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第16話:初めての街
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ド長であるマーサさんが私の完全な味方になってくれてから、公爵邸での日々はさらに穏やかなものになった。使用人たちの私を見る目からも、戸惑いや訝しむ色はすっかり消え去っていた。彼らはマーサさんを心から信頼しているのだろう。その彼女が認めた私を、今では公爵様の大切な人として、敬意をもって接してくれていた。
そんな変化は、私の心を驚くほど軽くしてくれた。これまでは常に誰かの顔色を窺い、息を潜めるようにして生きてきた。けれど今は、この屋敷のどこにいても、私は一人の人間として尊重されている。その事実が、少しずつ私の背筋を伸ばしてくれていた。
その日の『癒やしの時間』も、いつも通り穏やかに終わった。アシュレイ様の手を癒やした後、私は彼が用意してくれたハーブティーに口をつけていた。
「リナリア」
不意に、アシュレイ様が私の名前を呼んだ。
「君の顔色は、ここに来た当初に比べれば随分良くなった。だが、まだどこか儚げだ」
彼は心配そうに私の顔を覗き込む。彼の真っ直ぐな視線に、私は少し気恥ずかしくなって俯いた。
「いつも屋敷の中にばかりいては、気が滅入るだろう。気分転換に、どこかへ出かけてみないか」
「お出かけ、ですか?」
思ってもみなかった提案に、私は驚いて顔を上げた。
「ああ。例えば、王都の街へ」
街。
その言葉を聞いた瞬間、私の心臓が小さく跳ねた。
実家にいた頃、私が屋敷の外に出ることを許されたのは、年に数回の教会への礼拝の時だけだった。それも、分厚いベールで顔を隠し、人目に触れないように馬車で直行直帰するだけ。活気のある街並みを、自分の足で歩いたことなど一度もなかった。
「ですが……」
私の心に、すぐに不安が影を落とす。
「私のような者が街を歩いたら、公爵様にご迷惑がかかってしまいます。それに、第二王子殿下や……実家の者たちに見つかったら……」
茶会での一件は、私にとって深い心の傷として残っていた。貴族たちの嘲笑や侮蔑の視線が、今も脳裏に焼き付いている。
すると、アシュレイ様は私の手を優しく握った。その大きな手のひらが、私の不安を包み込んでくれるようだった。
「心配はいらない。君は、私が守ると約束しただろう」
彼の紫の瞳が、強い光を宿して私を見つめる。
「誰にも、君に指一本触れさせはしない。迷惑など、かかるはずがない。君は私の大切な人なのだから」
その声は、有無を言わせぬ響きを持っていた。
「私は、君にもっと色々な世界を見せてやりたい。美しいもの、楽しいもの、美味しいもの。君がこれまで知らなかった世界を、これからは私が一つずつ教えていきたいのだ」
彼の言葉は、まるで魔法のようだった。私の心の中の不安や恐怖が、その優しい響きによってゆっくりと溶かされていく。
「……はい」
私は、小さな声で頷いた。
街へ行ってみたい。彼の見せてくれる世界を、見てみたい。
私の返事を聞いて、アシュレイ様は満足そうに微笑んだ。
「決まりだな。では、すぐに準備をしよう」
自室に戻ると、すでにマーサさんが待っていた。アシュレイ様から話が伝わっていたのだろう。彼女は少し興奮した面持ちで、私を手招きした。
「リナリア様。初めての街へのお出かけ、素敵ですわね! さあ、お召し物を選びましょう」
彼女は私をドレスルームへと案内すると、てきぱきと街歩きに適した服を選び始めた。
「あまり目立ちすぎず、しかしリナリア様の可憐さが引き立つようなものがよろしいでしょう。……こちらのワンピースなど、いかがでしょうか」
彼女が選んでくれたのは、柔らかな若草色の、動きやすそうなワンピースだった。胸元には白い花の刺繍が施されており、とても上品で可愛らしい。
「まあ、素敵……」
「お髪は、編み込みにしてリボンで結びましょう。これなら、街の風で乱れることもございません」
マーサさんは、まるで自分のことのように楽しそうに準備を進めてくれた。彼女のそんな姿を見ていると、私の心も自然と弾んでくる。
鏡の前に立った私は、そこに映る自分の姿に少しだけ驚いた。
若草色のワンピースは、私の栗色の髪や青い瞳とよく合っていた。編み込んでもらった髪はすっきりと見え、いつもの私より少しだけ活発な印象を与える。
まるで、どこにでもいる、街へのお出かけに心を躍らせる普通の少女のようだった。
「とてもお似合いですわ、リナリ-ア様」
マーサさんの言葉に、私は照れながらも小さく微笑んだ。
少しだけ、自信が持てるかもしれない。
準備を終え、玄関ホールへ向かうと、アシュレイ様がすでに私を待っていた。彼は普段の公爵としての威厳ある服装ではなく、上質な生地で作られたシンプルなシャツとパンツという、少しだけラフな格好をしていた。それでも、彼の美しさと気品は全く損なわれていない。
彼は私の姿を認めると、一瞬だけ目を見張り、そして深く、優しい笑みを浮かべた。
「……ああ。とてもよく似合っている。春の妖精のようだ」
心からの賛辞に、私の顔はカッと熱くなる。
「あ、ありがとうございます……」
彼はそんな私に優雅に手を差し伸べた。私はおずおずとその手を取り、彼にエスコートされて玄関の外へと向かう。
そこには、公爵家の紋章が入っていない、少し小ぶりだが上品な馬車が用意されていた。人目を避けるための配慮だろう。
馬車に乗り込むと、柔らかなクッションが身体を受け止めてくれた。向かい合わせではなく、隣同士に座る。彼の肩がすぐそばにあるというだけで、緊張で身体がガチガチになった。
アシュレイ様は、そんな私の様子を微笑ましそうに見つめている。
「そんなに緊張しなくても、取って食ったりはしないさ」
「わ、分かっております! ですが……!」
あたふたする私を見て、彼は楽しそうに小さく笑った。その笑い声が、馬車の狭い空間に心地よく響く。
馬車は滑るようにして公爵邸を出発し、王都の中心街へと向かった。石畳の道を走る心地よい揺れに、私の緊張も少しずつ解けていった。
やがて、馬車の窓から見える景色が、静かな貴族街から賑やかな商業地区へと変わっていく。
「着いたぞ」
馬車が止まり、アシュレイ様が先に降りて、私に手を差し伸べてくれた。私は彼の手を取り、馬車のステップをゆっくりと降りる。
そして、顔を上げた瞬間。
私の世界は、音と、色と、活気に満ち溢れた。
「……わあ……」
思わず、感嘆の声が漏れた。
目の前には、広い石畳の道がどこまでも続き、その両脇には様々な店がずらりと軒を連ねている。行き交う人々の話し声、笑い声、呼び込みの声。どこからか聞こえてくる、軽快な楽器の音色。焼きたてのパンの香ばしい匂いや、甘いお菓子の匂いが混じり合って、鼻腔をくすぐる。
全てが、私の知らないものだった。
全てが、生命力に満ち溢れていた。
本の中でしか見たことのない、賑やかな街。それが今、目の前にある。
私は目をきらきらと輝かせ、小さな子供のようにきょろきょろと周りを見回した。
「すごい……。こんなにたくさんの人が……お店が……」
ショーウィンドウに飾られた綺麗なリボン。山と積まれた色とりどりの果物。陽気におしゃべりをしながら歩く、楽しそうな人々。
その光景の一つ一つが、私の心に鮮やかな絵の具で色を塗っていくようだった。
そんな私の様子を、隣に立つアシュレイ様は、ただ黙って、愛おしそうに見守っていた。彼の瞳には、私の知らない複雑な感情が揺らめいていた。このささやかな光景にさえ感動する私と、私からこんな当たり前の日常を奪ってきた者たちへの、静かな怒りのようなものが。
やがて、彼は私の手を優しく握った。
「さあ、行こう」
その声に、私ははっと彼を見上げた。
「君が見たいもの、欲しいもの、何でも言ってくれ。今日は、君のための日だ」
彼はそう言って、悪戯っぽく微笑んだ。
私は、どきどきと高鳴る胸を押さえながら、力強く頷いた。
彼に手を引かれて、私は生まれて初めて、賑やかな雑踏の中へと、期待に満ちた一歩を踏み出した。
そんな変化は、私の心を驚くほど軽くしてくれた。これまでは常に誰かの顔色を窺い、息を潜めるようにして生きてきた。けれど今は、この屋敷のどこにいても、私は一人の人間として尊重されている。その事実が、少しずつ私の背筋を伸ばしてくれていた。
その日の『癒やしの時間』も、いつも通り穏やかに終わった。アシュレイ様の手を癒やした後、私は彼が用意してくれたハーブティーに口をつけていた。
「リナリア」
不意に、アシュレイ様が私の名前を呼んだ。
「君の顔色は、ここに来た当初に比べれば随分良くなった。だが、まだどこか儚げだ」
彼は心配そうに私の顔を覗き込む。彼の真っ直ぐな視線に、私は少し気恥ずかしくなって俯いた。
「いつも屋敷の中にばかりいては、気が滅入るだろう。気分転換に、どこかへ出かけてみないか」
「お出かけ、ですか?」
思ってもみなかった提案に、私は驚いて顔を上げた。
「ああ。例えば、王都の街へ」
街。
その言葉を聞いた瞬間、私の心臓が小さく跳ねた。
実家にいた頃、私が屋敷の外に出ることを許されたのは、年に数回の教会への礼拝の時だけだった。それも、分厚いベールで顔を隠し、人目に触れないように馬車で直行直帰するだけ。活気のある街並みを、自分の足で歩いたことなど一度もなかった。
「ですが……」
私の心に、すぐに不安が影を落とす。
「私のような者が街を歩いたら、公爵様にご迷惑がかかってしまいます。それに、第二王子殿下や……実家の者たちに見つかったら……」
茶会での一件は、私にとって深い心の傷として残っていた。貴族たちの嘲笑や侮蔑の視線が、今も脳裏に焼き付いている。
すると、アシュレイ様は私の手を優しく握った。その大きな手のひらが、私の不安を包み込んでくれるようだった。
「心配はいらない。君は、私が守ると約束しただろう」
彼の紫の瞳が、強い光を宿して私を見つめる。
「誰にも、君に指一本触れさせはしない。迷惑など、かかるはずがない。君は私の大切な人なのだから」
その声は、有無を言わせぬ響きを持っていた。
「私は、君にもっと色々な世界を見せてやりたい。美しいもの、楽しいもの、美味しいもの。君がこれまで知らなかった世界を、これからは私が一つずつ教えていきたいのだ」
彼の言葉は、まるで魔法のようだった。私の心の中の不安や恐怖が、その優しい響きによってゆっくりと溶かされていく。
「……はい」
私は、小さな声で頷いた。
街へ行ってみたい。彼の見せてくれる世界を、見てみたい。
私の返事を聞いて、アシュレイ様は満足そうに微笑んだ。
「決まりだな。では、すぐに準備をしよう」
自室に戻ると、すでにマーサさんが待っていた。アシュレイ様から話が伝わっていたのだろう。彼女は少し興奮した面持ちで、私を手招きした。
「リナリア様。初めての街へのお出かけ、素敵ですわね! さあ、お召し物を選びましょう」
彼女は私をドレスルームへと案内すると、てきぱきと街歩きに適した服を選び始めた。
「あまり目立ちすぎず、しかしリナリア様の可憐さが引き立つようなものがよろしいでしょう。……こちらのワンピースなど、いかがでしょうか」
彼女が選んでくれたのは、柔らかな若草色の、動きやすそうなワンピースだった。胸元には白い花の刺繍が施されており、とても上品で可愛らしい。
「まあ、素敵……」
「お髪は、編み込みにしてリボンで結びましょう。これなら、街の風で乱れることもございません」
マーサさんは、まるで自分のことのように楽しそうに準備を進めてくれた。彼女のそんな姿を見ていると、私の心も自然と弾んでくる。
鏡の前に立った私は、そこに映る自分の姿に少しだけ驚いた。
若草色のワンピースは、私の栗色の髪や青い瞳とよく合っていた。編み込んでもらった髪はすっきりと見え、いつもの私より少しだけ活発な印象を与える。
まるで、どこにでもいる、街へのお出かけに心を躍らせる普通の少女のようだった。
「とてもお似合いですわ、リナリ-ア様」
マーサさんの言葉に、私は照れながらも小さく微笑んだ。
少しだけ、自信が持てるかもしれない。
準備を終え、玄関ホールへ向かうと、アシュレイ様がすでに私を待っていた。彼は普段の公爵としての威厳ある服装ではなく、上質な生地で作られたシンプルなシャツとパンツという、少しだけラフな格好をしていた。それでも、彼の美しさと気品は全く損なわれていない。
彼は私の姿を認めると、一瞬だけ目を見張り、そして深く、優しい笑みを浮かべた。
「……ああ。とてもよく似合っている。春の妖精のようだ」
心からの賛辞に、私の顔はカッと熱くなる。
「あ、ありがとうございます……」
彼はそんな私に優雅に手を差し伸べた。私はおずおずとその手を取り、彼にエスコートされて玄関の外へと向かう。
そこには、公爵家の紋章が入っていない、少し小ぶりだが上品な馬車が用意されていた。人目を避けるための配慮だろう。
馬車に乗り込むと、柔らかなクッションが身体を受け止めてくれた。向かい合わせではなく、隣同士に座る。彼の肩がすぐそばにあるというだけで、緊張で身体がガチガチになった。
アシュレイ様は、そんな私の様子を微笑ましそうに見つめている。
「そんなに緊張しなくても、取って食ったりはしないさ」
「わ、分かっております! ですが……!」
あたふたする私を見て、彼は楽しそうに小さく笑った。その笑い声が、馬車の狭い空間に心地よく響く。
馬車は滑るようにして公爵邸を出発し、王都の中心街へと向かった。石畳の道を走る心地よい揺れに、私の緊張も少しずつ解けていった。
やがて、馬車の窓から見える景色が、静かな貴族街から賑やかな商業地区へと変わっていく。
「着いたぞ」
馬車が止まり、アシュレイ様が先に降りて、私に手を差し伸べてくれた。私は彼の手を取り、馬車のステップをゆっくりと降りる。
そして、顔を上げた瞬間。
私の世界は、音と、色と、活気に満ち溢れた。
「……わあ……」
思わず、感嘆の声が漏れた。
目の前には、広い石畳の道がどこまでも続き、その両脇には様々な店がずらりと軒を連ねている。行き交う人々の話し声、笑い声、呼び込みの声。どこからか聞こえてくる、軽快な楽器の音色。焼きたてのパンの香ばしい匂いや、甘いお菓子の匂いが混じり合って、鼻腔をくすぐる。
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全てが、生命力に満ち溢れていた。
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「すごい……。こんなにたくさんの人が……お店が……」
ショーウィンドウに飾られた綺麗なリボン。山と積まれた色とりどりの果物。陽気におしゃべりをしながら歩く、楽しそうな人々。
その光景の一つ一つが、私の心に鮮やかな絵の具で色を塗っていくようだった。
そんな私の様子を、隣に立つアシュレイ様は、ただ黙って、愛おしそうに見守っていた。彼の瞳には、私の知らない複雑な感情が揺らめいていた。このささやかな光景にさえ感動する私と、私からこんな当たり前の日常を奪ってきた者たちへの、静かな怒りのようなものが。
やがて、彼は私の手を優しく握った。
「さあ、行こう」
その声に、私ははっと彼を見上げた。
「君が見たいもの、欲しいもの、何でも言ってくれ。今日は、君のための日だ」
彼はそう言って、悪戯っぽく微笑んだ。
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