ドラゴンに攫われた聖女ですが、このドラゴン、めちゃくちゃ過保護でイケメンです

夏見ナイ

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第三十話 私のために、戦わないで

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カイザーの腕の中は、世界で一番安全で温かい場所だった。
私は子供のようにしゃくりあげながら、彼の胸に顔をうずめていた。先ほどまでの恐怖と、今の絶対的な安心感。その落差に感情がついていかない。
どれくらい、そうしていただろうか。
やがて私の嗚咽は、次第に小さなものになっていった。カイザーは私が落ち着くまで、ただ黙って私の背中を優しく撫で続けてくれた。
「……もう、大丈夫か」
頭の上から、彼の低い声が降ってくる。
私はこくりと頷くと、名残惜しい気持ちでゆっくりと彼の胸から顔を上げた。見上げると、彼の黒曜石の瞳が心配そうに私を覗き込んでいる。
「すみません……取り乱して」
「気にするな」
彼はそう言うと、そっと私の頬に残る涙の跡を、その大きな指で拭ってくれた。
その、あまりにも優しい手つき。
その手が、つい先ほどまで数百の騎士たちを赤子の手をひねるように蹂躙していたとは信じられなかった。
脳裏に、あの光景が蘇る。
風に舞う木の葉のように吹き飛ばされる騎士たち。恐怖に歪むアルフォンス王子の顔。
たとえ彼らがどれほど愚かな行いをしたとしても。たとえカイザーが誰一人殺さなかったとしても。あの光景は、私の心に深い傷跡を残していた。
あれは一方的な暴力だった。そして、その引き金は紛れもなく私なのだ。
「……怖かったです」
ぽつりと、そんな言葉が漏れた。
カイザーは私の言葉を聞いて、わずかに眉をひそめた。
「俺が負けると思ったか」
「違います」
私は静かに首を振った。
「そうじゃありません。カイザー様が誰かを傷つけているのを見るのが……怖かったんです。あなたのあんなに怒りに満ちた姿を見るのが、辛かったんです」
私の言葉に、カイザーは少しだけ意外そうな顔をした。
「彼らは、お前を侮辱した。俺の逆鱗に触れた。相応の報いを受けさせただけだ。何を辛いと思う必要がある」
彼の声には、純粋な疑問の色が浮かんでいた。彼にとって害意を持つ者を排除するのは、呼吸をするのと同じくらい当たり前のことなのだ。そこに感傷の入り込む余地はない。
竜と人間。
その決して埋めることのできない価値観の溝。
それを感じて、私の胸はきゅっと締め付けられた。
「彼らは……たとえ愚かでも、人間です。私の故郷の人々です」
「故郷だと? お前を物のように扱い、命さえ奪おうとした者たちがか」
彼の声に、冷たい響きが混じる。
「私にとっては、それでも……」
言葉が続かない。
私を苦しめた人々。けれど、その中にはかつて私に笑顔を向けてくれた者もいたはずなのだ。魔王が倒れた時、共に平和の訪れを喜んだ名も知らぬ民衆の顔が、脳裏をよぎる。
私は、彼ら全てを憎みきることなどできなかった。
「カイザー様」
私は彼の胸元に置かれたマントを強く握りしめた。そして、意を決して彼を見上げる。
「お願いがあります」
「……なんだ」
「もう、やめてください」
「……やめろ、とは。何をだ」
「私のために戦うのを、やめてください」
それは、私の魂からの悲痛な叫びだった。
「私はもう見たくありません。あなたが誰かを傷つける姿を。あなたの手が血で汚れるかもしれないなんて……そんなのは、耐えられません」
たとえそれが私を守るための戦いだとしても。
私は彼が「終焉の黒竜」として、その破壊の力を行使する姿を見たくなかった。
私の懇願を聞いて、カイザーは初めて心から困惑したような表情を浮かべた。
「……アリア。お前は何を言っている」
その声には、戸惑いとわずかな苛立ちが滲んでいる。
「俺は、お前を守ると誓った。お前に害をなす者がいる限り、俺は戦う。それは覆すことのできない俺の存在意義そのものだ。それをやめろと言うのか」
「でも……!」
「もし俺が戦わなければ、どうなる? 次に彼らが来た時、今度こそお前は連れ去られるかもしれん。そして、その命を奪われることになる。お前はそれを望むとでも言うのか」
彼の言葉は正論だった。あまりにも正しい理屈だった。
反論など、できるはずもなかった。
分かっている。分かっているのだ。
彼が戦わなければ、私は殺される。
彼が戦えば、誰かが傷つく。
どちらも地獄。
「……っ」
涙がまた溢れてきた。
自分のどうしようもない甘さが、そして無力さが憎かった。
そんな私を見て、カイザーは苦しげに顔を歪めた。彼は天を仰ぐと、深い深いため息をついた。
それは、数千年の時を生きてきた賢者が初めて解くことのできない難問に突き当たったかのような、そんな響きを持っていた。
やがて彼は私に向き直ると、まるで言い聞かせるように、静かなしかし強い口調で言った。
「……アリア。戦いをやめることはできん」
その言葉に、私の心は絶望に沈む。
だが、彼は言葉を続けた。
「……だが、約束しよう」
彼は私の頬に手を添え、その瞳を真っ直ぐに覗き込んできた。
「これ以上、お前を悲しませるようなことはしない。お前が望むなら……俺は二度と、誰一人として殺しはしない、と」
それは、絶対的な強者である彼が自らに課した、重い重い「枷」だった。
私のたった一粒の涙のために。
彼は竜としての本能の一部を封印すると誓ってくれたのだ。
その、あまりにも大きく、そして不器用な愛情。
私は、もう何も言えなかった。
ただ彼の胸に顔をうずめ、感謝と申し訳なさと、そしてどうしようもないほどの愛しさを込めて、何度も何度も頷き続けることしかできなかった。
空にはまだ、戦いの名残である魔力の残滓が渦巻いていた。
これが終わりではない。
もっと大きな嵐が、やがて私たちを飲み込みに来るだろう。
その時、彼の誓いは、そして私のこの甘い願いは、一体どんな結末をもたらすことになるのだろうか。
答えはまだ、誰にも分からなかった。
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