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第60話:旅立ちの朝
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夜が明け、公爵邸は新しい一日の始まりを告げる柔らかな光に包まれていた。
空は雲一つなく晴れ渡り、まるで私たちの旅立ちを祝福しているかのようだった。
玄関ホールには屋敷の全ての使用人たちが整然と並んで私たちを待っていた。その顔には寂しさよりも、誇らしさと期待の色が浮かんでいる。
「リナリア様、どうぞ、これを」
マーサさんが小さな布の包みを私に手渡してくれた。中からはほんのりと甘い、焼き菓子の香りがする。
「道中、小腹が空いた時にお召し上がりください。リナリア様がお好きだと仰っていたバタークッキーでございます」
「マーサさん……ありがとうございます」
胸がいっぱいになりながら礼を言うと、彼女は母親のような優しい笑みを浮かべた。
「閣下、リナリア様。道中のご無事を皆でお祈りしております」
執事長のセバスチャンさんが代表して深々と頭を下げた。その声には揺るぎない忠誠心と、温かい想いが込められていた。
「ああ。留守の間、屋敷のことを頼む」
アシュレイ様が威厳に満ちた声で応える。しかし、その視線はどこまでも優しかった。
彼は私に向き直ると、優雅に手を差し伸べた。
「行こうか、リナリア」
「はい、アシュレイ様」
私はその手を取った。
皆の温かい拍手に見送られながら、私たちは玄関の外へと足を踏み出した。
そこには私たちの旅の相棒となる大型の馬車が停まっていた。四頭のたくましい馬が、出発の時を今か今かと待ち構えるように静かに鼻を鳴らしている。
アシュレイ様にエスコートされ、私は馬車のステップを上った。そして乗り込む直前、一度だけ振り返る。
見慣れた公爵邸の姿と、手を振ってくれる大切な人々の顔。
ここは私が初めて得た、本当の家。
「行ってまいります」
私は声にならない声でそう呟くと、馬車の中へと身体を滑り込ませた。
馬車の内装は長旅の疲れを感じさせないよう、細やかな配慮が尽くされていた。座席はまるで雲の上に座っているかのように柔らかく、窓には遮光性の高いカーテンが取り付けられている。小さなテーブルの上には美しい花が一輪挿しに飾られていた。
アシュレイ様が私の隣に腰を下ろし、御者が扉を閉めると外の喧騒は嘘のように遠ざかった。そこは二人だけの静かで穏やかな空間だった。
やがて馬車は滑るようにして、ゆっくりと動き出した。
公爵邸が、そして見送ってくれる人々の姿が少しずつ小さくなっていく。私は名残惜しい気持ちで、その光景が見えなくなるまで窓の外を見つめていた。
「寂しいか」
隣からアシュレイ様の優しい声がした。
「……いいえ。寂しくはありません」
私は彼の方へと向き直り、微笑んでみせた。
「また帰ってくる場所がある。そう思えることが、こんなにも心を温かくするのだと初めて知りました」
私のその言葉に、アシュレイ様は少し驚いたように目を見開いた後、心から愛おしそうにその整った貌を綻ばせた。
「……そうか」
彼はそれだけ言うと、私の手を優しく握りしめた。
馬車は貴族たちが住まう壮麗な屋敷街を抜け、徐々に王都の中心部へと進んでいく。窓の外には活気に満ちた街の日常が流れていった。行き交う人々の話し声、商店の呼び込み、子供たちの笑い声。
以前、彼と二人で歩いたあの日の光景が蘇る。
あの時はまだ私は、この世界のほんの一部しか知らなかった。
でも、これからは違う。
私は自分の足で、この広い世界を旅していくのだ。
やがて馬車は王都を囲む高い城壁の門をくぐり抜けた。
その瞬間。
私の目の前に全く新しい世界が、どこまでも、どこまでも広がった。
「……わあ……!」
思わず感嘆の声が漏れた。
そこに在ったのは、見渡す限りの緑豊かな田園風景だった。
黄金色に色づき始めた麦の穂が風に吹かれて、さざ波のように揺れている。その向こうには緩やかな丘陵地帯が続き、その先には青く霞む山々の稜線が見えた。空はどこまでも高く、そして青い。
建物に遮られることのない、本当の空。地平線まで続く広大な大地。
私は生まれて初めて、その光景を目にした。
これまで私の世界は、屋敷という名の狭い箱庭の中だけだった。
私は窓に額を押し付けるようにして、その雄大な景色にただただ見入っていた。世界の広さとその美しさに、胸がいっぱいになる。
そんな私の様子を、アシュレイ様はただ黙って優しい目で見守っていた。
「アイゼンベルクはもっと美しいぞ」
彼は少しだけ誇らしげに言った。
「ここから北へ、馬車で数日の距離だ。豊かな森と鏡のように澄んだ湖がある。夜には王都では決して見ることのできない、満天の星が空を埋め尽くす」
彼はまるで故郷を自慢する少年のような、無邪気な口調で語り始めた。
「果物も美味い。特に夏に採れる『氷晶果』というリンゴに似た果物は絶品だ。シャリっとした歯触りで蜜のように甘い。君にもぜひ食べさせてやりたい」
「氷晶果……素敵なお名前ですね」
「ああ。領地の子供たちは皆あれが大好きでな。収穫の時期になると村中がお祭り騒ぎになる」
彼の話を聞いているだけで、私の頭の中には見たこともないはずの豊かで、そして人々の笑顔に満ちた土地の光景が鮮やかに浮かび上がってきた。
「楽しみです」
私は心からの期待を込めて言った。
「早く見てみたいです。アシュレイ様の、大切な領地を」
私のその言葉に、彼はこれまでで一番幸せそうな穏やかな笑みを浮かべた。
「ああ。もうすぐだ」
彼は私の手を握る手に、少しだけ力を込めた。
「私たちの、旅の始まりだ」
馬車はどこまでも続く街道を、北へ、北へと進んでいく。
それは病に苦しむ村を救うための、聖女としての旅路。
そして同時に、私がアシュレイ・フォン・アイゼンベルクという一人の男性の、故郷とその魂に触れるための愛の旅路でもあった。
私の新しい世界の扉は、今、高らかな希望の音と共にゆっくりと開かれていった。
空は雲一つなく晴れ渡り、まるで私たちの旅立ちを祝福しているかのようだった。
玄関ホールには屋敷の全ての使用人たちが整然と並んで私たちを待っていた。その顔には寂しさよりも、誇らしさと期待の色が浮かんでいる。
「リナリア様、どうぞ、これを」
マーサさんが小さな布の包みを私に手渡してくれた。中からはほんのりと甘い、焼き菓子の香りがする。
「道中、小腹が空いた時にお召し上がりください。リナリア様がお好きだと仰っていたバタークッキーでございます」
「マーサさん……ありがとうございます」
胸がいっぱいになりながら礼を言うと、彼女は母親のような優しい笑みを浮かべた。
「閣下、リナリア様。道中のご無事を皆でお祈りしております」
執事長のセバスチャンさんが代表して深々と頭を下げた。その声には揺るぎない忠誠心と、温かい想いが込められていた。
「ああ。留守の間、屋敷のことを頼む」
アシュレイ様が威厳に満ちた声で応える。しかし、その視線はどこまでも優しかった。
彼は私に向き直ると、優雅に手を差し伸べた。
「行こうか、リナリア」
「はい、アシュレイ様」
私はその手を取った。
皆の温かい拍手に見送られながら、私たちは玄関の外へと足を踏み出した。
そこには私たちの旅の相棒となる大型の馬車が停まっていた。四頭のたくましい馬が、出発の時を今か今かと待ち構えるように静かに鼻を鳴らしている。
アシュレイ様にエスコートされ、私は馬車のステップを上った。そして乗り込む直前、一度だけ振り返る。
見慣れた公爵邸の姿と、手を振ってくれる大切な人々の顔。
ここは私が初めて得た、本当の家。
「行ってまいります」
私は声にならない声でそう呟くと、馬車の中へと身体を滑り込ませた。
馬車の内装は長旅の疲れを感じさせないよう、細やかな配慮が尽くされていた。座席はまるで雲の上に座っているかのように柔らかく、窓には遮光性の高いカーテンが取り付けられている。小さなテーブルの上には美しい花が一輪挿しに飾られていた。
アシュレイ様が私の隣に腰を下ろし、御者が扉を閉めると外の喧騒は嘘のように遠ざかった。そこは二人だけの静かで穏やかな空間だった。
やがて馬車は滑るようにして、ゆっくりと動き出した。
公爵邸が、そして見送ってくれる人々の姿が少しずつ小さくなっていく。私は名残惜しい気持ちで、その光景が見えなくなるまで窓の外を見つめていた。
「寂しいか」
隣からアシュレイ様の優しい声がした。
「……いいえ。寂しくはありません」
私は彼の方へと向き直り、微笑んでみせた。
「また帰ってくる場所がある。そう思えることが、こんなにも心を温かくするのだと初めて知りました」
私のその言葉に、アシュレイ様は少し驚いたように目を見開いた後、心から愛おしそうにその整った貌を綻ばせた。
「……そうか」
彼はそれだけ言うと、私の手を優しく握りしめた。
馬車は貴族たちが住まう壮麗な屋敷街を抜け、徐々に王都の中心部へと進んでいく。窓の外には活気に満ちた街の日常が流れていった。行き交う人々の話し声、商店の呼び込み、子供たちの笑い声。
以前、彼と二人で歩いたあの日の光景が蘇る。
あの時はまだ私は、この世界のほんの一部しか知らなかった。
でも、これからは違う。
私は自分の足で、この広い世界を旅していくのだ。
やがて馬車は王都を囲む高い城壁の門をくぐり抜けた。
その瞬間。
私の目の前に全く新しい世界が、どこまでも、どこまでも広がった。
「……わあ……!」
思わず感嘆の声が漏れた。
そこに在ったのは、見渡す限りの緑豊かな田園風景だった。
黄金色に色づき始めた麦の穂が風に吹かれて、さざ波のように揺れている。その向こうには緩やかな丘陵地帯が続き、その先には青く霞む山々の稜線が見えた。空はどこまでも高く、そして青い。
建物に遮られることのない、本当の空。地平線まで続く広大な大地。
私は生まれて初めて、その光景を目にした。
これまで私の世界は、屋敷という名の狭い箱庭の中だけだった。
私は窓に額を押し付けるようにして、その雄大な景色にただただ見入っていた。世界の広さとその美しさに、胸がいっぱいになる。
そんな私の様子を、アシュレイ様はただ黙って優しい目で見守っていた。
「アイゼンベルクはもっと美しいぞ」
彼は少しだけ誇らしげに言った。
「ここから北へ、馬車で数日の距離だ。豊かな森と鏡のように澄んだ湖がある。夜には王都では決して見ることのできない、満天の星が空を埋め尽くす」
彼はまるで故郷を自慢する少年のような、無邪気な口調で語り始めた。
「果物も美味い。特に夏に採れる『氷晶果』というリンゴに似た果物は絶品だ。シャリっとした歯触りで蜜のように甘い。君にもぜひ食べさせてやりたい」
「氷晶果……素敵なお名前ですね」
「ああ。領地の子供たちは皆あれが大好きでな。収穫の時期になると村中がお祭り騒ぎになる」
彼の話を聞いているだけで、私の頭の中には見たこともないはずの豊かで、そして人々の笑顔に満ちた土地の光景が鮮やかに浮かび上がってきた。
「楽しみです」
私は心からの期待を込めて言った。
「早く見てみたいです。アシュレイ様の、大切な領地を」
私のその言葉に、彼はこれまでで一番幸せそうな穏やかな笑みを浮かべた。
「ああ。もうすぐだ」
彼は私の手を握る手に、少しだけ力を込めた。
「私たちの、旅の始まりだ」
馬車はどこまでも続く街道を、北へ、北へと進んでいく。
それは病に苦しむ村を救うための、聖女としての旅路。
そして同時に、私がアシュレイ・フォン・アイゼンベルクという一人の男性の、故郷とその魂に触れるための愛の旅路でもあった。
私の新しい世界の扉は、今、高らかな希望の音と共にゆっくりと開かれていった。
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