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第23話:「ありがとう、リナリア」
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アシュレイ様は、いつもと変わらぬ様子で私室へと入ってきた。訓練の視察で少し汗をかいたのか、首元のボタンを緩めながら、息をついている。
彼はまず、机の上に置かれた書類にいくつか目を通した。その横顔は真剣で、普段私に見せる穏やかな表情とは違う、『氷の公爵』としての厳しさを湛えている。
私の存在には、全く気づいていないようだった。心臓の音が、彼に聞こえてしまうのではないかと心配になるくらい、大きく鳴り響いている。
書類の確認を終えた彼は、ふと、部屋の片隅にある小さなテーブルへと視線を向けた。
そこに、私が修復したオルゴールが置かれている。
最初は、何も変わったことには気づかなかったようだ。彼はいつものように、そのオルゴールをただ静かに見つめているだけだった。
しかし、次の瞬間。
彼の動きが、ぴたりと止まった。
紫の瞳が、信じられないものを見るかのように、大きく見開かれる。彼はゆっくりと、まるで幻影を確かめるかのように、一歩、また一歩とオルゴールに近づいていった。
そして、その前に立つと、震える指先で、そっとその表面に触れた。
ひび割れが、ない。
歪みが、ない。
まるで新品のように輝く、母の形見。
「……なぜだ」
彼の唇から、かすれた声が漏れた。
「どうして……。誰が……」
彼は困惑と驚愕に満ちた表情で、オルゴールを食い入るように見つめている。
私はカーテンの陰で、息を殺してその様子を見守っていた。お願い、気づいて。その奇跡を起こしたのは、私なのだと。
アシュレイ様は、しばらく呆然と立ち尽くしていたが、やがて意を決したように、オルゴールの側面にあるネジに手をかけた。そして、ゆっくりと、祈るように、そのネジを巻いていく。
カチ、カチ、という音が、静まり返った部屋に響き渡る。
ネジを巻き終えた彼は、深呼吸を一つした。そして、祈るように目を閉じると、そっと、オルゴールの蓋を開けた。
りん……。
澄み切った、あまりにも美しい音色が、部屋の中に静かに、そして優しく響き渡った。
それは、彼が幼い頃、母の膝の上で幾度となく聞いたであろう、慈愛に満ちた子守唄のメロディー。
失われたはずの、温かい思い出の音色。
その音を聞いた瞬間、アシュレイ様の身体が、大きく、びくりと震えた。
ゆっくりと開かれた彼の瞳から、一筋の、透明な雫が静かに流れ落ちた。
そして、また一筋。
彼は、泣いていた。
『氷の公爵』と呼ばれ、決して人前で感情を見せることのなかった彼が、まるで幼い子供のように、声を殺して、ただ静かに涙を流していた。
その姿に、私の胸は締め付けられるように痛んだ。そして同時に、どうしようもなく温かいもので満たされていくのを感じた。
彼は、壊れたオルゴールをそっと胸に抱きしめた。そして、その美しい音色に、ただ黙って耳を傾けている。その背中は、ひどく小さく、そして無防備に見えた。
長い間、彼が一人で抱え込んできた哀しみや孤独。その全てが、この優しいメロディーによって、少しずつ溶かされていくようだった。
私は、もうカーテンの陰に隠れていることができなかった。
そっと、一歩を踏み出す。
私の立てた微かな物音に、アシュレイ様ははっとしたように顔を上げた。涙で濡れた紫の瞳が、驚愕の色に染まって、私を捉える。
「……リナリア」
彼の声は、涙で震えていた。
「君、なのか……?」
私は、何も言わずに、ただ静かに頷いた。
彼は、私のその肯定を見て、全てを悟ったようだった。彼はおもむろに立ち上がると、私の方へとゆっくりと歩み寄ってきた。その足取りは、どこか夢遊病者のように、覚束ない。
そして、私の目の前に立つと、彼は壊れ物でも扱うかのように、そっと私の両肩に手を置いた。
「どうして……。君は、一体……」
言葉にならない感情が、彼の瞳の中で渦巻いている。
私は、彼を安心させるように、精一杯の笑顔を作った。
「アシュレイ様が、もう一度聴きたいと、仰っていたから」
私のその言葉に、彼の瞳から、また新たな涙が溢れ出した。
しかし、それはもう、哀しみの涙ではなかった。
次の瞬間、私の身体は、再び彼の強い腕の中に、優しく、しかし決して離さないというように、固く抱きしめられていた。
「ありがとう」
私の耳元で、彼が囁いた。
その声は、これまで聞いたどの声よりも、温かくて、甘くて、そして、心からの喜びに満ちていた。
「ありがとう、リナリア」
彼は何度も、何度も、その言葉を繰り返した。
その声を聞きながら、私も、ついに堪えきれずに涙を流していた。それは、悲しい涙ではない。ただ、温かくて、幸せな涙だった。
彼はゆっくりと身体を離すと、私の濡れた頬を、その大きな手のひらで優しく包み込んだ。そして、涙の跡を、親指でそっと拭ってくれる。
そして、彼は、笑った。
それは、私が今まで見たこともないような、本当に、心からの笑顔だった。
まるで、春の陽光のように温かく、全てのものを照らし出すような、眩しい笑顔。
呪いによって失われていたはずの、純粋な喜びの感情が、彼の顔に、確かな輝きとして戻ってきていた。
その笑顔を見た瞬間、私の心は、完全に、彼に奪われてしまったのだと、はっきりと自覚した。
この人の、この笑顔を守りたい。
そのために、私は私の全てを捧げよう。
そう、心に固く誓った。
「ありがとう、リナリア」
彼はもう一度、そう言って微笑んだ。その言葉と笑顔が、私の胸に、温かい宝物のように、深く、深く刻み込まれた。
彼はまず、机の上に置かれた書類にいくつか目を通した。その横顔は真剣で、普段私に見せる穏やかな表情とは違う、『氷の公爵』としての厳しさを湛えている。
私の存在には、全く気づいていないようだった。心臓の音が、彼に聞こえてしまうのではないかと心配になるくらい、大きく鳴り響いている。
書類の確認を終えた彼は、ふと、部屋の片隅にある小さなテーブルへと視線を向けた。
そこに、私が修復したオルゴールが置かれている。
最初は、何も変わったことには気づかなかったようだ。彼はいつものように、そのオルゴールをただ静かに見つめているだけだった。
しかし、次の瞬間。
彼の動きが、ぴたりと止まった。
紫の瞳が、信じられないものを見るかのように、大きく見開かれる。彼はゆっくりと、まるで幻影を確かめるかのように、一歩、また一歩とオルゴールに近づいていった。
そして、その前に立つと、震える指先で、そっとその表面に触れた。
ひび割れが、ない。
歪みが、ない。
まるで新品のように輝く、母の形見。
「……なぜだ」
彼の唇から、かすれた声が漏れた。
「どうして……。誰が……」
彼は困惑と驚愕に満ちた表情で、オルゴールを食い入るように見つめている。
私はカーテンの陰で、息を殺してその様子を見守っていた。お願い、気づいて。その奇跡を起こしたのは、私なのだと。
アシュレイ様は、しばらく呆然と立ち尽くしていたが、やがて意を決したように、オルゴールの側面にあるネジに手をかけた。そして、ゆっくりと、祈るように、そのネジを巻いていく。
カチ、カチ、という音が、静まり返った部屋に響き渡る。
ネジを巻き終えた彼は、深呼吸を一つした。そして、祈るように目を閉じると、そっと、オルゴールの蓋を開けた。
りん……。
澄み切った、あまりにも美しい音色が、部屋の中に静かに、そして優しく響き渡った。
それは、彼が幼い頃、母の膝の上で幾度となく聞いたであろう、慈愛に満ちた子守唄のメロディー。
失われたはずの、温かい思い出の音色。
その音を聞いた瞬間、アシュレイ様の身体が、大きく、びくりと震えた。
ゆっくりと開かれた彼の瞳から、一筋の、透明な雫が静かに流れ落ちた。
そして、また一筋。
彼は、泣いていた。
『氷の公爵』と呼ばれ、決して人前で感情を見せることのなかった彼が、まるで幼い子供のように、声を殺して、ただ静かに涙を流していた。
その姿に、私の胸は締め付けられるように痛んだ。そして同時に、どうしようもなく温かいもので満たされていくのを感じた。
彼は、壊れたオルゴールをそっと胸に抱きしめた。そして、その美しい音色に、ただ黙って耳を傾けている。その背中は、ひどく小さく、そして無防備に見えた。
長い間、彼が一人で抱え込んできた哀しみや孤独。その全てが、この優しいメロディーによって、少しずつ溶かされていくようだった。
私は、もうカーテンの陰に隠れていることができなかった。
そっと、一歩を踏み出す。
私の立てた微かな物音に、アシュレイ様ははっとしたように顔を上げた。涙で濡れた紫の瞳が、驚愕の色に染まって、私を捉える。
「……リナリア」
彼の声は、涙で震えていた。
「君、なのか……?」
私は、何も言わずに、ただ静かに頷いた。
彼は、私のその肯定を見て、全てを悟ったようだった。彼はおもむろに立ち上がると、私の方へとゆっくりと歩み寄ってきた。その足取りは、どこか夢遊病者のように、覚束ない。
そして、私の目の前に立つと、彼は壊れ物でも扱うかのように、そっと私の両肩に手を置いた。
「どうして……。君は、一体……」
言葉にならない感情が、彼の瞳の中で渦巻いている。
私は、彼を安心させるように、精一杯の笑顔を作った。
「アシュレイ様が、もう一度聴きたいと、仰っていたから」
私のその言葉に、彼の瞳から、また新たな涙が溢れ出した。
しかし、それはもう、哀しみの涙ではなかった。
次の瞬間、私の身体は、再び彼の強い腕の中に、優しく、しかし決して離さないというように、固く抱きしめられていた。
「ありがとう」
私の耳元で、彼が囁いた。
その声は、これまで聞いたどの声よりも、温かくて、甘くて、そして、心からの喜びに満ちていた。
「ありがとう、リナリア」
彼は何度も、何度も、その言葉を繰り返した。
その声を聞きながら、私も、ついに堪えきれずに涙を流していた。それは、悲しい涙ではない。ただ、温かくて、幸せな涙だった。
彼はゆっくりと身体を離すと、私の濡れた頬を、その大きな手のひらで優しく包み込んだ。そして、涙の跡を、親指でそっと拭ってくれる。
そして、彼は、笑った。
それは、私が今まで見たこともないような、本当に、心からの笑顔だった。
まるで、春の陽光のように温かく、全てのものを照らし出すような、眩しい笑顔。
呪いによって失われていたはずの、純粋な喜びの感情が、彼の顔に、確かな輝きとして戻ってきていた。
その笑顔を見た瞬間、私の心は、完全に、彼に奪われてしまったのだと、はっきりと自覚した。
この人の、この笑顔を守りたい。
そのために、私は私の全てを捧げよう。
そう、心に固く誓った。
「ありがとう、リナリア」
彼はもう一度、そう言って微笑んだ。その言葉と笑顔が、私の胸に、温かい宝物のように、深く、深く刻み込まれた。
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