破滅の運命を覆すため、悪役貴族は影で最強を目指す 〜歴史書では断罪される俺だが、未来知識と禁忌の魔法で成り上がってみせる〜

夏見ナイ

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第三話 絶望の底で

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高熱は数日続いた。その間、俺は何度も処刑台の悪夢を見てはうなされ、叫び声を上げて飛び起きた。首筋に残る幻の感触と、脳裏に焼き付いた膨大な「歴史書」の記憶。それが現実なのか夢なのか、判然としないまま意識は混濁し続けた。
ようやく熱が完全に引いたのは、誕生日から五日後のことだった。体を起こせるようになった俺に、侍医は心底安堵した顔で言った。
「いやはや、肝を冷やしました。もう大丈夫でしょう。しばらくは安静になさってください」
侍医が退出すると、部屋には俺一人だけが残された。窓の外は穏やかな昼下がりだ。鳥のさえずりが聞こえ、庭師が手入れをする鋏の音が微かに響く。いつもと変わらない、ヴァルハイト公爵家の日常。
だが、俺の中では全てが変わってしまっていた。
俺はゆっくりと自分の首に手をやった。そこにあるのは滑らかな皮膚だけだ。傷一つない。しかし、目を閉じればギロチンの刃が落ちる瞬間の、あのひやりとした感覚が蘇る。
「あれは……夢じゃなかった」
呟いた声は掠れていた。頭の中には、まるで巨大な図書館が丸ごと詰め込まれたかのように、未来の出来事がぎっしりと詰まっている。帝国史概論第七巻。その知識は、熱が引いても消えることなく、俺の一部として存在し続けていた。
十年後、俺は死ぬ。父も兄たちも死ぬ。ヴァルハイト家は滅びる。
その事実が、重く冷たい鉛となって俺の腹の底に沈んだ。途端に、息が苦しくなる。手足が震え、心臓が嫌な音を立てて早鐘を打ち始めた。
「嫌だ……死にたくない……」
恐怖が全身を支配する。みっともなく命乞いをして、民衆に罵られながら殺される。そんな未来が、俺を待っている。考えるだけで、胃の内容物がせり上がってくるようだった。
俺はベッドから転がり落ち、床に蹲った。頭を抱え、ただ震えることしかできない。
どうすればいい? 逃げるか? だが、帝国のどこへ逃げれば安住の地があるというのだ。ヴァルハイトの名は、十年後には帝国最大の罪人の代名詞になる。どこへ行っても、俺は追われ、見つけ出され、そして処刑台へ送られるだろう。
ならば、どうする。何もできない。ただ、死の訪れを待つだけなのか。
「アレン様、お食事をお持ちしました」
扉の外から侍女の声が聞こえた。俺は返事ができなかった。扉が静かに開き、盆を持った侍女が入ってくる。俺が床に蹲っているのを見て、彼女は驚いたように目を見開いた。
「アレン様? いかがなさいましたか」
「……出ていけ」
「しかし、お食事を……」
「いらない! 出ていけ!」
ほとんど叫び声に近い声だった。侍女は怯えたように肩を竦め、慌てて部屋から出ていった。
一人になると、再び静寂が戻る。俺はその静寂の中で、自分の無力さに打ちのめされていた。
その日から、俺は部屋に引きこもるようになった。食事はほとんど喉を通らず、侍女が盆を下げに来るたびに、手付かずの料理が虚しく残っているだけだった。夜は悪夢にうなされ、昼間は未来の記憶に苛まれる。精神は日に日にすり減っていった。
そんな俺の姿は、当然父や兄たちの耳にも入った。
「病が治っても部屋から出てこんとは。情けないにも程がある」
扉越しに、父の冷たい声が聞こえたことがある。
「少し熱を出したくらいで甘ったれているのだろう。やはり出来損ないはどこまでいっても出来損ないだ」
次兄ベルトルトの嘲笑も聞こえた。
彼らの言葉は、今の俺には何のダメージも与えなかった。どうせ十年後にはみんな死ぬのだ。そう思うと、彼らの侮蔑すらどこか遠い世界の出来事のように感じられた。
引きこもって数日が経った頃、俺の心にわずかな変化が生まれた。あれだけ俺を苛んでいた恐怖が、あまりにも長く続いたせいで麻痺してきたのかもしれない。混乱の嵐が少しだけ凪ぎ、思考の断片が浮かび上がってきた。
本当に、あの記憶は未来なのか?
ただの、熱に浮かされた悪夢ではないのか?
その疑念は、暗闇の中で見つけた一本の蜘蛛の糸のように思えた。もし、あれが悪夢なら。俺はただ、病で少し気が滅入っているだけということになる。
確かめなければ。
俺は震える足で立ち上がり、机に向かった。そして、羽ペンを握りしめ、羊皮紙を広げる。脳内の「歴史書」の記憶を、必死に手繰り寄せた。
『帝国暦千二百三十四年、緑の月、二十八日。東部国境を視察中のバーデン辺境伯が、落馬事故により重傷を負う』
それは、俺の誕生日から数えて、ちょうど七日後の出来事だった。些細な、しかし貴族社会ではそれなりに話題になるニュースのはずだ。
今日の日付は……緑の月の二十七日。つまり、明日だ。
もし明日、本当にバーデン辺境伯が落馬事故に遭えば。それは、俺の記憶がただの悪夢ではないことの、決定的な証明になる。
俺はその夜、一睡もできなかった。処刑の悪夢ではなく、これから訪れる「審判」への恐怖が、俺の心を支配していた。頼む、外れてくれ。ただの悪い夢であってくれ。そう何度も祈った。

翌日。俺は一日中、扉に耳を当てて屋敷内の会話に聞き耳を立てていた。昼過ぎになっても、それらしい噂は聞こえてこない。
外れたのか? やはり、ただの夢だったんだ。
安堵が胸に広がりかけた、その時だった。
廊下を早足で歩く執事と騎士の会話が、俺の耳に飛び込んできた。
「聞いたか? 東部のバーデン辺境伯が、視察中に落馬されたそうだ」
「なんと。お怪我は?」
「命に別状はないが、足の骨を折る重傷とのこと。しばらくは公務への復帰は難しいだろうと」
その言葉を聞いた瞬間、俺の世界から音が消えた。
血の気が引き、全身が氷水に浸されたように冷たくなる。立っていられなくなり、その場にへたり込んだ。
当たってしまった。
歴史書の記述通りに、現実は動いている。
それは、俺の破滅が、ヴァルハハイト家の滅亡が、避けようのない確定した未来であることを意味していた。
最後の希望だった蜘蛛の糸は、ぷつりと無情に切れ落ちた。
俺はもう一度、記憶を探る。
『同年、熱の月。南部で大規模な干ばつが発生。食糧価格が高騰し、民の不満が高まる』
『同年、嵐の月。隣国との間で小競り合いが勃発。ゲオルグ・フォン・ヴァルハハイトが初陣を飾り、これを鎮圧』
『帝国暦千二百三十五年、雪の月。王立魔法学園の入学試験にて、第一王子カイウスが歴代最高成績を記録』
次から次へと、未来の出来事が脳裏に浮かぶ。政治、経済、戦争、ゴシップ。その全てが、詳細な日付と共に記されている。まるで、分厚い年表を暗記しているかのようだ。
そして、その年表の最後には、必ずあの記述がある。
『帝国暦千二百四十四年。ヴァルハハイト家、断罪される』
「……ああ……」
声にならない呻きが漏れた。
絶望。その一言では言い表せないほどの、底なしの闇が俺を飲み込んでいく。
これから先の十年、俺はこの破滅へのカウントダウンを、一日一日味わいながら生きていかなければならないのか。何をしても無駄だと知りながら、ただ処刑台へと続く道を歩き続けるしかないのか。
俺は床に広げた羊皮紙を見た。そこには、俺が書きなぐったいくつかの未来の出来事が記されている。それはもはや未来の年表などではない。
俺と、俺の家族の、死亡宣告書だった。
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