破滅の運命を覆すため、悪役貴族は影で最強を目指す 〜歴史書では断罪される俺だが、未来知識と禁忌の魔法で成り上がってみせる〜

夏見ナイ

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第八話 影の延長

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影に指先が沈んだ、あの夜から数ヶ月が過ぎた。
俺の孤独な修練は、誰に知られることもなく続けられていた。昼間はヴァルハイト家の出来損ないとして、騎士団長に叱責されながら木剣を振るう。相変わらず俺の剣は上達せず、兄たちの侮蔑と父の無関心は変わらない。だが、それでよかった。俺の昼の顔は、夜の顔を隠すための完璧な仮面なのだから。
夜。自室の鍵を固く閉ざし、蝋燭の灯りだけが揺れる部屋。そこが俺の本当の練兵場だった。
最初の成功から地道な訓練を重ねた結果、「影潜(シャドウ・ダイブ)」は着実に上達していた。今では足首まで、まるで黒い沼に足を踏み入れるように、抵抗なく影の中へと沈めることができる。だが、そこからが壁だった。全身を隠すには、まだ圧倒的に魔力と技術が足りていない。影との一体感を維持できず、膝まで潜ろうとすると魔力が霧散して弾き出されてしまうのだ。
「焦るな。道は間違っていない」
俺は自分に言い聞かせ、壁にぶつかった時は別の道を探すことにした。禁書のページを、さらに先へとめくる。そこに記されていたのは、影魔法の次なる段階だった。
『影の延長(シャドウ・エクステンド)』
それは、自らの影を物理的な実体を持つ触手のように伸ばし、自在に操る魔法。禁書の記述は相変わらず抽象的で、理解が困難だった。
「影は術者の意思を映す鏡。伸ばすのではない。初めからそこにあると認識せよ。影の先端は、汝の第三の腕なり」
第三の腕。その言葉に、俺は可能性の広がりを感じずにはいられなかった。これさえ習得すれば、遠くの物を掴み、扉の鍵を開け、密偵として潜入することも可能になるかもしれない。諜報と暗殺。それは、ヴァルハイト家の豪腕とは対極にある、俺だけの戦い方になるだろう。

その日から、俺の夜の訓練メニューに新たな項目が加わった。
最初の目標は、五歩ほど先に置いた木製のカップ。俺は床に座り、自分の足元から伸びる影に意識を集中させた。
「伸ばすな。そこにあると認識しろ」
禁書の言葉を頭の中で反芻する。俺の影の先端は、すでにあのカップの足元にある。そう強く、強くイメージした。全身の魔力を、糸のように細く練り上げ、影へと注ぎ込む。
だが、影はぴくりとも動かなかった。ただ、俺が魔力を注いだ分だけ、床の闇がわずかに濃くなるだけだ。
「くそ……!」
何度も試した。イメージを変え、魔力の量を変える。だが、結果は同じだった。まるで、分厚い壁に向かって小石を投げているかのような無力感。魔力操作の精密さが、絶望的に足りていなかった。
数日間、何の成果も得られないまま時間だけが過ぎていく。焦りが募り、集中力が散漫になる悪循環。これでは駄目だ。俺は一度、大きく息を吸って頭を冷やした。
正攻法が駄目なら、やり方を変えるしかない。いきなり五歩先のカップを掴もうとするから難しいのだ。もっと単純なことから始めるべきだ。
俺は目標を変えた。自分の足元、わずか三十センチ先に置いた一枚の銅貨。これならどうだ。
そして、目的も変えた。「掴む」のではない。まずは「触れる」こと。それだけを目標にした。
俺は再び集中する。イメージするのは、インクが紙に滲んでいく様。俺の影が、じわりと銅貨の下まで滲み、広がっていく。そのイメージに全神経を注ぎ、魔力を送り込んだ。
すると、影の先端がわずかに蠢いた。ほんの数ミリ。だが、確かに俺の意思に反応して動いた。
「いける……!」
俺はその感覚を忘れないうちに、訓練を繰り返した。影を滲ませ、銅貨の下に潜り込ませる。最初はそれだけで魔力が尽きてしまった。だが、来る日も来る日も、夜ごとそれを繰り返すうちに、少しずつ魔力の燃費が良くなっていくのを感じた。
次の段階は、影を「隆起」させること。銅貨の下に潜り込んだ影を、上に持ち上げる。
これもまた、困難を極めた。影は実体を持たず、銅貨をすり抜けてしまう。まるで幽霊の手で物を掴もうとしているかのようだった。
「実体を持て。俺の腕だと思え」
俺は自分の右腕を強く握り、その硬さ、重さ、存在感を頭に叩き込む。そして、その感覚をそのまま影の先端に投影した。俺の影は、ただの影ではない。俺の体の一部なのだと。
それは、目に見えない糸で刺繍をするような、途方もない集中力を要する作業だった。一晩続けて、得られる成果はほとんどない。それでも俺は諦めなかった。十年後の処刑台の光景を思い浮かべれば、これしきの苦痛など無いにも等しい。

訓練を始めて、一ヶ月が過ぎた頃だろうか。
その夜も俺は、床の銅貨を睨みつけ、最後の魔力を振り絞っていた。いつものように、影を銅貨の下に潜り込ませ、実体化をイメージして持ち上げる。
すると、その瞬間。
カタリ。
静まり返った部屋に、小さく、しかし確かな音が響いた。
見ると、銅貨がわずかに傾いている。俺の影が、初めて物理的な干渉に成功した瞬間だった。
「……やった」
声が震えた。全身から力が抜け、その場に倒れ込みそうになる。体は魔力切れで鉛のように重いが、心は羽のように軽かった。諦めずに続ければ、道は開ける。その単純な事実が、これほどまでに俺の心を奮わせたことはなかった。
一度コツを掴むと、そこからの進歩は目覚ましかった。
銅貨を傾けることができるようになり、やがて持ち上げられるようになった。目標は銅貨から木製のカップへ、そして軽い羽根ペンへと変わっていった。
最初は一本しか動かせなかった影の触手も、訓練を重ねるうちに二本、三本と同時に操れるようになっていく。それはまるで、今まで使ったことのなかった指を、一本ずつ動かせるようになっていく感覚に似ていた。
精密な魔力操作の訓練は、思わぬ副産物ももたらした。停滞していた「影潜」が、再び上達し始めたのだ。影との一体感が増したことで、以前よりもスムーズに、深く潜れるようになった。今では、ふくらはぎの中ほどまで沈める。全身を隠せるようになる日も、そう遠くはないだろう。

さらに一月が過ぎた夜。俺は自室の机に向かっていた。ただし、椅子に座っているだけだ。手は膝の上に置かれている。
机の上の羊皮紙には、影の触手が掴んだ羽根ペンが、ゆっくりと文字を綴っていた。
『アレン・フォン・ヴァルハイト』
まだインクは滲み、線は震えている。お世辞にも上手いとは言えない。だが、それは確かに俺自身の筆跡だった。
俺は羽根ペンを置き、影の触手を窓辺へと伸ばした。そして、カーテンをそっと開ける。
窓の外には、静かな夜の闇が広がっていた。遠くには、帝都の灯り、そしてその中心に聳える王城のシルエットが見える。
十年後、あの城で俺の一族は断罪される。
「まだまだだ」
俺は誰に言うでもなく呟いた。
この力は、まだあまりにも非力で、脆い。だが、いつか必ず、この影の腕は城壁を越え、分厚い扉の鍵を開け、歴史が記された重要書類を盗み出し、そして、破滅をもたらす敵の喉元に、静かに刃を突きつけるだろう。
俺はカーテンを閉じた。再び部屋は、蝋燭の灯りだけの、俺だけの世界になる。
孤独な戦いは、まだ始まったばかりだ。俺は誰にも知られぬ闇の中、着実に、そして確実に牙を研ぎ澄ましていく。十年後の未来で、最後に笑うために。
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