、小さなテーブルに向かい合わせに座り、少しぎこちない雰囲気の中で、食事を始めた。
アレクシスは、まずシチューを一口、ゆっくりと味わった。途端に、彼の表情が、目に見えて和らいだ。
「……うまい……」
それは、心の底から漏れたような、素直な感想だった。「以前よりも、さらに……深みが増している。このハーブは……?」
「はい、畑で採れたばかりの、春の香りのハーブを加えてみました」
リリアーナは、嬉しそうに答えた。
彼は、次にパイを口にした。サクサクとした生地と、中の濃厚なフィリング。
「……パイも、絶品だ。生地が、以前より軽やかになったな」
「少しだけ、小麦粉を混ぜてみたんです」
「なるほど……」
アレクシスは、一つ一つの料理を、まるで宝物を味わうかのように、ゆっくりと、丁寧に食べた。そして、食べるほどに、彼の表情から硬さが消え、穏やかで、満たされた色合いが濃くなっていくのを、リリアーナは見て取った。彼の隠された傷の痛みも、この温かい食事によって、確実に癒されているようだった。
そして、食事が終わりに近づいた頃。リリアーナが、ふと、シチューの鍋に残っていた、一番美味しそうな肉の塊を、アレクシスの皿にそっと移してあげた時だった。
「あら、アレクシス様、これが一番柔らかくて美味しいところですよ。どうぞ」
それは、彼女にとっては何気ない、親愛の情から出た行動だった。
アレクシスは、自分の皿に置かれた肉の塊を見て、一瞬、きょとんとした顔をした。そして、次の瞬間。
彼の口元が、ふわりと、自然に綻んだのだ。
それは、これまでリリアーナが見たことのない、本当に穏やかで、温かく、そして心からの「笑顔」だった。
氷が溶けた、瞬間だった。
硬い仮面の下に隠されていた、彼の素顔。それは、驚くほどに優しく、魅力的な笑顔だった。その笑顔は、まるで春の陽光のように、部屋全体を、そしてリリアーナの心を、明るく照らした。
リリアーナは、息を呑んで、彼の笑顔に見入ってしまった。あまりにも突然で、あまりにも美しくて、言葉を失うほどだった。
「……アレクシス様……?」
アレクシスは、自分が笑っていることに気づき、少しだけ照れたように視線を逸らした。しかし、その口元には、まだ笑みの名残が残っていた。
「……いや……すまない。君があまりにも自然にするものだから……つい……」
彼は、少しだけどもりながら言った。それは、彼が幼い頃に、もしかしたら母から受けていたかもしれない、無償の愛情のようなものを、リリアーナの行動に感じ取ったからなのかもしれない。
その笑顔を見たリリアーナの胸には、これまでにないほどの、熱い幸福感が込み上げてきた。彼の氷を溶かすことができた。彼の本当の笑顔を引き出すことができた。その事実が、彼女にとっては何よりの喜びだった。
「……とても、素敵な笑顔ですわ、アレクシス様」
リリアーナは、涙ぐみながら、心からの言葉を伝えた。
アレクシスは、彼女の言葉に、再び少し照れたような顔をしたが、今度は視線を逸らさず、彼女を真っ直ぐに見つめ返した。そして、その瞳には、深い愛情と、感謝の色が、はっきりと映し出されていた。
氷の辺境伯の、初めて見せた心からの笑顔。それは、リリアーナの心を込めた料理がもたらした、最高の奇跡だったのかもしれない。そして、その笑顔は、二人の関係を、もはや後戻りできない、深く温かい絆で結びつける、決定的な瞬間となったのだった。辺境の地に訪れた春は、ついに、氷の心をも溶かし始めたのだ。
325
あなたにおすすめの小説
『異世界転生してカフェを開いたら、庭が王宮より人気になってしまいました』
ヤオサカ
恋愛
申し訳ありません、物語の内容を確認しているため、一部非公開にしています
この物語は完結しました。
前世では小さな庭付きカフェを営んでいた主人公。事故により命を落とし、気がつけば異世界の貧しい村に転生していた。
「何もないなら、自分で作ればいいじゃない」
そう言って始めたのは、イングリッシュガーデン風の庭とカフェづくり。花々に囲まれた癒しの空間は次第に評判を呼び、貴族や騎士まで足を運ぶように。
そんな中、無愛想な青年が何度も訪れるようになり――?
白い結婚の末、離婚を選んだ公爵夫人は二度と戻らない』
鍛高譚
恋愛
白い結婚の末、「白い結婚」の末、私は冷遇され、夫は愛人を溺愛していた――ならば、もう要らないわ」
公爵令嬢 ジェニファー・ランカスター は、王弟 エドワード・クラレンス公爵 のもとへ政略結婚として嫁ぐ。
だが、その結婚生活は冷たく空虚なものだった。夫は愛人 ローザ・フィッツジェラルド に夢中になり、公爵夫人であるジェニファーは侮辱され、無視され続ける日々。
――それでも、貴族の娘は耐えなければならないの?
何の愛もなく、ただ飾り物として扱われる結婚に見切りをつけたジェニファーは 「離婚」 を決意する。
しかし、王弟であるエドワードとの離婚は容易ではない。実家のランカスター家は猛反対し、王宮の重臣たちも彼女の決断を 「公爵家の恥」 と揶揄する。
それでも、ジェニファーは負けない。弁護士と協力し、着々と準備を進めていく。
そんな折、彼女は北方の大国 ヴォルフ公国の大公、アレクサンダー・ヴォルフ と出会う。
温かく誠実な彼との交流を通じて、ジェニファーは 「本当に大切にされること」 を知る。
そして、彼女の決断は、王都の社交界に大きな波紋を呼ぶこととなる――。
「公爵夫人を手放したことを、いつか後悔しても遅いわ」
「私はもう、あなたたちの飾り人形じゃない」
離婚を巡る策略、愛人の凋落、元夫の後悔――。
そして、新たな地で手にした 「愛される結婚」。
「無加護」で孤児な私は追い出されたのでのんびりスローライフ生活!…のはずが精霊王に甘く溺愛されてます!?
白井
恋愛
誰もが精霊の加護を受ける国で、リリアは何の精霊の加護も持たない『無加護』として生まれる。
「魂の罪人め、呪われた悪魔め!」
精霊に嫌われ、人に石を投げられ泥まみれ孤児院ではこき使われてきた。
それでも生きるしかないリリアは決心する。
誰にも迷惑をかけないように、森でスローライフをしよう!
それなのに―……
「麗しき私の乙女よ」
すっごい美形…。えっ精霊王!?
どうして無加護の私が精霊王に溺愛されてるの!?
森で出会った精霊王に愛され、リリアの運命は変わっていく。
悪役令嬢は調理場に左遷されましたが、激ウマご飯で氷の魔公爵様を餌付けしてしまったようです~「もう離さない」って、胃袋の話ですか?~
咲月ねむと
恋愛
「君のような地味な女は、王太子妃にふさわしくない。辺境の『魔公爵』のもとへ嫁げ!」
卒業パーティーで婚約破棄を突きつけられた悪役令嬢レティシア。
しかし、前世で日本人調理師だった彼女にとって、堅苦しい王妃教育から解放されることはご褒美でしかなかった。
「これで好きな料理が作れる!」
ウキウキで辺境へ向かった彼女を待っていたのは、荒れ果てた別邸と「氷の魔公爵」と恐れられるジルベール公爵。
冷酷無慈悲と噂される彼だったが――その正体は、ただの「極度の偏食家で、常に空腹で不機嫌なだけ」だった!?
レティシアが作る『肉汁溢れるハンバーグ』『とろとろオムライス』『伝説のプリン』に公爵の胃袋は即陥落。
「君の料理なしでは生きられない」
「一生そばにいてくれ」
と求愛されるが、色気より食い気のレティシアは「最高の就職先ゲット!」と勘違いして……?
一方、レティシアを追放した王太子たちは、王宮の食事が不味くなりすぎて絶望の淵に。今さら「戻ってきてくれ」と言われても、もう遅いです!
美味しいご飯で幸せを掴む、空腹厳禁の異世界クッキング・ファンタジー!
『婚約なんて予定にないんですが!? 転生モブの私に公爵様が迫ってくる』
ヤオサカ
恋愛
この物語は完結しました。
現代で過労死した原田あかりは、愛読していた恋愛小説の世界に転生し、主人公の美しい姉を引き立てる“妹モブ”ティナ・ミルフォードとして生まれ変わる。今度こそ静かに暮らそうと決めた彼女だったが、絵の才能が公爵家嫡男ジークハルトの目に留まり、婚約を申し込まれてしまう。のんびり人生を望むティナと、穏やかに心を寄せるジーク――絵と愛が織りなす、やがて幸せな結婚へとつながる転生ラブストーリー。
身代わりで呪いの公爵に嫁ぎましたが、聖女の力で浄化したら離縁どころか国一番の溺愛妻になりました〜実家が泣きついてももう遅い〜
しょくぱん
恋愛
「お前のような無能は、死神の生贄にでもなっていろ」
魔力なしの無能と蔑まれ、家族に虐げられてきた伯爵令嬢レティシア。 彼女に命じられたのは、近づく者すべてを病ませるという『呪いの公爵』アレクシスへの身代わり結婚だった。
鉄格子の馬車で運ばれ、たどり着いたのは瘴気に満ちた死の城。 恐ろしい怪物のような男に殺される――。 そう覚悟していたレティシアだったが、目の前の光景に絶望よりも先に別の感情が湧き上がる。
(な、何これ……汚すぎるわ! 雑巾とブラシはどこ!?)
実は、彼女が「無能」と言われていたのは、その力が『洗浄』と『浄化』に特化した特殊な聖女の魔力だったから。
レティシアが掃除をすれば、呪いの瘴気は消え去り、枯れた大地には花が咲き、不気味だった公爵城はまたたく間にピカピカの聖域に塗り替えられていく。 さらには、呪いで苦しんでいたアレクシスの素顔は、見惚れるほどの美青年で――。
「レティシア、君は一体何者なんだ……? 体が、こんなに軽いのは初めてだ」
冷酷だったはずの公爵様から、まさかの執着と溺愛。 さらには、呪いが解けたことで領地は国一番の豊かさを取り戻していく。
一方で、レティシアを捨てた実家は、彼女の『浄化』を失ったことで災厄に見舞われ、今さら「戻ってきてくれ」と泣きついてくるが……。
「私は今、お城の掃除と旦那様のお世話で忙しいんです。お引き取りくださいませ」
これは、掃除を愛する薄幸令嬢が、その愛と魔力で死神公爵を救い、最高に幸せな居場所を手に入れるまでのお話。
「地味で無能」と捨てられた令嬢は、冷酷な【年上イケオジ公爵】に嫁ぎました〜今更私の価値に気づいた元王太子が後悔で顔面蒼白になっても今更遅い
腐ったバナナ
恋愛
伯爵令嬢クラウディアは、婚約者のアルバート王太子と妹リリアンに「地味で無能」と断罪され、公衆の面前で婚約破棄される。
お飾りの厄介払いとして押し付けられた嫁ぎ先は、「氷壁公爵」と恐れられる年上の冷酷な辺境伯アレクシス・グレイヴナー公爵だった。
当初は冷徹だった公爵は、クラウディアの才能と、過去の傷を癒やす温もりに触れ、その愛を「二度と失わない」と固く誓う。
彼の愛は、包容力と同時に、狂気的な独占欲を伴った「大人の愛」へと昇華していく。
偽聖女と追放された私は、辺境で定食屋をはじめます~こっそり生活魔法で味付けしていたら、氷の騎士団長様が毎日通ってくるんですけど!?~
咲月ねむと
恋愛
【アルファポリス女性向けHOTランキング1位達成作品!!】
あらすじ
「役立たずの偽聖女め、この国から出て行け!」
聖女として召喚されたものの、地味な【生活魔法】しか使えず「ハズレ」の烙印を押されたエリーナ。
彼女は婚約者である王太子に婚約破棄され、真の聖女と呼ばれる義妹の陰謀によって国外追放されてしまう。
しかし、エリーナはめげなかった。
実は彼女の【生活魔法】は、一瞬で廃墟を新築に変え、どんな食材も極上の味に変えるチートスキルだったのだ!
北の辺境の地へ辿り着いたエリーナは、念願だった自分の定食屋『陽だまり亭』をオープンする。
すると、そこへ「氷の騎士団長」と恐れられる冷徹な美形騎士・クラウスがやってきて――。
「……味がする。お前の料理だけが、俺の呪いを解いてくれるんだ」
とある呪いで味覚を失っていた彼は、エリーナの料理にだけ味を感じると判明。
以来、彼は毎日のように店に通い詰め、高額な代金を置いていったり、邪魔する敵を排除したりと、エリーナを過保護なまでに溺愛し始める。
最強の騎士団長と騎士たちに胃袋を掴んで守られながら、エリーナは辺境で幸せなスローライフを満喫中?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる