悪役貴族? いえ、ただの合理主義者ですが何か? ~冷徹と呼ばれる俺の改革が、いつの間にか国を豊かにし聖女にまで懐かれる件~

夏見ナイ

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第93話:契約条件

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リリアナが涙ながらにゼノンの「投資」を受け入れた、その翌日。
宰相府のゼノンの執務室は、昨日とは打って変わって極めて事務的な雰囲気に包まれていた。
テーブルを挟んでゼノンとリリアナが向かい合って座っている。
だが、二人の間に甘い空気は一切なかった。
なぜならテーブルの上には、分厚い羊皮紙の束が置かれていたからだ。
その一番上のページには、こう記されていた。

【婚姻関係における相互利益の最大化を目的とした基本合意契約書(案)】

「……これが俺が提示する『契約条件』だ」
ゼノンはいつも通りのビジネスライクな口調で言った。
リリアナは目の前のあまりにも物々しい書類の山を見て、わずかに顔を引きつらせた。
(……け、契約書……?)
彼女のロマンチックな想像とは少し、いや、かなり違っていた。

「まず、第一条。目的」
ゼノンは契約書の条文を一つずつ指で追いながら、丁寧に説明を始めた。
「本契約は、甲(ゼノン・フォン・アークライト)と乙(リリアナ・クレスウェル)が婚姻関係を結ぶにあたり、双方の幸福度及び社会的利益を長期的に最大化することを目的とする」

「第二条。義務」
「甲乙は互いに対し誠実に行動し、相手の心身の健康を維持するための努力を怠ってはならない。また、相手の個人的な活動や研究に対し、合理的な理由なくこれを妨げてはならない」

「第三条。情報共有」
「甲乙は互いの財産状況及び健康状態について定期的に情報を共有する義務を負う。ただし国家機密及び個人的なプライバシーに関する情報はこの限りではない」

次々と読み上げられていく、あまりにも無機質で法的な条文。
それはまるで国家間の条約か、あるいは大商会同士の合併契約のようだった。
そこには『愛』とか『情熱』とか、そういった言葉は一つも出てこない。
リリアナの顔から笑顔が少しずつ消えていく。

ゼノンはそんな彼女の変化には全く気づかず、自信満々にプレゼンテーションを続けた。
彼にとっては、これは極めて誠実な行為だった。
曖昧な感情論で関係を始めるのではなく。
事前に互いの権利と義務を明確にし、将来起こりうるあらゆるリスクをヘッジしておく。
これこそが長期的に良好な関係を維持するための最も合理的なやり方だと、彼は信じて疑わなかった。

「……そして、最も重要なのがこの第十条。紛争解決条項だ」
彼は契約書の最後の方のページを指し示した。
「甲乙の間に意見の対立が生じた場合、感情的な口論はこれを禁ずる。両者はまず問題点を客観的に整理し、論理的な対話によって解決を試みるものとする。……それでも解決しない場合は、第三者(アルフォンス王子、あるいはグレイ・ウォーカー)の仲裁を求めることができる」

「……」
リリアナはもはや何も言えなかった。
夫婦喧嘩のルールまで契約書で決められている。
彼女の頭は完全にキャパシティオーバーだった。

「……以上が主な条件だ。何か質問はあるかな?」
ゼノンは完璧なプレゼンを終えた満足感に浸りながら尋ねた。
リリアナはしばらくの間、黙って俯いていた。
その肩は小さく震えている。

(……まずい)
ゼノンは初めて、自分が何かとんでもない間違いを犯したのかもしれないと思い始めた。
(……やはり非合理的だったか? 契約書など用意すべきではなかったか? だが、なぜだ? 口約束よりも書面で残した方が互いにとって誠実なはずだ……)
彼の合理的な思考が再び迷宮に迷い込む。

やがてリリアナはゆっくりと顔を上げた。
その瞳には大粒の涙が浮かんでいた。
「……ひっく」
彼女の口から嗚咽が漏れた。
「……う、うう……」

(……終わった)
ゼノンは絶望した。
泣かせてしまった。
完全に嫌われた。
俺の人生最大のプロジェクトは、契約締結の段階で頓挫した。

だが。
リリアナが次に口にした言葉は、彼の絶望的な予測をまたしても粉々に打ち砕いた。

「……う、嬉しい……!」
「……は?」

「嬉しくて……! 嬉しくて、涙が止まりません……!」
リリアナは涙でぐしゃぐしゃの顔で、しかし心の底から幸せそうに微笑んだ。
「……こんなに真剣に私との未来を考えてくださっていたなんて……! ……こんなに誠実な愛の誓いを今まで聞いたことがありません……!」

彼女の脳内では。
ゼノンのあまりにも無粋な契約書が。
世界で最もロマンチックで、そして誠実な愛の誓いの言葉へと完璧に変換されていたのだ。
『互いの幸福を最大化する』とは、『何があってもあなたを幸せにします』。
『心身の健康を維持する努力』とは、『病める時も健やかなる時もあなたを愛し続けます』。
そして『紛争解決条項』とは、『決してすれ違ったりせず、いつまでも仲良くいましょうね』という可愛らしい約束。

「……これが、あなた様なのですね」
リリアナは愛おしそうに契約書の山を撫でた。
「不器用で、言葉足らずで、でも誰よりも誠実で優しい。……そんなあなた様が私は大好きです」

そのあまりにも予想外の反応。
ゼノンはもはや何も考えられなかった。
ただ目の前の少女の笑顔が太陽のように眩しくて。
そして自分の胸の奥が温かい何かで満たされていくのを感じるだけだった。

(……まあ、いいか)
彼は全てを考えるのをやめた。
(……結果的に彼女が喜んでいるのなら。……プロセスがどうであれ、それは『成功』と判断すべきだろう)
彼はコンサルタントとして、最終的な結論を下した。

「……では、ここにサインを」
彼はリリアナの前にペンとインクを差し出した。
「はい!」
リリアナは涙を拭うと、震える手でペンを取った。
そして、その分厚い契約書の最後のページに。
流れるような美しい文字で、彼女の名前を記した。

リリアナ・クレスウェル。

その瞬間。
世界で最も奇妙で、そして最も真摯な婚約が成立した。
それは合理主義者の青年と、超絶勘違いの聖女が結んだ永遠の愛の契約。
その契約がこれから二人の、そしてこの国の未来をどう変えていくのか。
それは契約書のどこにも書かれていない、二人だけの物語の始まりだった。
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