ドラゴンに攫われた聖女ですが、このドラゴン、めちゃくちゃ過保護でイケメンです

夏見ナイ

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第三十一話 王子の凶刃

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カイザーの腕の中で、私はようやく心の平穏を取り戻しつつあった。
彼の誓い。それは私の甘い願いを叶えるための、あまりにも重い自己への制約。その事実が、私の胸を感謝と申し訳なさでいっぱいにする。
「……ありがとうございます」
私は彼の胸から顔を上げ、もう一度心からの感謝を伝えた。
カイザーは何も言わずに、ただ静かに頷いた。
その時だった。
遥か下方の荒れ狂う雲海の切れ間から、見覚えのある影がよろよろと姿を現した。
白銀のワイバーン。そして、その背で必死に体勢を立て直そうとしているアルフォンス王子だった。
彼は逃げ遅れたのだろうか。あるいは恐怖のあまり、方向感覚を失ってしまったのかもしれない。その姿は先ほどまでの傲慢さが嘘のように、哀れで惨めだった。
かつての私の婚約者。
その無様な姿に、私の心に宿ったのは怒りでも憎しみでもなかった。
一種の憐れみに近い感情。
そして、この無意味な争いを本当の意味で終わらせなければならないという、聖女としての使命感だった。
「アルフォンス様……」
私はテラスの縁へ、一歩歩み寄った。
「やめておけ、アリア」
背後から、カイザーの氷のように冷たい声がした。
「あの男はもはや正気ではない。何を言っても無駄だ」
「でも……!」
私は振り返って彼に訴えた。
「でも、このままでは彼は死んでしまうかもしれない。あのワイバーンももう限界です。このままでは雲海の底へ……」
「自業自得だ」
カイザーの言葉は、どこまでも冷徹だった。
「自分の愚かな行いが招いた結果だ。我々が心を痛める必要などどこにもない」
彼の言う通りだった。頭では分かっている。
けれど、私の心は目の前の命を見捨てることを良しとしなかった。
「それでも、私は伝えたいんです。もうやめてください、と。これ以上は誰のためにもならない、と」
「……」
カイザーは苦虫を噛み潰したような顔で黙り込んだ。彼は私のこのどうしようもない甘さに、呆れているのだろう。
私は彼の制止を振り切るように、テラスの最も外側へと進み出た。そして、最後の力を振り絞るように王子に向かって叫んだ。
「アルフォンス様!もうおやめください!これ以上の争いは無意味です!」
カイザーの魔法はもうかかっていない。けれど、私の声は必死の想いを乗せて空気を震わせた。
私の声に、王子がはっと顔を上げた。
その虚ろだった瞳が、テラスに立つ私の姿を確かに捉える。
次の瞬間、その瞳にぞっとするような狂気の光が宿った。
「アリア……! アリアだ……! そうだ、お前さえ……お前さえいれば……!」
王子は何かをぶつぶつと呟きながら、狂ったように笑い始めた。
そして彼は最後の力を振り絞って、ワイバーンの首筋を蹴りつけた。傷ついたワイバーンは悲鳴のような鳴き声を上げながら、一直線に私たちがいるテラスへと向かってくる。
「カイザー様!」
私が迎撃を促すように叫ぶと、カイザーの体から黒い魔力が立ち上った。
だが私は、その彼の前に両手を広げて立ちはだかった。
「待ってください! 彼はきっと話せば分かるはずです!」
「どけ、アリア! 奴は危険だ!」
カイザーの焦りを滲ませた声が響く。
けれど、私は動かなかった。ここで彼に手を出させてしまえば、本当に全てが取り返しのつかないことになる。そう信じていた。
私の愚かな甘さが、最悪の事態を招き寄せることになるとも知らずに。
バサッと、翼が空気を打つ重い音。
傷ついたワイバーンが、テラスの床に強引にその体を叩きつけるように着地した。その衝撃で床に細かい亀裂が走る。
アルフォンス王子がよろめきながら、その背から滑り降りた。
その手には鞘から抜かれた白銀の剣が握られている。その瞳は熱に浮かされたように不気味に輝いていた。
「アリア……! 来たぞ、私が来たぞ!」
王子は支離滅裂な言葉を叫びながら、一歩、また一歩と私ににじり寄ってくる。
「来い、アリア! 私と共に来ればまだやり直せる! この化け物を倒し、お前を連れ帰れば私は英雄になれるのだ!」
「落ち着いてください、アルフォンス様! あなたはどうかしています!」
私は彼を刺激しないように、ゆっくりと両手を前に突き出しながら説得を試みた。
「もう終わりにしましょう。国へお帰りください。そうすればカイザー様もこれ以上は……」
私が一歩前に出た、その瞬間だった。
王子の動きが豹変した。
今までよろよろとしていたのが嘘のように、彼は獣のような俊敏さで私の腕を暴力的に掴んだ。
「あっ……!」
そして次の瞬間には、私は彼の腕の中に引きずり込まれ、その冷たい首筋に剣の切っ先をぴたりと突きつけられていた。
ひやりとした鋼の感触。
それは、紛れもない死の匂いだった。
「動くな、化け物」
王子は私の体を盾にしながら、カイザーに向かって甲高い声で叫んだ。その声は恐怖と、そして最後の切り札を手に入れたという歪んだ興奮に震えている。
「聖女の命が惜しくばな!」
時が止まった。
カイザーの顔から全ての表情が抜け落ちていた。
喜びも悲しみも怒りさえもどこにもない。ただ、全ての色を失った絶対零度の虚無がそこにあるだけだった。
その瞳が、ゆっくりと私を捕らえる王子へと向けられる。
ああ。
やってしまった。
私のどうしようもない甘さが。
彼に決して抜いてはならない、最後の剣を抜かせてしまった。
絶望が私の心を黒く塗りつぶしていく。
テラスの空気は凍りついていた。
それは、これから始まる本当の終焉を静かに予感させていた。
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