嫌われ者の悪役貴族、追放されたので好きにすることにした

夏見ナイ

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第81話 聖女への祈り

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王都は混沌の坩堝と化した。
城壁を突破した魔物の群れは、飢えた獣のように市街地を蹂虙していく。建物を破壊し、食料を漁り、そして逃げ惑う人々にその牙を剥いた。
兵士たちはすでに組織的な抵抗を放棄していた。ある者は武器を捨てて民衆に紛れて逃げ惑い、ある者は恐怖のあまりその場で呆然と立ち尽くしている。
街のあちこちから悲鳴と怒号、そして建物の崩れる音が絶え間なく響き渡っていた。

そんな地獄絵図の中で、唯一秩序が保たれている場所があった。
王宮に隣接する大聖堂。
そこには王都の最後の希望を求める数千の民衆が、避難民として殺到していた。
彼らはもはや王も騎士団も信じていなかった。
彼らが最後にすがりつくことができるのは、ただ一人。
神の御業をこの地上で体現するという聖女リリアーナ、その人だけだった。

「聖女様!」
「リリアーナ様、どうか我々をお救いください!」
「奇跡を! どうかもう一度、あの奇跡を!」
大聖堂の広大な礼拝堂は、祈りの声で満ち溢れていた。
怪我を負った者、家族を失い泣きじゃくる者。彼らは皆、祭壇の上に静かに佇む一人の少女に、その必死の眼差しを向けていた。

リリアーナは、その数千の祈りと期待の視線を一身に浴びながら、内心でかつてないほどの恐怖と絶望に打ち震えていた。
(……無理よ……)
彼女の心は悲鳴を上げていた。
(私に、こんな数の魔物を追い払う力などあるはずがない……!)
彼女のアーティファクトの力は、あくまで『治癒』に特化したものだ。
攻撃的な奇跡など、起こせるはずもなかった。
それにスタンピードの発生によって大地そのものの生命力が著しく低下している今、彼女の力の源泉そのものが枯渇しかけていた。
聖浄軍に祝福を与えたのが、彼女にできる最後の精一杯の大奇跡だったのだ。

だが彼女は、ここで逃げ出すわけにはいかなかった。
聖女という仮面を、脱ぎ捨てるわけにはいかなかった。
それを失ってしまえば、彼女には何も残らない。
彼女は必死に、聖女の慈愛に満ちた微笑みをその顔に貼り付けた。
そして祭壇から降りると、傷つき血を流している避難民たちの間を歩き始めた。
「……大丈夫です。神は、あなたたちを見捨てはしません」
その声は震えていたが、必死に威厳を保とうとしていた。

彼女は最初に、瓦礫の下敷きになり足を複雑骨折した一人の少女の前に跪いた。
そして、その傷ついた足にそっと手をかざす。
彼女の最後のなけなしの力を振り絞って。
彼女の手から淡い金色の光が溢れ出す。
光が傷を包み込むと、見る見るうちに血は止まり、腫れは引き、そして折れていたはずの骨が元通りに繋がっていく。
少女は恐る恐る足を動かした。痛みは完全に消えていた。
「……! 治った……! 足が治ったわ!」
少女の母親が、歓喜の涙を流しながらリリアーナの足元にひれ伏した。
「ああ、聖女様! ありがとうございます!」
その光景を見て、周囲の民衆から安堵と称賛の声が上がった。
「さすがは聖女様だ!」
「我々も助かるぞ!」

その歓声が、リリアーナの心を少しだけ麻痺させた。
そうだ、私はまだ聖女なのだ。
私はまだ人々の希望でいられる。
彼女は、その偽りの自己陶酔に身を任せるように、次々と怪我人の治療を続けた。
腕を斬られた兵士。
火傷を負った子供。
彼女の手が触れるたびに光が溢れ、傷は癒えていく。
その神々しい光景は、地獄と化した王都の中で唯一の希望の光のように見えた。

だが、その偽りの奇跡には当然代償が伴っていた。
リリアーナの顔色は治療を重ねるたびに、目に見えて悪くなっていった。
額には脂汗が滲み、その呼吸は次第に荒くなっていく。
彼女のアーティファクトは、彼女自身の生命力をも燃料としてその力を発揮していたのだ。
そしてその消費量は、周囲の生命力が枯渇すればするほど加速度的に増していく。
彼女は今、自らの命を削りながら奇跡を演じ続けていた。

「……はぁ……はぁ……」
ついに彼女の膝が、がくりと折れた。
視界が霞む。
耳鳴りがする。
だが彼女の周りには、まだ助けを求める無数の人々が群がっていた。
「聖女様、私の息子も!」
「妻が息をしていません! どうか!」
その必死の声が、彼女の限界に達した精神を容赦なく苛む。
(……もうやめて……)
(……もう私には何もできない……)
彼女の心の叫びは、誰にも届かない。

その時だった。
大聖堂の荘厳なステンドグラスが、凄まじい破壊音と共に外側から粉々に砕け散った。
「「「きゃあああああ!」」」
避難民たちが悲鳴を上げる。
砕け散った窓の外から、一体の巨大な異形の影がその姿を現した。
それはワイバーンだった。
その爬虫類のような醜悪な顔。溶岩のように赤く輝く双眸。
その目は、この聖堂の中で最も強い生命力の光を放っているリリアーナを、獲物として正確に捉えていた。

「……ひ……」
リリアーナは腰を抜かし、その場にへたり込んだ。
聖女の仮面はもはやどこにもない。
そこにいたのは、ただ死の恐怖に怯える一人の無力な少女だけだった。
ワイバーンは耳障りな甲高い鳴き声を上げると、彼女に向かってその巨大な顎を開いた。
絶体絶命。

彼女の短い人生が終わろうとしたその瞬間、一つの閃光が走った。
それは祭壇に飾られていた銀の燭台を投げつけた、一人の近衛騎士の最後の抵抗だった。
燭台はワイバーンの巨大な目に直撃した。
「ギシャアアアアア!」
ワイバーンは苦痛の叫び声を上げ、暴れ狂う。
その隙に数人の騎士たちがリリアーナの体を抱え上げ、祭壇の奥へと必死に退避させた。

民衆は、その光景をただ呆然と見つめていた。
聖女は魔物を退けてはくれなかった。
彼女はただ自分たちと同じように、恐怖に怯えるだけのか弱い少女だった。
彼らが信じていた最後の希望。
そのあまりにも脆い正体を目の当たりにして、彼らの心に初めて本当の、そして底なしの絶望が訪れた。
聖女への祈りは終わった。
そしてそれは、王国の完全な心の崩壊を意味していた。
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