嫌われ者の悪役貴族、追放されたので好きにすることにした

夏見ナイ

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第77話:スタンピードの前兆

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ギガンテス帝国が国境に軍を集結させ始めた頃。
大陸のさらに別の場所で、もう一つの不吉な変化が静かに、しかし確実に進行していた。
それは人間のいかなる思惑とも無関係な、より根源的で、そして破壊的な脅威の胎動だった。
アヴァロンの情報統括作戦室。
その壁に掲げられた巨大な大陸地図盤の上には、帝国の軍事行動を示す赤い駒とは別に、いくつかの不気味な黒いマーカーが日に日にその数を増やしていた。

「……報告します」
ハーピィの天空偵察隊を率いるサリアが、厳しい表情で最新の情報を報告していた。
「大陸各地、特にアルビオン王国領内の魔物の活動が、異常なレベルで活発化しています」
彼女が指し示したのは、王国の南部の森林地帯、西部の山岳地帯、そして東部の湿地帯。そのいずれの場所でも、黒いマーカーが不気味なクラスターを形成していた。
「ゴブリンの大規模な集落移動。オークの部族間抗争の激化。そして、通常は単独で行動するはずのグリフォンやワイバーンといった大型の飛行魔獣が、群れを形成し始めているとの報告も」
その報告に、評議会のメンバーたちの顔に緊張が走る。
獣人族のガロウが腕を組み、唸るように言った。
「……嫌な感じだ。これはただ事じゃねえ。まるで大地そのものが怒り狂って震えてるみてえだ」
彼の野生の勘が、何かの巨大な異変を感じ取っている。

エリスもまた、その翠の瞳を憂鬱に曇らせていた。
「……森の精霊たちが囁いています。大地の魔力の流れが乱れている、と。何かに怯えるように、あるいは何かに引き寄せられるように、生き物たちの魂がざわついている、と」
彼女の神秘的な言葉は、この現象が単なる魔物の気まぐれなどではないことを示唆していた。
俺はサリアからもたらされた膨大なデータを冷静に分析していた。
魔物の移動方向。
活動の活発化する時間帯。
そして、異常行動が特に顕著に見られる地域。
それらの一見無関係に見える点を線で結んでいくと、一つの恐るべき結論が導き出された。

「……スタンピードだ」
俺の静かな一言に、その場の空気が凍りついた。
スタンピード。
それは何らかの巨大な要因によって、地域の全ての魔物が理性を失い、ただ一つの方向に向かって暴走を始める大規模な魔物の大暴走。
その破壊力は地震や津波といった天災にも匹敵する。
過去の歴史においても、スタンピードによっていくつもの国が、一夜にして地図の上から消え去ったという記録が残っている。

「……まさか。スタンピードなどここ数百年、大陸では発生していない伝説上の災害のはず……」
バルカスが顔面蒼白になって呟いた。
「だが、兆候は全てそれを示している」
俺は地図盤の上で、魔物の異常行動が集中しているいくつかの地点を指で結んだ。
その線が交差する中心点。
そこには、アルビオン王国の王都が位置していた。
「奴らは王都を目指している。何かが奴らを王都へと引き寄せているんだ」
「……何が、ですかな? アッシュ殿」
「分からん。だが、考えられるとすれば……」
俺の脳裏に、一人の少女の顔が浮かんだ。
聖女リリアーナ。
彼女の偽りの奇跡の力の源泉。他者の生命力を吸収し変換する、あの古代のアーティファクト。
もしあの魔道具が今、制御不能なほどに周囲の生命力を無差別に吸収し始めているとしたら?
魔物たちはその巨大な生命力の『渦』に、餌と勘違いして引き寄せられているのかもしれない。
あるいは、自らの生命力を奪われる脅威から逃れるために、その発生源を破壊しようとしているのかもしれない。
どちらにせよ、最悪の事態だった。

「……まずいな」
俺は思わず舌打ちした。
帝国軍の侵攻。
そして、王国史上最大規模となるであろうスタンピードの発生。
二つの巨大な脅威が今、まさに弱りきったアルビオン王国へと同時に襲いかかろうとしていた。
まるで瀕死の獲物の死骸に群がる、ハイエナとハゲタカのように。
「……我々は、どうしますか? アッシュ様」
シルヴィアが俺の決断を促す。
「静観しますか? それとも……」
「……静観だ」
俺は即答した。
「これは王国が自ら招いた災厄だ。我々が手を貸す義理も必要もない」
そのあまりにも冷徹な判断に、エリスが少しだけ悲しげな顔をした。
「……ですが、それでは王国の罪のない民たちが……」
「分かっている。だが、今は動く時ではない」
俺はエリスの目をまっすぐに見つめた。
「もし我々が今王国を助ければ、どうなる? 彼らは我々に感謝するだろうか? いや、しない。彼らは我々の力を恐れ、そしていずれ再び我々に牙を剥くだろう。そして、何より……」
俺は言葉を続けた。
「国が滅びるほどの痛みを知らなければ、人は変われない。王国は一度完全に死ぬ必要があるんだ。その腐りきった膿を、全て出し切るために」

俺の非情とも思える決断。
だが、評議会のメンバーは誰もそれに異を唱えなかった。
彼らもまた、王国からどれほどの理不尽な仕打ちを受けてきたか。その記憶がまだ生々しく残っているのだ。
「……分かったぜ、アッシュ」
ガロウが静かに頷いた。
「俺たちはあんたの決定に従う。だが、もしその災厄の火の粉がこのアヴァロンに降りかかってくるようなことがあれば、その時は……」
「その時は、容赦なく叩き潰す」
俺はきっぱりと言い切った。

その日のうちに、俺はアヴァロン全土に最高レベルの警戒態勢を発令した。
『神の盾』は常時、最大出力で起動状態を維持する。
ヴァルカン部隊はいつでも出撃できるよう待機させる。
そして、ハーピィの天空偵察隊は帝国軍とスタンピードの両方の動きを二十四時間体制で監視し続ける。
俺たちはただ待つ。
嵐が過ぎ去るのを。
そして、その後に訪れるであろう新しい時代の夜明けを。
王国の運命の日は、もう刻一刻と近づいていた。
その断末魔の悲鳴がこのアヴァロンにまで届いてくるのは、もう時間の問題だった。
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