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第四話 悪役の仮面
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絶望には底がないのだと、俺は知った。
バーデン辺境伯の落馬事故が現実のものとなって以来、俺は羊皮紙に未来の出来事を書き出すことに没頭した。脳内の歴史書から情報を引き出し、一つ、また一つと文字にしていく。それは、破滅の運命から目を逸らすための、ほとんど無意識の逃避行動だったのかもしれない。
書き出せば書き出すほど、その「歴史」の持つ圧倒的な確定力に押し潰されそうになった。干ばつの発生、隣国との紛争、兄の武功。それら全てが、これから起こるべくして起こる、変えようのない事実なのだ。
何をしても無駄だ。
どんなに足掻いても、結末は決まっている。
俺は書くのをやめた。部屋の隅で膝を抱え、ただ虚空を見つめるだけの日々が戻ってきた。死刑執行を待つ罪人とは、きっとこういう心境なのだろう。生きているのに、心はとっくに死んでいる。
夜ごと、処刑台の悪夢は俺を苛んだ。
民衆の怒号、投げつけられる石の痛み、ギロチンの刃が落ちる音。同じ光景を、俺は飽きるほど繰り返し体験させられた。最初の頃は絶叫して飛び起きていたが、やがてそれにも慣れた。恐怖が日常になり、感覚が麻痺していく。
そんなある夜のことだった。
いつものように、俺は処刑台の上でガタガタと震えていた。民衆の憎悪が槍のように突き刺さる。ああ、またか。またここで、俺は死ぬのか。
諦観と共に目を閉じた、その時だった。
ふと、奇妙な感覚に襲われた。まるで魂が体から抜け出て、少し高い場所から自分自身を見下ろしているような感覚。
俺は見ていた。罪人服をまとって、見苦しく命乞いをする自分の姿を。鼻水を垂らし、涙を流し、許しを乞う情けない男の姿を。
歴史書に記された通りの、醜い最期。
その光景を眺めているうちに、麻痺していたはずの心の奥底から、どす黒い感情が湧き上がってきた。
恐怖ではない。絶望でもない。
それは、燃えるような怒りだった。
――冗談じゃない。
誰が、こんな無様な死に方を受け入れるものか。
殺されるのはいい。ヴァルハイト家に生まれた時点で、そのリスクは常にあった。だが、死に方までは決められてたまるか。父や兄のせいですと泣き喚き、民衆に嘲笑われながら死ぬ? そんな結末、俺が許さない。
その強烈な意志が生まれた瞬間、悪夢の世界がガラスのように砕け散った。
俺は暗闇の中で目を開けた。汗一つかいていない。心臓も静かだった。
処刑の夢を見た後だというのに、不思議と心は凪いでいた。長年俺を縛り付けていた恐怖の鎖が、音を立てて断ち切られたような感覚。
死ぬのは怖い。それは変わらない。
だが、それ以上に許せないものができた。歴史という名の脚本に、ただ踊らされて無様に死ぬこと。それだけは、絶対に受け入れられない。
「……抗ってやる」
暗闇に向かって、俺は呟いた。誰に聞かせるでもない、自分自身への誓いだった。
運命が確定しているというなら、その土台から覆してやる。歴史書が俺の結末を定めているなら、そのページを破り捨てて、俺自身の手で新しい結末を書き加えてやる。
十年。俺に残された時間は十年だ。
その間に、俺は全てを変えなければならない。
翌朝、俺は久しぶりにベッドから自力で起き上がった。そして、よろめきながら姿見の前に立つ。
鏡に映っていたのは、数日間ろくに食事もせず、ろくに眠りもせず、絶望にやつれた見る影もない少年だった。目の下には隈が張り付き、頬はこけ、銀色の髪も艶を失っている。
だが、その瞳だけが違っていた。以前の怯えと諦めが支配していた紫の瞳は、どこにもない。そこにあるのは、氷のように冷たく、それでいて燃え盛る決意の炎を宿した、別人の瞳だった。
俺はこの日、九歳の自分を殺した。そして、十年後の未来から来た復讐者として、生まれ変わることを決めた。
まず、何をすべきか。
闇雲に歴史を変えようと動けば、どうなるか分からない。歴史書という唯一の道標を失うことは、暗闇の海に羅針盤なしで漕ぎ出すようなものだ。それはあまりにも危険すぎる。
それに、俺が急に善人になったところで、誰が信じる? 「帝国の毒」ヴァルハハイトの出来損ないが、心を入れ替えて国のために尽くしますと言ったところで、失笑を買うのが関の山だ。それは悪手だ。
ならば、どうする。
答えは一つしかない。
「演じるんだ」
俺は鏡の中の自分に語りかけた。
歴史書に書かれている「アレン・フォン・ヴァルハイト」を、俺が演じる。
無能で、傲慢で、家の威光を笠に着て、くだらない悪事を働くどうしようもない三男。周囲から侮られ、警戒もされず、誰もが「ああ、あいつはやっぱり駄目なやつだ」と思うような、完璧な悪役を。
それが、俺が被るべき「仮面」だ。
その仮面で周囲の目を欺き、油断させる。そして、その裏で、水面下で、俺は力を蓄える。歴史書の知識を使い、未来に起こる災厄を予測し、破滅の原因となる芽を一つずつ、誰にも気づかれずに摘み取っていく。
それは、誰からも理解されない孤独な戦いになるだろう。賞賛も名誉もない。むしろ、俺はさらに蔑まれ、嫌われることになる。
だが、それでいい。
無様に命乞いをして死ぬくらいなら、世界で最も嫌われる悪役になってでも生き残ってやる。
計画は決まった。
次に必要なのは、この衰弱しきった体だ。戦うためには、まず生きなければならない。
俺は部屋の呼び鈴を鳴らした。すぐに、恐る恐る侍女が顔を覗かせる。また俺が癇癪を起こすのではないかと怯えているのが見て取れた。
「食事を。すぐに食べられるものを何か持ってきてくれ」
俺が静かにそう告げると、侍女は驚きに目を見開いた。しかし、すぐに「は、はい! ただいま!」と慌てて部屋を飛び出していった。
やがて運ばれてきたのは、冷めたスープと硬くなったパン、そして一杯の水だった。おそらく、俺がいつものように手をつけないだろうと思われていたのだろう。
俺は構わず、椅子に座ってスプーンを手に取った。味などどうでもよかった。これは、生きるための、戦うための燃料だ。機械的にスープを口に運び、パンを水で流し込む。
その異様な光景を、侍女は信じられないものを見るような目で遠巻きに眺めていた。
食事を終えた俺は、空になった皿を見て小さく息をついた。これでいい。まずは第一歩だ。
俺は立ち上がり、侍女に向き直った。
「伝言を頼む」
「は、はい。なんでございましょう」
「父上と、兄上たちに伝えろ。明日から、中断していた剣の稽古を再開すると」
俺の言葉に、侍女は再び目を丸くした。あの出来損ないのアレン様が、自ら稽古を望むだと? その表情が、雄弁にそう語っていた。
だが、俺の纏う空気が以前とは全く違うことに気づいたのだろう。彼女は何も問わず、ただ深く頭を下げた。
「……かしこまりました。そのように申し伝えます」
侍女が退出していく。
俺は部屋の扉に手をかけた。何日も閉ざされていた、世界との境界線。
扉の向こうの世界は何も変わっていない。父は俺を失望の目で見、兄たちは俺を嘲笑うだろう。使用人たちは憐れみ、世間はヴァルハイトを「帝国の毒」と罵る。
だが、俺は変わった。
それで十分だった。
俺はゆっくりと扉を開け、何日かぶりに廊下の光の中へと、その一歩を踏み出した。
バーデン辺境伯の落馬事故が現実のものとなって以来、俺は羊皮紙に未来の出来事を書き出すことに没頭した。脳内の歴史書から情報を引き出し、一つ、また一つと文字にしていく。それは、破滅の運命から目を逸らすための、ほとんど無意識の逃避行動だったのかもしれない。
書き出せば書き出すほど、その「歴史」の持つ圧倒的な確定力に押し潰されそうになった。干ばつの発生、隣国との紛争、兄の武功。それら全てが、これから起こるべくして起こる、変えようのない事実なのだ。
何をしても無駄だ。
どんなに足掻いても、結末は決まっている。
俺は書くのをやめた。部屋の隅で膝を抱え、ただ虚空を見つめるだけの日々が戻ってきた。死刑執行を待つ罪人とは、きっとこういう心境なのだろう。生きているのに、心はとっくに死んでいる。
夜ごと、処刑台の悪夢は俺を苛んだ。
民衆の怒号、投げつけられる石の痛み、ギロチンの刃が落ちる音。同じ光景を、俺は飽きるほど繰り返し体験させられた。最初の頃は絶叫して飛び起きていたが、やがてそれにも慣れた。恐怖が日常になり、感覚が麻痺していく。
そんなある夜のことだった。
いつものように、俺は処刑台の上でガタガタと震えていた。民衆の憎悪が槍のように突き刺さる。ああ、またか。またここで、俺は死ぬのか。
諦観と共に目を閉じた、その時だった。
ふと、奇妙な感覚に襲われた。まるで魂が体から抜け出て、少し高い場所から自分自身を見下ろしているような感覚。
俺は見ていた。罪人服をまとって、見苦しく命乞いをする自分の姿を。鼻水を垂らし、涙を流し、許しを乞う情けない男の姿を。
歴史書に記された通りの、醜い最期。
その光景を眺めているうちに、麻痺していたはずの心の奥底から、どす黒い感情が湧き上がってきた。
恐怖ではない。絶望でもない。
それは、燃えるような怒りだった。
――冗談じゃない。
誰が、こんな無様な死に方を受け入れるものか。
殺されるのはいい。ヴァルハイト家に生まれた時点で、そのリスクは常にあった。だが、死に方までは決められてたまるか。父や兄のせいですと泣き喚き、民衆に嘲笑われながら死ぬ? そんな結末、俺が許さない。
その強烈な意志が生まれた瞬間、悪夢の世界がガラスのように砕け散った。
俺は暗闇の中で目を開けた。汗一つかいていない。心臓も静かだった。
処刑の夢を見た後だというのに、不思議と心は凪いでいた。長年俺を縛り付けていた恐怖の鎖が、音を立てて断ち切られたような感覚。
死ぬのは怖い。それは変わらない。
だが、それ以上に許せないものができた。歴史という名の脚本に、ただ踊らされて無様に死ぬこと。それだけは、絶対に受け入れられない。
「……抗ってやる」
暗闇に向かって、俺は呟いた。誰に聞かせるでもない、自分自身への誓いだった。
運命が確定しているというなら、その土台から覆してやる。歴史書が俺の結末を定めているなら、そのページを破り捨てて、俺自身の手で新しい結末を書き加えてやる。
十年。俺に残された時間は十年だ。
その間に、俺は全てを変えなければならない。
翌朝、俺は久しぶりにベッドから自力で起き上がった。そして、よろめきながら姿見の前に立つ。
鏡に映っていたのは、数日間ろくに食事もせず、ろくに眠りもせず、絶望にやつれた見る影もない少年だった。目の下には隈が張り付き、頬はこけ、銀色の髪も艶を失っている。
だが、その瞳だけが違っていた。以前の怯えと諦めが支配していた紫の瞳は、どこにもない。そこにあるのは、氷のように冷たく、それでいて燃え盛る決意の炎を宿した、別人の瞳だった。
俺はこの日、九歳の自分を殺した。そして、十年後の未来から来た復讐者として、生まれ変わることを決めた。
まず、何をすべきか。
闇雲に歴史を変えようと動けば、どうなるか分からない。歴史書という唯一の道標を失うことは、暗闇の海に羅針盤なしで漕ぎ出すようなものだ。それはあまりにも危険すぎる。
それに、俺が急に善人になったところで、誰が信じる? 「帝国の毒」ヴァルハハイトの出来損ないが、心を入れ替えて国のために尽くしますと言ったところで、失笑を買うのが関の山だ。それは悪手だ。
ならば、どうする。
答えは一つしかない。
「演じるんだ」
俺は鏡の中の自分に語りかけた。
歴史書に書かれている「アレン・フォン・ヴァルハイト」を、俺が演じる。
無能で、傲慢で、家の威光を笠に着て、くだらない悪事を働くどうしようもない三男。周囲から侮られ、警戒もされず、誰もが「ああ、あいつはやっぱり駄目なやつだ」と思うような、完璧な悪役を。
それが、俺が被るべき「仮面」だ。
その仮面で周囲の目を欺き、油断させる。そして、その裏で、水面下で、俺は力を蓄える。歴史書の知識を使い、未来に起こる災厄を予測し、破滅の原因となる芽を一つずつ、誰にも気づかれずに摘み取っていく。
それは、誰からも理解されない孤独な戦いになるだろう。賞賛も名誉もない。むしろ、俺はさらに蔑まれ、嫌われることになる。
だが、それでいい。
無様に命乞いをして死ぬくらいなら、世界で最も嫌われる悪役になってでも生き残ってやる。
計画は決まった。
次に必要なのは、この衰弱しきった体だ。戦うためには、まず生きなければならない。
俺は部屋の呼び鈴を鳴らした。すぐに、恐る恐る侍女が顔を覗かせる。また俺が癇癪を起こすのではないかと怯えているのが見て取れた。
「食事を。すぐに食べられるものを何か持ってきてくれ」
俺が静かにそう告げると、侍女は驚きに目を見開いた。しかし、すぐに「は、はい! ただいま!」と慌てて部屋を飛び出していった。
やがて運ばれてきたのは、冷めたスープと硬くなったパン、そして一杯の水だった。おそらく、俺がいつものように手をつけないだろうと思われていたのだろう。
俺は構わず、椅子に座ってスプーンを手に取った。味などどうでもよかった。これは、生きるための、戦うための燃料だ。機械的にスープを口に運び、パンを水で流し込む。
その異様な光景を、侍女は信じられないものを見るような目で遠巻きに眺めていた。
食事を終えた俺は、空になった皿を見て小さく息をついた。これでいい。まずは第一歩だ。
俺は立ち上がり、侍女に向き直った。
「伝言を頼む」
「は、はい。なんでございましょう」
「父上と、兄上たちに伝えろ。明日から、中断していた剣の稽古を再開すると」
俺の言葉に、侍女は再び目を丸くした。あの出来損ないのアレン様が、自ら稽古を望むだと? その表情が、雄弁にそう語っていた。
だが、俺の纏う空気が以前とは全く違うことに気づいたのだろう。彼女は何も問わず、ただ深く頭を下げた。
「……かしこまりました。そのように申し伝えます」
侍女が退出していく。
俺は部屋の扉に手をかけた。何日も閉ざされていた、世界との境界線。
扉の向こうの世界は何も変わっていない。父は俺を失望の目で見、兄たちは俺を嘲笑うだろう。使用人たちは憐れみ、世間はヴァルハイトを「帝国の毒」と罵る。
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