破滅の運命を覆すため、悪役貴族は影で最強を目指す 〜歴史書では断罪される俺だが、未来知識と禁忌の魔法で成り上がってみせる〜

夏見ナイ

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第九話 奴隷市場の少女

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影魔法の修練を始めてから、二年という月日が流れた。俺は十二歳になっていた。
この二年間、俺の生活は何も変わっていない。昼は無能な出来損ないを演じ、夜は孤独に牙を研ぐ。その繰り返しの日々。
だが、俺の力は着実に、そして確実に成長していた。
「影潜(シャドウ・ダイブ)」は、今や全身を完全に影の中へと沈めることができる。床や壁の影に溶け込み、誰にも気づかれずに屋敷中を移動することが可能になった。
「影の延長(シャドウ・エクステンド)」もまた、熟練の域に達しつつあった。影の触手は五本まで自在に操れ、その先端は熟練の盗賊の指先よりも器用に動く。遠く離れた部屋の机から、重要そうな書類を抜き取るくらいは朝飯前だった。
しかし、力がつけばつくほど、新たな課題も見えてくる。
俺の影魔法は、今のところ奇襲や諜報、暗殺といった隠密行動に特化している。真正面からの戦闘には全く向いていない。もし屈強な騎士に囲まれでもすれば、影に潜む間もなく斬り捨てられるだろう。
俺には護衛が必要だ。それも、ただの護衛ではない。
俺の影となり、剣となる存在。ヴァルハイト家の息がかかっておらず、俺の命令だけを忠実に実行する、信頼できる駒。そして、いざという時には俺に実戦的な戦闘技術を教えられる師でもある、そんな都合のいい存在が。
そんな人間を、どうやって見つけるか。貴族社会で探せば、必ず父や兄の耳に入る。騎士団や兵士では論外だ。
答えは一つしかなかった。帝国の光が届かない、最も深い闇の中。
王都の裏通りに存在する、非合法の奴隷市場。
そこならば、過去を消された者、社会から見捨てられた者が見つかるはずだ。金で忠誠を買い、契約で縛り付ける。それこそが悪役貴族のやり方だろう。

数日後、俺は粗末なフード付きの外套を羽織り、王都の下層地区にいた。貴族のきらびやかな大通りとはまるで違う、淀んだ空気が漂う場所。時折すれ違う人々の目には、猜疑心と貧しさがこびりついている。
目的の場所は、古びた倉庫街の一角にあった。重々しい鉄の扉の前には、顔に傷のある大男が二人、見張りとして立っている。
俺が近づくと、一人が無遠慮な視線で俺を値踏みした。
「なんだ、小僧。ここはガキの来るところじゃねえぞ」
「買い付けだ。金はある」
俺は懐から金貨が数枚入った革袋を取り出し、わざとらしく音を立てて振ってみせた。十二歳の少年が持つには不相応な額。大男の目が、卑しい光でぎらついた。
「……まあいい。中ではお静かにな。揉め事を起こせばどうなるか、分かってるな?」
威嚇するような言葉を背に、俺は重い扉を押して中へ入った。
途端に、むっとするような熱気と、様々な人間の体臭、そして微かな血の匂いが鼻をついた。薄暗い倉庫の中には、いくつもの檻が並べられ、その中には商品として売られる人間たちが押し込められている。
逞しい肉体を持つ元傭兵。異国の血を引く美しい女。手先の器用そうな職人。皆、その瞳からは光が失われ、諦めと絶望の色だけが浮かんでいた。
壁際には、裕福そうな商人や、趣味の悪い貴族たちが品定めをするように歩き回っている。彼らは奴隷たちを、まるで家畜か何かのように値踏みしていた。
俺はフードを目深に被り直し、壁際に沿ってゆっくりと歩き始めた。俺が探しているのは、ただの労働力ではない。戦える人間だ。
元傭兵や騎士崩れの奴隷は何人かいた。だが、彼らの目にはまだ反抗の色が残っている。下手に手を出せば、いつ牙を剥かれるか分からない。俺が求めるのは、もっと従順で、そして「使える」駒だった。
いくつもの檻を通り過ぎ、倉庫の最も奥まった場所まで来た時。俺は、その檻の前で足を止めた。
そこは「訳あり品」とでも言うように、他の檻から少し離れた薄暗い場所に置かれていた。中には、一人の少女がぽつんと座っているだけだった。
歳は俺と同じくらいだろうか。痩せた体に、ぼろきれのような服をまとっている。腰まで伸びた銀色の髪は汚れ、その顔は俯いているためよく見えない。
他の奴隷たちが、買い手の気を引こうと媚びを売ったり、あるいは憎悪の視線を向けたりしているのに対し、彼女だけは外界への一切の興味を失ったかのように、ただ微動だにしなかった。まるで、魂の抜け殻。感情というものが、そこに存在していないかのようだった。
俺が檻の前に立っていると、近くにいた奴隷商人がにやにやと笑いながら近づいてきた。
「おやお客さん、そいつがお好みで? よした方がいいですよ。こいつは『壊れて』ますんでね」
「壊れている?」
「ええ。どこかの暗殺者一族の生き残りだとかで仕入れたんですが、全く使い物にならんのです。何を命令しても反応しない。殴っても蹴っても、この通り。ただの人形ですよ」
商人はそう言うと、檻の隙間から棒を突き入れ、少女の肩を乱暴につついた。少女の体は揺れるが、顔を上げることも、声を上げることもない。
「見ての通りです。おかげで買い手がつかず、値段も下がる一方だ。まあ、夜の慰み者くらいにはなるかもしれませんがねえ。反応がないんじゃ、つまらんでしょう」
下品な笑い声を上げる商人を無視し、俺は檻の中の少女をじっと見つめた。
人形。確かにそう見える。感情の起伏が全く感じられない。
だが、俺には分かった。
影魔法の修練によって研ぎ澄まされた俺の感覚が、彼女の内に秘められた尋常ではない気配を捉えていた。
不自然なほど静かな呼吸。どんな状況でも体幹を崩さない、無駄のない座り方。そして、痩せてはいるが、その四肢の随所に見て取れる、極限まで鍛え上げられたしなやかな筋肉の痕跡。
彼女は、人形などではない。
鞘に収められた、一振りの凶器だ。感情を殺し、気配を殺し、ただ主の命令を待つためだけに最適化された、恐るべき暗殺者。
俺はゆっくりとしゃがみこみ、少女と視線の高さを合わせた。
「おい」
俺が声をかけると、少女の体が初めて、ほんのわずかに反応した。長い前髪の隙間から、彼女の瞳がちらりとこちらを向く。
それは、深い夜の湖のような、どこまでも昏い紫色の瞳だった。感情というものが一切映らない、ガラス玉のような瞳。
だが、その奥の奥に、俺は見た。消える寸前の、小さな熾火のような光を。
それは、俺が絶望の底で悪夢を見た夜、鏡の中の自分に見出した光と、どこか似ている気がした。
奴隷商人が、呆れたように言った。
「旦那、無駄ですよ。そいつは……」
「これを買う」
俺は商人の言葉を遮り、静かに告げた。
商人は一瞬きょとんとし、それから狂喜の色を顔に浮かべた。
「ほ、本当ですかい! ありがとうございます! いやあ、物好きな方もいたもんだ! ささ、お代は……」
「名前は?」
俺は再び商人を無視し、檻の中の少女に問いかけた。
少女は答えなかった。ただ、そのガラス玉のような瞳で、俺をじっと見つめているだけだった。
「そうか。名前もないのか」
俺は立ち上がり、懐から金貨の入った革袋を全て取り出した。これまで、こつこつと貯めてきた俺の全財産だ。それを、商人の手に叩きつけるように渡す。
「契約を。所有権は俺に。そして、こいつに関する全ての記録を破棄しろ。今日、ここで俺とお前が会ったことも忘れろ」
「へ、へい! もちろんですとも!」
金貨の重みに、商人の目は完全にくらんでいた。
俺はもう一度、檻の中の少女を見下ろした。彼女はまだ、俺から視線を外さずにいた。
こいつだ。こいつしかいない。俺の剣となり、影となる存在は。
俺の孤独な戦いに、初めて仲間と呼べるかもしれない存在が加わろうとしていた。それが吉と出るか凶と出るか、まだ分からない。
だが、俺は確かに感じていた。この出会いが、俺の、そして世界の運命を大きく変えることになるという、確かな予感を。
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