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第10話:公爵様の秘密
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公爵邸での生活が始まってから、数日が過ぎた。
私はまだ、夢の中にいるような気分から抜け出せずにいた。朝は侍女に起こされ、温かい食事を用意してもらい、昼間はアシュレイ公爵に庭を案内されたり、図書室で珍しい本を読ませてもらったりした。夜は雲のように柔らかいベッドで眠る。
毎日が、生まれて初めて経験することの連続だった。
アシュレイ公爵の過保護ぶりは相変わらずで、私が少しでも顔を曇らせれば「何かあったのか」と心配し、私が何かに関心を示せば「君にそれを贈ろう」と言い出す始末だった。
その度に私は恐縮して首を横に振るのだが、彼はどこか楽しそうに微笑むだけだった。
メイド長のマーサは、あれ以来、私に直接何かを問いただしてくることはなかった。けれど、その観察するような鋭い視線は変わらない。彼女は私の一挙手一投足を見極め、私がアシュレイ公爵にとって益となる存在か、害となる存在かを判断しようとしているのだろう。
その視線を感じるたび、私は身が縮む思いだった。
与えられるだけの生活。それはとても満ち足りていて、温かい。けれど同時に、私の心には小さな棘のように、申し訳なさと焦りが芽生え始めていた。
私は、この人に何も返せていない。
その日の午後、私はアシュレイ公爵に呼ばれて、彼の書斎を訪れていた。
壁一面が本棚で埋め尽くされた広大な書斎は、古い革とインクの匂いがした。彼は執務用の大きな机ではなく、窓際に置かれた居心地の良さそうなソファに私を座らせてくれた。
「この詩集は、私が気に入っているものの一つだ。君も好きかもしれないと思ってね」
そう言って彼が手渡してくれたのは、美しい装丁の古い詩集だった。私は彼の隣に座り、二人でその本を覗き込む。彼の肩が、私の肩に触れそうなほど近い。それだけで、私の心臓は落ち着きなく音を立てた。
彼は一編の詩を、穏やかで低い声で読み上げてくれる。それは遠い北の国の、孤独な王と星の精霊の物語だった。彼の声は心地よく、私はうっとりとその響きに耳を傾けていた。
まさに、穏やかという言葉がぴったりの時間だった。
異変が起きたのは、その時だった。
詩を読み上げていた彼の声が、不意にかすかに途切れた。
「……公爵様?」
私が不思議に思って彼の顔を見上げると、その表情にぎょっとした。
彼の顔から、すっと血の気が引いていた。陶器のように白かった肌は、今は青白いほどだ。額には玉のような汗が浮かび、普段は穏やかな紫の瞳が、今は何か得体のしれないものと戦うように、険しく細められている。
彼はとっさに詩集で口元を隠したが、その指が微かに震えているのが見えた。
「……っ」
彼の喉から、押し殺したような苦悶の息が漏れる。彼は空いている方の手で、自らの胸元を強く押さえた。まるで、内側から突き上げてくる激しい痛みに耐えているかのようだ。
「公爵様! どうかなさいましたか!?」
私は思わず叫んでいた。彼のあまりの苦しみように、心臓が冷たくなる。
私の声にはっとしたように、アシュレイ公爵は顔を上げた。その瞳には一瞬、深い苦痛の色が浮かんでいたが、それはすぐに完璧な無表情の仮面の下に隠された。
彼はゆっくりと息を吐き、何事もなかったかのように微笑んでみせた。
「……いや、何でもない。少し、読み疲れただけだ」
「で、でも、顔色が……」
「大丈夫だ。心配ない」
彼の声は、いつもの落ち着いた響きを取り戻していた。けれど、私には分かった。彼は嘘をついている。大丈夫なはずがない。あんなに苦しそうな顔を、私は見たことがなかった。
彼は立ち上がると、窓の外へ視線を向けた。
「少し風に当たってくる。君はここで、ゆっくり本を読んでいてくれ」
そう言って、彼は私に背を向けたまま、足早に書斎を出て行ってしまった。その背中は、私に弱さを見せることを拒絶しているように見えた。
一人残された書斎で、私は呆然とソファに座り込んでいた。
膝の上に置かれた詩集が、やけに重く感じる。
今のは、一体何だったのだろう。
あれは、ただの疲れなどではない。もっと深刻な、何か。
そういえば、と思い返す。
初めて会った雨の日。彼に抱き上げられた時、その腕は驚くほど冷たかった。
毎朝の食事の時も、時折、彼の手がぴたりと止まる瞬間があった気がする。
彼の優しさや、この生活の変化に舞い上がっていて、これまで気づかなかった。彼の完璧に見える姿の裏に隠された、小さな、けれど確かな違和感の数々。
それらが今、私の頭の中で一つの線として繋がっていく。
彼は、何かを隠している。
何か、とてもつらいことを、たった一人で抱え込んでいるのではないか。
あの氷のように冷たいと噂される貌も、感情を見せないと言われる態度も、もしかしたら、その苦痛を隠すためのものだったのかもしれない。
そう思い至った瞬間、私の胸は張り裂けそうなほどに痛んだ。
彼は私に、たくさんのものを与えてくれた。居場所を、温もりを、優しさを。それなのに、私は彼の苦しみに、これまで全く気づかなかった。
彼のために、何かをしたい。
初めて、心の底からそう思った。
与えられるだけの存在ではなく、彼を支える存在になりたい。
もちろん、今の私に何ができるのかは分からない。彼が隠していることを、無理に聞き出す権利も私にはないだろう。
でも、決めた。
彼が自分から話してくれるまで、私は待とう。そして、それまでの間、私はただ彼の傍にいて、彼が少しでも心安らげるように、精一杯努めよう。
私の持つ【修復】スキルは、壊れたがらくたしか直せない、出来損ないの力だ。
けれど、もし。
もし、この力が、彼の心の痛みをほんの少しでも和らげることができるのなら。
そう考えると、これまでずっと蔑まれてきた自分の力が、ほんの少しだけ、意味のあるもののように思えた。
彼の秘密の存在をはっきりと認識したことで、私の心の中に、小さな、しかし確かな決意の炎が灯った。
私はまだ、夢の中にいるような気分から抜け出せずにいた。朝は侍女に起こされ、温かい食事を用意してもらい、昼間はアシュレイ公爵に庭を案内されたり、図書室で珍しい本を読ませてもらったりした。夜は雲のように柔らかいベッドで眠る。
毎日が、生まれて初めて経験することの連続だった。
アシュレイ公爵の過保護ぶりは相変わらずで、私が少しでも顔を曇らせれば「何かあったのか」と心配し、私が何かに関心を示せば「君にそれを贈ろう」と言い出す始末だった。
その度に私は恐縮して首を横に振るのだが、彼はどこか楽しそうに微笑むだけだった。
メイド長のマーサは、あれ以来、私に直接何かを問いただしてくることはなかった。けれど、その観察するような鋭い視線は変わらない。彼女は私の一挙手一投足を見極め、私がアシュレイ公爵にとって益となる存在か、害となる存在かを判断しようとしているのだろう。
その視線を感じるたび、私は身が縮む思いだった。
与えられるだけの生活。それはとても満ち足りていて、温かい。けれど同時に、私の心には小さな棘のように、申し訳なさと焦りが芽生え始めていた。
私は、この人に何も返せていない。
その日の午後、私はアシュレイ公爵に呼ばれて、彼の書斎を訪れていた。
壁一面が本棚で埋め尽くされた広大な書斎は、古い革とインクの匂いがした。彼は執務用の大きな机ではなく、窓際に置かれた居心地の良さそうなソファに私を座らせてくれた。
「この詩集は、私が気に入っているものの一つだ。君も好きかもしれないと思ってね」
そう言って彼が手渡してくれたのは、美しい装丁の古い詩集だった。私は彼の隣に座り、二人でその本を覗き込む。彼の肩が、私の肩に触れそうなほど近い。それだけで、私の心臓は落ち着きなく音を立てた。
彼は一編の詩を、穏やかで低い声で読み上げてくれる。それは遠い北の国の、孤独な王と星の精霊の物語だった。彼の声は心地よく、私はうっとりとその響きに耳を傾けていた。
まさに、穏やかという言葉がぴったりの時間だった。
異変が起きたのは、その時だった。
詩を読み上げていた彼の声が、不意にかすかに途切れた。
「……公爵様?」
私が不思議に思って彼の顔を見上げると、その表情にぎょっとした。
彼の顔から、すっと血の気が引いていた。陶器のように白かった肌は、今は青白いほどだ。額には玉のような汗が浮かび、普段は穏やかな紫の瞳が、今は何か得体のしれないものと戦うように、険しく細められている。
彼はとっさに詩集で口元を隠したが、その指が微かに震えているのが見えた。
「……っ」
彼の喉から、押し殺したような苦悶の息が漏れる。彼は空いている方の手で、自らの胸元を強く押さえた。まるで、内側から突き上げてくる激しい痛みに耐えているかのようだ。
「公爵様! どうかなさいましたか!?」
私は思わず叫んでいた。彼のあまりの苦しみように、心臓が冷たくなる。
私の声にはっとしたように、アシュレイ公爵は顔を上げた。その瞳には一瞬、深い苦痛の色が浮かんでいたが、それはすぐに完璧な無表情の仮面の下に隠された。
彼はゆっくりと息を吐き、何事もなかったかのように微笑んでみせた。
「……いや、何でもない。少し、読み疲れただけだ」
「で、でも、顔色が……」
「大丈夫だ。心配ない」
彼の声は、いつもの落ち着いた響きを取り戻していた。けれど、私には分かった。彼は嘘をついている。大丈夫なはずがない。あんなに苦しそうな顔を、私は見たことがなかった。
彼は立ち上がると、窓の外へ視線を向けた。
「少し風に当たってくる。君はここで、ゆっくり本を読んでいてくれ」
そう言って、彼は私に背を向けたまま、足早に書斎を出て行ってしまった。その背中は、私に弱さを見せることを拒絶しているように見えた。
一人残された書斎で、私は呆然とソファに座り込んでいた。
膝の上に置かれた詩集が、やけに重く感じる。
今のは、一体何だったのだろう。
あれは、ただの疲れなどではない。もっと深刻な、何か。
そういえば、と思い返す。
初めて会った雨の日。彼に抱き上げられた時、その腕は驚くほど冷たかった。
毎朝の食事の時も、時折、彼の手がぴたりと止まる瞬間があった気がする。
彼の優しさや、この生活の変化に舞い上がっていて、これまで気づかなかった。彼の完璧に見える姿の裏に隠された、小さな、けれど確かな違和感の数々。
それらが今、私の頭の中で一つの線として繋がっていく。
彼は、何かを隠している。
何か、とてもつらいことを、たった一人で抱え込んでいるのではないか。
あの氷のように冷たいと噂される貌も、感情を見せないと言われる態度も、もしかしたら、その苦痛を隠すためのものだったのかもしれない。
そう思い至った瞬間、私の胸は張り裂けそうなほどに痛んだ。
彼は私に、たくさんのものを与えてくれた。居場所を、温もりを、優しさを。それなのに、私は彼の苦しみに、これまで全く気づかなかった。
彼のために、何かをしたい。
初めて、心の底からそう思った。
与えられるだけの存在ではなく、彼を支える存在になりたい。
もちろん、今の私に何ができるのかは分からない。彼が隠していることを、無理に聞き出す権利も私にはないだろう。
でも、決めた。
彼が自分から話してくれるまで、私は待とう。そして、それまでの間、私はただ彼の傍にいて、彼が少しでも心安らげるように、精一杯努めよう。
私の持つ【修復】スキルは、壊れたがらくたしか直せない、出来損ないの力だ。
けれど、もし。
もし、この力が、彼の心の痛みをほんの少しでも和らげることができるのなら。
そう考えると、これまでずっと蔑まれてきた自分の力が、ほんの少しだけ、意味のあるもののように思えた。
彼の秘密の存在をはっきりと認識したことで、私の心の中に、小さな、しかし確かな決意の炎が灯った。
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