嫌われ者の悪役貴族、追放されたので好きにすることにした

夏見ナイ

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第43話:王国からの最初の移住者

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ザッカスが広めた噂は、人々の心に、小さな、しかし消えない火を灯した。
特に、その火が強く燃え上がったのは、アルビオン王国の、圧政に喘ぐ農村地帯だった。
バルトール辺境伯のような強欲な貴族たちは、アッシュという共通の敵がいなくなったことで、その矛先を、より弱い立場にある農民たちへと向けていた。
税は年々重くなり、僅かな不作でも、容赦なく土地や財産が取り上げられる。男たちは無理やり徴兵され、女子供は、貴族の慰みものにされることも珍しくなかった。
彼らの生活は、希望の見えない、ただ生きるためだけの、灰色の日常だった。

そんな彼らの耳に、嘆きの荒野の噂は、まるで天啓のように響いた。
『そこでは、種族に関係なく、誰もが平等に扱われる』
『働けば、働いただけの、正当な報酬が与えられる』
『飢えも、病も、戦争の恐怖もない』
それは、彼らが夢にさえ見ることのできなかった、理想郷の姿だった。
最初は、誰もがそれを、荒唐無稽な与太話だと笑い飛ばした。だが、噂は、次から次へと、尾ひれをつけて彼らの元へ届く。
『そこでは、ゴーレムと呼ばれる鉄の人形が、人の代わりに畑を耕してくれるらしい』
『夜でも、太陽のように明るい光が、街を照らしているという』
その具体的な噂の数々は、彼らの心に、ある感情を芽生えさせた。
『もしかしたら、本当なのかもしれない』

農夫のグレンも、そんな噂に心を揺さぶられた一人だった。
彼は、妻のサラと、まだ幼い娘のミーナと共に、小さな村で、先祖代々の土地を細々と耕して生きていた。だが、今年の不作で、彼は領主に納める税を、どうしても用意することができなかった。
領主の代官は、彼に冷酷な選択を迫った。
「税が払えぬのなら、土地を差し出すか、それとも、お前の娘を、領主様の城で働かせるか。どちらか選べ」
それは、事実上、娘を売り飛ばせという宣告だった。
グレンは、絶望の淵に立たされた。愛する家族を守ることさえできない、自分の無力さに、彼は涙した。

その夜。
彼は、なけなしの金で買った、一杯のエールを酒場で飲みながら、隣の席の男たちが話す噂を、ぼんやりと聞いていた。
「聞いたか? 嘆きの荒野のアヴァロンって街の話さ」
「ああ、あのゴーレムが畑を耕すってやつだろ? 眉唾もいいとこだ」
「だがよ、行商人のザッカス爺さんが売ってた、あの鍬、見たか? 一年使っても、刃こぼれ一つしねえ、魔法の鍬だ。あれも、アヴァロン製らしいぜ」
その言葉に、グレンは、はっとした。
彼は、数日前に、村を訪れたザッカスから、一本の鍬を買っていた。それは、彼のけちな蓄えの、ほとんどをはたいて買ったものだったが、その切れ味と耐久性は、噂に違わぬ、驚くべきものだった。
もし、あの鍬を作るほどの技術を持つ都市が、本当に存在するのなら。
もし、そこが、本当に、噂通りの理想郷だとしたら。
グレンの心の中に、一つの、狂気ともいえる決意が、芽生えた。

彼は、家に飛んで帰ると、妻のサラに全てを話した。
「……アヴァロンへ、行こう」
その言葉に、サラは目を丸くした。
「あなた、正気ですの? あそこは、死の大地だと……。それに、噂が、本当だという保証は、どこにもありません」
「だが、ここにいても、俺たちに未来はない! 土地を奪われ、ミーナは……ミーナは、貴族の慰みものにされるんだぞ! それなら、俺は、噂という、僅かな可能性に賭けたい!」
グレンの必死の形相に、サラは言葉を失った。
彼女も、分かっていたのだ。このまま、この村にいても、待っているのは、緩やかな死だけだということを。
「……分かりました、あなた」
彼女は、涙をこらえ、強く頷いた。
「どこへでも、ついていきます。家族三人、一緒なら、どこでだって」

その夜、グレン一家は、村から夜逃げ同然に、逃げ出した。
家財道具のほとんどを捨て、僅かな食料と、なけなしの財産、そして、あの魔法の鍬だけを、古びた荷車に乗せて。
彼らの目的地は、北。
誰もが死の大地と恐れる、嘆きの荒野。
だが、彼らにとって、そこは、唯一の希望が眠る、約束の地だった。

旅は、想像を絶するほど過酷だった。
道なき道を進み、追っ手の影に怯え、そして、荒野に近づくにつれて、その不気味な瘴気に、何度も気を失いそうになった。
何度も、引き返そうと思った。
何度も、噂を信じた自分を、呪った。
だが、その度に、グレンは、妻と娘の顔を見て、歯を食いしばった。
この手で、家族に、幸せな未来を掴ませてやる。その一心だけが、彼を前に進ませていた。

そして、何週間もの放浪の末。
彼らは、ついに、その光景を目の当たりにした。
地平線の彼方に輝く、無数の光。
そして、天を覆う、巨大な、青白い光のドーム。
「……ああ……」
グレンは、その場に膝から崩れ落ちた。
「……本当に、あったんだ……」
噂は、真実だった。
涙が、乾いた大地に、次々と染みを作っていく。妻のサラも、娘のミーナを抱きしめながら、静かに泣いていた。

彼らは、最後の力を振り絞り、その光の都市へと、歩みを進めた。
都市の門の前で、彼らを出迎えたのは、狼の顔を持つ、屈強な獣人の衛兵だった。
グレンは、あまりの恐怖に、再び腰を抜かしそうになった。
だが、その獣人の口から発せられたのは、彼が予想していたような、威嚇の言葉ではなかった。
「……よく来たな、旅の方。ずいぶんと、難儀な旅だったろう」
その声は、ぶっきらぼうだったが、どこか労わるような響きがあった。
「俺は、ガロウ。ここの警備責任者だ。代表のアッシュ様が、あんたたちのような『客人』が、いつ来てもいいようにと、俺たちに言いつけてある。さあ、中へ入れ。温かい食事と、寝床が、あんたたちを待っている」

グレン一家は、呆然としたまま、その獣人に導かれて、アヴァロンの都市の中へと、足を踏み入れた。
そこは、彼らが想像していた、どんな楽園よりも、素晴らしい場所だった。
清潔な街並み。行き交う、楽しげな顔つきの、多様な種族。そして、街全体に満ち溢れる、活気と、希望。
彼らは、その日、人生で初めて、腹一杯になるまで、温かいシチューを食べた。
そして、生まれて初めて、ふかふかのベッドで、何の心配もなく、眠りについた。
娘のミーナは、夢を見ているかのように、幸せそうな寝息を立てていた。
その寝顔を見ながら、グレンは、静かに、しかし熱い涙を、とめどなく流し続けた。
自分たちの、長い、暗い夜は、ようやく明けたのだ。
新しい人生が、今、この場所から、始まる。
彼らは、アルビオン王国から逃れてきた、最初の移住者となった。
そして、彼らの存在は、やがて、巨大な奔流となって、王国からアヴァロンへと流れ込む、無数の人々の、先駆けとなるのだった。
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