バグズ・グリモワール・オンライン 〜エラー報告が趣味の俺、バグを喰らう魔書(グリモワール)を授かり最強のイレギュラーになる〜

夏見ナイ

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第32話 コードの署名、悪魔の証明

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偽りの魔女裁判という名の嵐が過ぎ去ってから、数日が経過した。
アルモニカの街は、表面上はいつもの活気を取り戻していたが、その内側には、未だ消えない澱のようなものが漂っていた。俺、マコトという存在は、もはや単なるプレイヤーではなく、この世界の秩序を揺るがす、一種の自然災害のようなものとして認識されている。
『ラグナロク』が公式に擁護声明を出したおかげで、あからさまな敵意を向けてくる者はいなくなった。だが、遠巻きに観察する好奇と警戒の視線は、以前よりもむしろ増している。俺とリリィが歩けば、モーセの奇跡のように、人垣が割れるようになった。

「……なんだか、有名人になったみたいで、ちょっと恥ずかしいですね」
宿屋の一室で、リリィが苦笑しながら言った。
「悪名だけどな。まあ、おかげで動きやすくはなった。誰も面倒ごとを恐れて、近づいてこない」
俺は、テーブルの上に広げたアルモニカの地図を眺めながら答えた。その地図には、『コード・アビス』への鍵に関する、断片的な情報が書き込まれている。
『英雄の魂』=アークライトの遺志(歯車)。
『聖女の祈り』=リリィの指輪。
そして、謎の『世界の歪み』。
ゲートの場所も、開く方法も、まだ何も分かってはいない。

「マスター。闇雲に情報を探しても、キリがない。もっと効率的なアプローチが必要だ」
俺の膝の上で開かれていた『バグズ・グリモワール』が、呆れたような声を発した。自我を持って以来、こいつは俺の思考にまで口を挟むようになった。
「分かっているさ。だから、お前の出番だ、グリモ」
俺は、魔書の表紙をポンと叩いた。
「これまでに喰らった『黒いバグ』のデータを、もう一度、詳細に解析しろ。特に、鉱山で喰らった、あの巨大な本体のデータだ。そこには、ノア自身の痕跡が、必ず残っているはずだ」

プログラマーには、それぞれ「癖」がある。変数名の付け方、コメントの残し方、コードのインデントの仕方。どれだけ隠そうとしても、自分が書いたコードには、指紋のように、その人間性と思考の痕跡が刻まれる。
ノアほどの天才なら、自分の作品に、何らかの署名(シグネチャ)を残していてもおかしくはない。

『ふん、ようやく私の真価を発揮できる時が来たか。いいだろう。この世界の創造主とやらのコード、丸裸にして、その無様な姿を白日の下に晒してやろう』
グリモは、楽しげにそう言うと、そのページに膨大な量の文字列を、凄まじい速度で表示させ始めた。それは、黒いバグのソースコードを、グリモが解析しやすい言語に逆コンパイルしたものだった。
常人には、ただの無意味な記号の羅列にしか見えないだろう。だが、俺とグリモにとっては、宝の山だった。

「リリィ、少し長くなる。退屈だろうが、我慢してくれ」
「いえ、大丈夫です! 私も、何か手伝えることがあるかもしれないですし!」
リリィはそう言って、真剣な表情で、俺たちの作業を見守り始めた。

そこから、俺とグリモの、壮大なデバッグ作業が始まった。
「グリモ、汚染データの核となっている、自己増殖ルーチンの部分を抽出してくれ。暗号化されているはずだ」
『言われなくとも。……抽出完了。暗号化アルゴリズムは、AESをベースにした独自改良型か。なかなか凝っているが、鍵の生成ロジックに脆弱性が見られる。古典的なブルートフォース(総当たり攻撃)と、サイドチャネル攻撃を組み合わせれば、数分で破れる』
「よし、頼む。俺は、その間に、外部との通信を試みているプロセスがないか調べる。バックドアが仕掛けられているとしたら、そこだ」
『了解した、マスター』

俺たちの会話は、もはやプレイヤー同士のものではない。二人のプログラマーが、一つの巨大なバグに立ち向かう、共同作業そのものだった。
リリィは、俺たちの専門的なやり取りを、目を丸くして見つめている。彼女には、俺たちが何を言っているのか、さっぱり理解できないだろう。だが、彼女は黙って、時折、俺たちのために飲み物を用意してくれたり、「頑張ってください」と小さな声で応援してくれたりした。
そのささやかなサポートが、長時間に及ぶ集中作業で疲弊する俺の精神を、どれだけ癒してくれたことか。

数時間が経過した頃だった。
『……破ったぞ、マスター』
グリモが、誇らしげに言った。
『自己増殖ルーチンの暗号化を解除した。そして、見つけた。奴の、傲慢で、悪趣味な署名をな』

グリモが、解析したコードの一部分をハイライト表示する。
それは、一見すると、ただの無意味なコメントアウトに見えた。
だが、その文字列の頭文字を縦に読むと、一つの単語が浮かび上がった。

【Never Opening Abyss】(決して開かれることのない深淵)

――NOA。
ノア。
間違いない。これが、彼が残した、自己顕示欲に満ちたデジタル・シグネチャ。彼が、黒いバグの作者であることの、動かぬ証拠だった。

「……見つけたな」
俺の口元に、笑みが浮かぶ。
だが、グリモの報告は、それだけでは終わらなかった。
『マスター、問題はこれだけではない。この署名の直下に、さらに不可解なコードが隠されていた』
グリモが、別のコードブロックを表示する。
そのコードは、俺を、そしてリリィをも、凍りつかせるのに十分な内容だった。

【Process: Connect_to_Real_World_Network】
【Target_IP_Address: 210.153.XXX.XXX】
【Protocol: Covert_Channel_via_Dive_System_Kernel】

「……なんだ、これは……?」
俺は、自分の目を疑った。
「現実世界への、ネットワーク接続……? ダイブシステムのカーネルを経由した、隠し通信だと……?」
210.153から始まるIPアドレス。それは、日本の、特定の地域に割り当てられたグローバルIPアドレスだ。
このコードが意味するものは、一つしかなかった。

ノアの目的は、この『Aethelgard Online』というゲーム世界の破壊だけではない。
彼は、このゲームを、そして、フルダイブシステムに接続している全世界のプレイヤーの脳を「踏み台」にして、現実世界のネットワークに、大規模なサイバーテロを仕掛けようとしているのだ。

「そんな……」
リリィが、息を呑んで呟いた。彼女も、事の重大さを理解したのだろう。
これは、もはやゲームの中の出来事ではない。俺たちの暮らす、現実世界そのものへの、明確な脅威だった。

『……どうやら、ノアという男は、我々が想像していた以上に、狂っているらしいな』
グリモの声にも、初めて、焦りのような色が混じっていた。
『このコードは、時限式で発動するように設定されている。タイムリミットは、おそらく……あと数日もない』

俺は、唇を噛み締めた。
『コード・アビス』への鍵を探し、ゲートを開き、ノアを止める。それを、数日のうちに成し遂げなければならない。
だが、手がかりはあまりにも少ない。
ゲームの中だけで、この広大な謎を解き明かすには、時間が、あまりにも足りなすぎる。

「……くそっ」
俺は、一つの決断を下した。
これまで、俺はゲームの世界と現実世界を、明確に分けて考えてきた。だが、もはやそんな悠長なことは言っていられない。
「……リリィ」
俺は、隣にいる彼女に向き直った。
「ログアウトするぞ」

「え……?」
「この謎を解く鍵は、もう、ゲームの中だけにはない。ノアの過去、奴が何を恨み、何をしようとしているのか。それを、現実世界で調べる必要がある」
俺の言葉に、リリィはこくりと頷いた。
「……分かりました」

俺は、ログアウトコマンドを実行した。
視界が光に包まれ、仮想世界の感覚が遠のいていく。
次に目を開けた時、俺は、見慣れた自分の部屋のデスクチェアに座っていた。
ヘッドギアを外し、久しぶりに吸う現実世界の空気に、少しだけ、頭がくらりとした。

だが、感傷に浸っている暇はない。
俺はすぐに、自分のPCを立ち上げた。
これから始まるのは、ゲームの攻略ではない。
一人の凶悪なハッカーの過去を暴き、その計画を阻止するための、現実世界での、情報戦だ。
俺は、プログラマー、相田 誠として、この世界の誰も知らない、たった一人の戦いに、その身を投じることを決意した。
ディスプレイに表示された検索窓に、俺は静かに、その名前を打ち込んだ。

――『ノア』。
いや、違う。
『Aethelgard Online』の、元開発者の名前を。
俺の、本当の戦いが、今、始まった。
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