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第二十八話 人の愚かさと竜の怒り
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終焉の黒竜が、その真の姿を現した瞬間、戦いの趨勢は決した。いや、そもそも、あれは戦いですらなかったのだ。
恐怖に支配された騎士団は、完全に統制を失っていた。ワイバーンたちは主人の指示を無視して逃げ惑い、騎士たちはただ、目の前の神話的存在を前に、呆然と立ち尽くすか、意味のない絶叫を上げるだけだった。
「ひ、退け!退却だぁっ!」
誰かが叫んだのを皮切りに、彼らは雪崩を打ったように逃走を開始した。もはや、軍隊としての体裁はどこにもない。ただの、烏合の衆の潰走だった。
アルフォンス王子も、顔面蒼白になりながら、必死で白銀のワイバーンの手綱を引いている。その顔には、先ほどまでの傲慢な自信は欠片もなく、ただ純粋な、生物としての恐怖だけが浮かんでいた。
彼らは、本気で私を救いに来たのではない。
自分たちの力を誇示し、聖女を奪還した英雄となるために来たのだ。だから、相手が自分たちの手に負えないと分かった瞬間、その張子の虎のような正義は、いとも簡単に崩れ去った。
黒竜――カイザーは、そんな彼らの醜態を、ただ冷ややかに見下ろしていた。
そして、その巨大な口を、ゆっくりと、わずかに開く。
喉の奥で、世界の全てを焼き尽くすほどの、紅蓮の光が渦を巻いた。
ブレスの予兆。
「―――っ!」
私は、カイザーに耳を塞がれたまま、声にならない叫びを上げた。
だめ、それだけは。
あれを放てば、彼らは皆、塵になってしまう。たとえどれほど愚かでも、彼らを殺してはいけない。
私の必死の想いが届いたのか、あるいは、彼も最初からそのつもりはなかったのか。
カイザーが放ったのは、破壊の炎ではなかった。
ゴオオオオオオッ!!!
天を裂き、地を揺るがす、咆哮。
それは、先日の偵察部隊に向けたものとは、比べ物にならないほど、純粋な魔力の塊だった。
音の衝撃波が、嵐となって空を薙ぎ払う。
逃げ惑っていたワイバーンたちが、まるで風に舞う木の葉のように、いとも簡単に吹き飛ばされていく。騎士たちは悲鳴を上げる間もなく、その背から振り落とされ、雲海の遥か下へと落ちていった。
だが、彼らが地面に激突することはなかった。
カイザーの咆哮に込められた魔力は、彼らの体を優しく(竜の基準で、だが)包み込み、落下速度を強制的に緩めていたのだ。彼らはおそらく、気を失ったまま、地上のどこかの森にでも、不時着することになるのだろう。
殺しはしない。
だが、二度と自分に歯向かう愚かな考えを起こさせないために、骨の髄まで、絶対的な恐怖を刻み込む。
それが、カイザーのやり方だった。
ものの数分も経たないうちに、天空城の周囲を飛んでいた数百のワイバーンと騎士たちは、一掃された。残っているのは、ただ一人。
必死でワイバーンにしがみつき、かろうじてその場に留まっている、アルフォンス王子だけだった。
黒竜の、燃え盛る黄金の瞳が、そのちっぽけな存在を、ゆっくりと捉える。
「ひぃっ……!」
王子が、情けない悲鳴を上げた。
黒竜は、その巨体からは想像もつかないほどの速さで、音もなく彼に接近した。そして、山のように巨大な顔を、王子の目の前へと突き出す。
黄金の瞳と、王子の瞳が、至近距離で交差する。
もはや、声も出ないのだろう。王子は、ただカチカチと歯を鳴らし、失禁しているのか、鎧の隙間から液体が滴り落ちているのが見えた。
黒竜は、何も言わなかった。
ただ、その神の如き瞳で、人間の王子という存在の、魂の奥底までを、じっと、見つめている。
時間にして、わずか数秒。
だが、王子にとっては、永遠とも感じられる時間だったに違いない。
やがて、黒竜は、ふん、と鼻先から熱い息を一つ吐き出した。その風圧だけで、王子の乗るワイバーンは大きく体勢を崩す。
そして、竜は静かに、その場を離れた。
もう、興味を失った、とでも言うかのように。
解放された王子は、我に返ったように絶叫すると、ワイバーンの腹を滅茶苦茶に蹴りつけ、狂ったようにその場から逃げ去っていった。その背中は、英雄でも、王子でもなく、ただの、恐怖に駆られた哀れな獣のそれだった。
嵐は、完全に過ぎ去った。
空には、再び静寂が戻ってくる。
カイザーは、ゆっくりとテラスに着地すると、その姿を再び人型へと戻した。
そして、私の耳を覆っていた彼の手が、そっと離される。
「……終わった」
彼は、何事もなかったかのように、静かに言った。
その顔には、怒りの色も、戦いの後の高揚も、何も浮かんでいない。ただ、いつもの、静かで穏やかなカイザーが、そこにいた。
私は、彼の顔を、ただ、見つめていた。
そして、気づけば、私は、彼の胸に、飛び込んでいた。
「……アリア?」
戸惑う彼の声が、頭の上で聞こえる。
私は、彼の胸に顔をうずめたまま、しゃくりあげるように、泣いていた。
怖かった。
彼の力が、ではない。
彼を、失うかもしれないと、そう思ったことが、怖かったのだ。
もし、万が一、彼に何かあったら。もし、あの騎士団の中に、彼を傷つけられるような、規格外の何かが紛れていたら。
そう思うだけで、心臓が凍りつきそうだった。
守られるだけじゃ嫌だ、と誓ったのに。
結局、私は、何もできなかった。ただ、彼の背中の後ろで、震えていることしか。
「ごめんなさい……ごめんなさい……っ」
何に対して謝っているのか、自分でも分からない。ただ、涙が、止まらなかった。
カイザーは、何も言わなかった。
ただ、その大きな腕で、私の体を、優しく、しかし力強く、抱きしめ返してくれた。
その温もりが、私の張り詰めていた心を、ゆっくりと溶かしていく。
人の愚かさと、竜の怒り。
その、あまりにも圧倒的で、絶望的な差。
その渦の中心に、私はいる。
そして、この腕の中だけが、私の、世界で唯一の、安らげる場所なのだと。
私は、心の底から、そう思った。
恐怖に支配された騎士団は、完全に統制を失っていた。ワイバーンたちは主人の指示を無視して逃げ惑い、騎士たちはただ、目の前の神話的存在を前に、呆然と立ち尽くすか、意味のない絶叫を上げるだけだった。
「ひ、退け!退却だぁっ!」
誰かが叫んだのを皮切りに、彼らは雪崩を打ったように逃走を開始した。もはや、軍隊としての体裁はどこにもない。ただの、烏合の衆の潰走だった。
アルフォンス王子も、顔面蒼白になりながら、必死で白銀のワイバーンの手綱を引いている。その顔には、先ほどまでの傲慢な自信は欠片もなく、ただ純粋な、生物としての恐怖だけが浮かんでいた。
彼らは、本気で私を救いに来たのではない。
自分たちの力を誇示し、聖女を奪還した英雄となるために来たのだ。だから、相手が自分たちの手に負えないと分かった瞬間、その張子の虎のような正義は、いとも簡単に崩れ去った。
黒竜――カイザーは、そんな彼らの醜態を、ただ冷ややかに見下ろしていた。
そして、その巨大な口を、ゆっくりと、わずかに開く。
喉の奥で、世界の全てを焼き尽くすほどの、紅蓮の光が渦を巻いた。
ブレスの予兆。
「―――っ!」
私は、カイザーに耳を塞がれたまま、声にならない叫びを上げた。
だめ、それだけは。
あれを放てば、彼らは皆、塵になってしまう。たとえどれほど愚かでも、彼らを殺してはいけない。
私の必死の想いが届いたのか、あるいは、彼も最初からそのつもりはなかったのか。
カイザーが放ったのは、破壊の炎ではなかった。
ゴオオオオオオッ!!!
天を裂き、地を揺るがす、咆哮。
それは、先日の偵察部隊に向けたものとは、比べ物にならないほど、純粋な魔力の塊だった。
音の衝撃波が、嵐となって空を薙ぎ払う。
逃げ惑っていたワイバーンたちが、まるで風に舞う木の葉のように、いとも簡単に吹き飛ばされていく。騎士たちは悲鳴を上げる間もなく、その背から振り落とされ、雲海の遥か下へと落ちていった。
だが、彼らが地面に激突することはなかった。
カイザーの咆哮に込められた魔力は、彼らの体を優しく(竜の基準で、だが)包み込み、落下速度を強制的に緩めていたのだ。彼らはおそらく、気を失ったまま、地上のどこかの森にでも、不時着することになるのだろう。
殺しはしない。
だが、二度と自分に歯向かう愚かな考えを起こさせないために、骨の髄まで、絶対的な恐怖を刻み込む。
それが、カイザーのやり方だった。
ものの数分も経たないうちに、天空城の周囲を飛んでいた数百のワイバーンと騎士たちは、一掃された。残っているのは、ただ一人。
必死でワイバーンにしがみつき、かろうじてその場に留まっている、アルフォンス王子だけだった。
黒竜の、燃え盛る黄金の瞳が、そのちっぽけな存在を、ゆっくりと捉える。
「ひぃっ……!」
王子が、情けない悲鳴を上げた。
黒竜は、その巨体からは想像もつかないほどの速さで、音もなく彼に接近した。そして、山のように巨大な顔を、王子の目の前へと突き出す。
黄金の瞳と、王子の瞳が、至近距離で交差する。
もはや、声も出ないのだろう。王子は、ただカチカチと歯を鳴らし、失禁しているのか、鎧の隙間から液体が滴り落ちているのが見えた。
黒竜は、何も言わなかった。
ただ、その神の如き瞳で、人間の王子という存在の、魂の奥底までを、じっと、見つめている。
時間にして、わずか数秒。
だが、王子にとっては、永遠とも感じられる時間だったに違いない。
やがて、黒竜は、ふん、と鼻先から熱い息を一つ吐き出した。その風圧だけで、王子の乗るワイバーンは大きく体勢を崩す。
そして、竜は静かに、その場を離れた。
もう、興味を失った、とでも言うかのように。
解放された王子は、我に返ったように絶叫すると、ワイバーンの腹を滅茶苦茶に蹴りつけ、狂ったようにその場から逃げ去っていった。その背中は、英雄でも、王子でもなく、ただの、恐怖に駆られた哀れな獣のそれだった。
嵐は、完全に過ぎ去った。
空には、再び静寂が戻ってくる。
カイザーは、ゆっくりとテラスに着地すると、その姿を再び人型へと戻した。
そして、私の耳を覆っていた彼の手が、そっと離される。
「……終わった」
彼は、何事もなかったかのように、静かに言った。
その顔には、怒りの色も、戦いの後の高揚も、何も浮かんでいない。ただ、いつもの、静かで穏やかなカイザーが、そこにいた。
私は、彼の顔を、ただ、見つめていた。
そして、気づけば、私は、彼の胸に、飛び込んでいた。
「……アリア?」
戸惑う彼の声が、頭の上で聞こえる。
私は、彼の胸に顔をうずめたまま、しゃくりあげるように、泣いていた。
怖かった。
彼の力が、ではない。
彼を、失うかもしれないと、そう思ったことが、怖かったのだ。
もし、万が一、彼に何かあったら。もし、あの騎士団の中に、彼を傷つけられるような、規格外の何かが紛れていたら。
そう思うだけで、心臓が凍りつきそうだった。
守られるだけじゃ嫌だ、と誓ったのに。
結局、私は、何もできなかった。ただ、彼の背中の後ろで、震えていることしか。
「ごめんなさい……ごめんなさい……っ」
何に対して謝っているのか、自分でも分からない。ただ、涙が、止まらなかった。
カイザーは、何も言わなかった。
ただ、その大きな腕で、私の体を、優しく、しかし力強く、抱きしめ返してくれた。
その温もりが、私の張り詰めていた心を、ゆっくりと溶かしていく。
人の愚かさと、竜の怒り。
その、あまりにも圧倒的で、絶望的な差。
その渦の中心に、私はいる。
そして、この腕の中だけが、私の、世界で唯一の、安らげる場所なのだと。
私は、心の底から、そう思った。
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