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第84話 王の逃亡
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「……逃げるぞ」
アルフレッドのか細く震える声が、がらんとした玉座の間に響いた。
その言葉を聞いた数少ない側近の一人である老いた侍従長が、信じられないといった顔で彼に問いかけた。
「……で、殿下? 今、何と……?」
「聞こえなかったのか!」
アルフレッドはヒステリックに叫んだ。その顔は恐怖と自己保身で醜く歪んでいた。
「西の秘密通路から脱出するのだ! ぐずぐずするな! 今すぐ準備をさせろ!」
それは王として、いや一人の人間として最も卑劣で恥ずべき決断だった。
国が、民が最大の危機に瀕しているその時に、その全てを見捨て自分一人の命だけを守るために逃げ出す。
侍従長は、その場で崩れ落ちそうになるのを必死で堪えた。彼はアルフレッドの祖父の代からこの王家に仕えてきた。その王家が今、最も無様な形でその歴史に幕を閉じようとしている。その絶望が彼の老いた体を打ちのめした。
だが、命令は絶対だった。
近衛騎士団の中から最も腕の立つ十数名が選抜された。彼らの最後の任務は国を守ることではなく、逃げ出す臆病な王を護衛することだった。
彼らの顔には何の感情も浮かんでいなかった。ただ与えられた最後の、そして最も不名誉な任務を遂行するだけ。
アルフレッドは王冠も宝剣も全て投げ捨てた。
彼は目立たないように、粗末な旅人のマントをその身にまとった。
そして数名の側近と護衛の騎士たちに囲まれて、玉座の間を後にした。
その背中は、あまりにも小さく、そして惨めだった。
彼らが目指すのは、王宮の地下深くにある秘密の脱出口。
そこから王都の地下を走る秘密の通路を通り、城壁の外へと脱出する手はずだった。
その通路の存在を知るのは、王族とごく一部の大貴族だけ。
すでに多くの貴族たちがその通路を通って、王都から逃げ出しているはずだった。
だが彼らが地下通路の入り口に辿り着いた時、そこには予期せぬ光景が広がっていた。
通路の入り口には、すでに数十人の貴族とその家族たちが殺到していたのだ。
彼らは我先にと狭い入り口へと体をねじ込もうとして、醜い罵り合いを繰り広げていた。
「押すな! この下衆が!」
「どきなさい! 我がマルティン公爵家が先よ!」
かつて懲罰遠征軍を率いたマルティン公爵の、肥え太った妻が甲高い声で叫んでいる。
その手には宝石箱が大事そうに抱えられていた。
民の苦しみなどどこ吹く風。
彼らの頭の中にあるのは、自分たちの命と財産だけだった。
「……何をしておるか! 道を開けよ!」
アルフレッドの護衛の騎士が叫んだ。
「王太子殿下の御前であるぞ!」
その声に貴族たちは一瞬動きを止めた。
そしてアルフレッドの姿を認めると、彼らの顔に安堵と、そして新たな欲望の色が浮かんだ。
「おお、殿下! ご無事でしたか!」
「これで安心ですな! 殿下の護衛と一緒なら安全に逃げられますぞ!」
彼らはアルフレッドを王として敬っているのではなかった。
ただ自分たちの安全を確保するための、便利な『盾』として利用しようとしているだけだった。
その剥き出しのエゴ。
アルフレッドは、自分と同じ醜い欲望の顔を彼らの中に見た。
そして強烈な吐き気を覚えた。
だが彼らがその醜い争いを続けている間にも、背後からは暴徒と化した民衆の怒号と、そして王宮の何かが破壊される轟音が近づいてきていた。
時間はない。
「……構うな」
アルフレッドは吐き捨てるように言った。
「こいつらを置き去りにして、我々だけで先に行くぞ」
その冷酷な一言。
それを聞き咎めた貴族たちが、今度はアルフレッドに牙を剥いた。
「な、何をおっしゃるか殿下! 我々を見捨てるおつもりか!」
「お忘れか! 我らは貴方様にこれまでどれだけの忠誠を尽くしてきたと!」
彼らの忠誠心とは、所詮その程度の薄っぺらいものでしかなかった。
もはやそこには主君も家臣もない。
あるのは生き残るための椅子を奪い合う、獣たちの醜い争いだけだった。
その醜悪な内輪揉めが、彼らの運命を決定づけた。
ゴオオオオォォン!
すぐ近くで巨大な爆発音が響いた。
暴徒が王宮の武器庫に火を放ったのだ。
その衝撃で古い地下通路の天井が崩れ始めた。
ガラガラガラ……!
巨大な岩石と土砂が滝のように降り注ぎ、秘密の脱出口を完全に塞いでしまった。
「……あ……」
誰もが言葉を失った。
彼らの最後の希望の道が、今自分たちの醜い争いによって永遠に断たれてしまったのだ。
「……どうする……。どうすれば……」
アルフレッドはその場にへたり込んだ。
もはや彼に考える力は残されていなかった。
彼はただ迫り来る死の足音を聞いているだけだった。
だがその時、彼に最後まで付き従っていた老いた侍従長が、静かに彼の前に進み出た。
「……殿下」
その声は不思議なほど落ち着いていた。
「……まだ、道はございます」
「……え?」
「王宮にはもう一つだけ、初代国王陛下だけがご存知だったという伝説の脱出路がございます。この玉座の真下に……」
その言葉はアルフレッドにとって、まさに地獄に垂らされた一本の蜘蛛の糸だった。
彼はその糸に必死にすがりついた。
王としての誇りも、民への責務も、そして自分を見捨てていった貴族たちの運命も、もはやどうでもいい。
ただ生きたい。
その一つの本能だけが、彼を突き動かしていた。
王の最後の、そして最も惨めな逃亡劇が、今始まろうとしていた。
アルフレッドのか細く震える声が、がらんとした玉座の間に響いた。
その言葉を聞いた数少ない側近の一人である老いた侍従長が、信じられないといった顔で彼に問いかけた。
「……で、殿下? 今、何と……?」
「聞こえなかったのか!」
アルフレッドはヒステリックに叫んだ。その顔は恐怖と自己保身で醜く歪んでいた。
「西の秘密通路から脱出するのだ! ぐずぐずするな! 今すぐ準備をさせろ!」
それは王として、いや一人の人間として最も卑劣で恥ずべき決断だった。
国が、民が最大の危機に瀕しているその時に、その全てを見捨て自分一人の命だけを守るために逃げ出す。
侍従長は、その場で崩れ落ちそうになるのを必死で堪えた。彼はアルフレッドの祖父の代からこの王家に仕えてきた。その王家が今、最も無様な形でその歴史に幕を閉じようとしている。その絶望が彼の老いた体を打ちのめした。
だが、命令は絶対だった。
近衛騎士団の中から最も腕の立つ十数名が選抜された。彼らの最後の任務は国を守ることではなく、逃げ出す臆病な王を護衛することだった。
彼らの顔には何の感情も浮かんでいなかった。ただ与えられた最後の、そして最も不名誉な任務を遂行するだけ。
アルフレッドは王冠も宝剣も全て投げ捨てた。
彼は目立たないように、粗末な旅人のマントをその身にまとった。
そして数名の側近と護衛の騎士たちに囲まれて、玉座の間を後にした。
その背中は、あまりにも小さく、そして惨めだった。
彼らが目指すのは、王宮の地下深くにある秘密の脱出口。
そこから王都の地下を走る秘密の通路を通り、城壁の外へと脱出する手はずだった。
その通路の存在を知るのは、王族とごく一部の大貴族だけ。
すでに多くの貴族たちがその通路を通って、王都から逃げ出しているはずだった。
だが彼らが地下通路の入り口に辿り着いた時、そこには予期せぬ光景が広がっていた。
通路の入り口には、すでに数十人の貴族とその家族たちが殺到していたのだ。
彼らは我先にと狭い入り口へと体をねじ込もうとして、醜い罵り合いを繰り広げていた。
「押すな! この下衆が!」
「どきなさい! 我がマルティン公爵家が先よ!」
かつて懲罰遠征軍を率いたマルティン公爵の、肥え太った妻が甲高い声で叫んでいる。
その手には宝石箱が大事そうに抱えられていた。
民の苦しみなどどこ吹く風。
彼らの頭の中にあるのは、自分たちの命と財産だけだった。
「……何をしておるか! 道を開けよ!」
アルフレッドの護衛の騎士が叫んだ。
「王太子殿下の御前であるぞ!」
その声に貴族たちは一瞬動きを止めた。
そしてアルフレッドの姿を認めると、彼らの顔に安堵と、そして新たな欲望の色が浮かんだ。
「おお、殿下! ご無事でしたか!」
「これで安心ですな! 殿下の護衛と一緒なら安全に逃げられますぞ!」
彼らはアルフレッドを王として敬っているのではなかった。
ただ自分たちの安全を確保するための、便利な『盾』として利用しようとしているだけだった。
その剥き出しのエゴ。
アルフレッドは、自分と同じ醜い欲望の顔を彼らの中に見た。
そして強烈な吐き気を覚えた。
だが彼らがその醜い争いを続けている間にも、背後からは暴徒と化した民衆の怒号と、そして王宮の何かが破壊される轟音が近づいてきていた。
時間はない。
「……構うな」
アルフレッドは吐き捨てるように言った。
「こいつらを置き去りにして、我々だけで先に行くぞ」
その冷酷な一言。
それを聞き咎めた貴族たちが、今度はアルフレッドに牙を剥いた。
「な、何をおっしゃるか殿下! 我々を見捨てるおつもりか!」
「お忘れか! 我らは貴方様にこれまでどれだけの忠誠を尽くしてきたと!」
彼らの忠誠心とは、所詮その程度の薄っぺらいものでしかなかった。
もはやそこには主君も家臣もない。
あるのは生き残るための椅子を奪い合う、獣たちの醜い争いだけだった。
その醜悪な内輪揉めが、彼らの運命を決定づけた。
ゴオオオオォォン!
すぐ近くで巨大な爆発音が響いた。
暴徒が王宮の武器庫に火を放ったのだ。
その衝撃で古い地下通路の天井が崩れ始めた。
ガラガラガラ……!
巨大な岩石と土砂が滝のように降り注ぎ、秘密の脱出口を完全に塞いでしまった。
「……あ……」
誰もが言葉を失った。
彼らの最後の希望の道が、今自分たちの醜い争いによって永遠に断たれてしまったのだ。
「……どうする……。どうすれば……」
アルフレッドはその場にへたり込んだ。
もはや彼に考える力は残されていなかった。
彼はただ迫り来る死の足音を聞いているだけだった。
だがその時、彼に最後まで付き従っていた老いた侍従長が、静かに彼の前に進み出た。
「……殿下」
その声は不思議なほど落ち着いていた。
「……まだ、道はございます」
「……え?」
「王宮にはもう一つだけ、初代国王陛下だけがご存知だったという伝説の脱出路がございます。この玉座の真下に……」
その言葉はアルフレッドにとって、まさに地獄に垂らされた一本の蜘蛛の糸だった。
彼はその糸に必死にすがりついた。
王としての誇りも、民への責務も、そして自分を見捨てていった貴族たちの運命も、もはやどうでもいい。
ただ生きたい。
その一つの本能だけが、彼を突き動かしていた。
王の最後の、そして最も惨めな逃亡劇が、今始まろうとしていた。
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