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第三十三話 聖女の疑念
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カイウスが英雄として祭り上げられ、学園が日常を取り戻し始めた数日後の昼休み。俺はいつものように、図書館の静寂の中にいた。だが、その日は珍しく、読書に集中できていなかった。
俺の意識は、二十メートルほど離れた書架の影に立つ、一人の少女へと向けられていた。
リリアーナ・フォン・シルフィード。
あの日以来、彼女はことあるごとに、こうして俺の前に姿を現すようになった。話しかけてくるわけではない。ただ、物陰から、何かを探るような、そして何かを訴えかけるような複雑な瞳で、俺のことを見つめている。
(……厄介なことになったな)
俺は内心でため息をついた。カイウスは、俺の臆病者としての演技を信じ込み、失望と共に興味を失った。他の生徒たちも同様だ。だが、リリアーナだけが、あのダンジョンで起きた奇跡の正体を、諦めずに追い続けている。彼女の聖女としての鋭い直感が、俺という存在の異質さを感じ取っているのだ。
俺が視線を向けると、リリアーナはびくりと肩を震わせ、慌てて書架の影に身を隠した。だが、すぐにまた、ひょっこりと顔を出し、こちらを窺ってくる。まるで、傷ついた小動物が、恐る恐る人間に近づこうとしているかのようだ。
俺はわざとらしく、分厚い本を音を立てて閉じた。そして、苛立ちを隠そうともせずに立ち上がり、彼女が隠れている書架へとまっすぐ向かう。
俺が近づいてくるのに気づき、リリアーナは逃げ場を失ったように狼狽えた。
「……何の用だ、聖女様。人の読書の邪魔をするのが趣味か?」
俺は、腕を組んで彼女を見下ろし、冷たく言い放った。
リリアーナは、俺の威圧的な態度に一瞬怯んだが、意を決したように顔を上げた。その翡翠色の瞳は、真剣な光を宿していた。
「お話が、あります。アレン様」
「話すことなど何もない。俺はお前のような偽善者と馴れ合うつもりはないと、言ったはずだ」
「偽善者と、思われても構いません」
彼女は一歩も引かなかった。芯の強さ。それもまた、彼女が聖女たる所以なのだろう。
「ですが、これだけはお伺いしなければなりません。あのダンジョンで……あなたが隠れていたという、一階層の広場で……」
彼女は一度言葉を切り、ごくりと喉を鳴らした。
「あなたの服に、僅かですが、黒い体液のようなものが付着していました。あの時、私は治癒魔法を使うために、あなたの側まで近づきましたから……間違いありません」
俺の心臓が、わずかに跳ねた。
黒い体液。それは、オーガ・リーダーのものだ。奴を倒した後、影の中から抜け出す際に、気づかぬうちに付着してしまったらしい。俺はすぐに泥で汚して誤魔化したが、彼女の目は見逃さなかったのか。
「……それがどうした? ダンジョンの中だ。魔物の体液の一つや二つ、どこで付いてもおかしくないだろう」
俺は平静を装って答えた。
「いいえ、おかしいです」とリリアーナは首を横に振った。「あの体液は、私がカイウス様たちを治療した時に見た、あの異常変異種のオーガのものと、全く同じ色と粘性でした。一階層には、ゴブリンとバットしかいなかったはずです。あんな体液を持つ魔物は、存在しません」
鋭い観察眼。そして、驚異的な記憶力。彼女は、ただ慈愛に満ちただけの少女ではなかった。
俺は沈黙した。下手に言い訳をすれば、さらに墓穴を掘るだけだ。
俺の沈黙を肯定と受け取ったのか、リリアーナはさらに一歩、俺に近づいた。
「あなたは、本当はずっと深層にいたのではありませんか? そして、私たちを……助けてくださったのではありませんか?」
その声は、震えていた。それは、俺への追及というよりも、信じがたい真実を確かめようとする、切実な願いにも似ていた。
俺は、初めてリリアーナという少女の本質に触れた気がした。彼女は、俺を断罪したいわけではない。ただ、真実が知りたいのだ。悪逆非道と噂されるヴァルハイト家の少年が、なぜ命懸けで自分たちを救ったのか。その理由が。
だが、俺はその問いに答えるわけにはいかない。
俺の計画にとって、彼女のこの純粋さこそが、最も危険なのだ。
俺は、悪役の仮面を、さらに分厚く、冷たいものへと変えた。そして、心の底から彼女を嘲笑うかのように、噴き出した。
「はっ……ははははは! 助けた? 俺が? お前たちを?」
俺の突然の哄笑に、リリアーナは怯えたように後ずさる。
「聖女様は、よほど物語がお好きらしいな! この俺が、宿敵である王子と、偽善者の聖女を助けるだと? それは、どんな三文芝居だ?」
俺は笑うのをやめ、氷のような目で彼女を射抜いた。
「いいか、よく聞け。仮に、万が一、億が一。俺がその場にいたとしよう。だとしても、俺がするのは助けることではない。むしろ、あのオーガに加勢して、お前たちの死体が増えるのを見て楽しむだろうさ。それが、ヴァルハイトの人間というものだ」
それは、彼女の持つ全ての善意と希望を、根こそぎ否定する言葉だった。リリアーナの顔から、急速に血の気が引いていく。その瞳が、絶望に似た色に染まっていく。
「そん……な……」
「体液のことだったか? ああ、そういえば思い出した」
俺は、わざとらしく顎に手を当てた。
「逃げ惑う生徒の一人が、何か黒いものをぶちまけながら俺の横を走り抜けていったな。あれは、深層から命からがら逃げてきた奴だったのだろう。その時に付いたに違いない。くだらん」
完璧な、嘘。だが、今の彼女にはそれを否定する術はない。
俺は、完全に心を折られたように立ち尽くすリリアーナに背を向けた。
「俺に構うな。お前のその真っ直ぐな目は、見ているだけで虫唾が走る」
その言葉を最後に、俺はその場を立ち去った。
残されたリリアーナは、書架に背を預け、ずるずるとその場に座り込んだ。
彼女の心は、完全に引き裂かれていた。
彼女の直感は、アレンが嘘をついていると叫んでいる。彼こそが、自分たちを救ってくれた謎の協力者なのだと。
だが、彼自身の言葉が、その態度が、その全てを冷酷に否定する。彼の瞳に宿る闇は、あまりにも深く、彼女の光が届くものではないように思えた。
(……違う。きっと、何か理由があるはず)
彼女は、涙が滲む目で、俺が去っていった方向を見つめていた。
(私は、諦めない。本当のあなたを、いつか必ず……)
彼女の疑念は、晴れるどころか、より深く、より複雑なものへと変わっていった。それは、やがて彼女を、歴史書には記されていない、新たな行動へと駆り立てることになる。
俺が植え付けた「疑念の種」は、俺の意図とは少し違う形で、彼女の心の中に静かに根を下ろし始めていた。
そのことに、俺はまだ気づいていなかった。
俺の意識は、二十メートルほど離れた書架の影に立つ、一人の少女へと向けられていた。
リリアーナ・フォン・シルフィード。
あの日以来、彼女はことあるごとに、こうして俺の前に姿を現すようになった。話しかけてくるわけではない。ただ、物陰から、何かを探るような、そして何かを訴えかけるような複雑な瞳で、俺のことを見つめている。
(……厄介なことになったな)
俺は内心でため息をついた。カイウスは、俺の臆病者としての演技を信じ込み、失望と共に興味を失った。他の生徒たちも同様だ。だが、リリアーナだけが、あのダンジョンで起きた奇跡の正体を、諦めずに追い続けている。彼女の聖女としての鋭い直感が、俺という存在の異質さを感じ取っているのだ。
俺が視線を向けると、リリアーナはびくりと肩を震わせ、慌てて書架の影に身を隠した。だが、すぐにまた、ひょっこりと顔を出し、こちらを窺ってくる。まるで、傷ついた小動物が、恐る恐る人間に近づこうとしているかのようだ。
俺はわざとらしく、分厚い本を音を立てて閉じた。そして、苛立ちを隠そうともせずに立ち上がり、彼女が隠れている書架へとまっすぐ向かう。
俺が近づいてくるのに気づき、リリアーナは逃げ場を失ったように狼狽えた。
「……何の用だ、聖女様。人の読書の邪魔をするのが趣味か?」
俺は、腕を組んで彼女を見下ろし、冷たく言い放った。
リリアーナは、俺の威圧的な態度に一瞬怯んだが、意を決したように顔を上げた。その翡翠色の瞳は、真剣な光を宿していた。
「お話が、あります。アレン様」
「話すことなど何もない。俺はお前のような偽善者と馴れ合うつもりはないと、言ったはずだ」
「偽善者と、思われても構いません」
彼女は一歩も引かなかった。芯の強さ。それもまた、彼女が聖女たる所以なのだろう。
「ですが、これだけはお伺いしなければなりません。あのダンジョンで……あなたが隠れていたという、一階層の広場で……」
彼女は一度言葉を切り、ごくりと喉を鳴らした。
「あなたの服に、僅かですが、黒い体液のようなものが付着していました。あの時、私は治癒魔法を使うために、あなたの側まで近づきましたから……間違いありません」
俺の心臓が、わずかに跳ねた。
黒い体液。それは、オーガ・リーダーのものだ。奴を倒した後、影の中から抜け出す際に、気づかぬうちに付着してしまったらしい。俺はすぐに泥で汚して誤魔化したが、彼女の目は見逃さなかったのか。
「……それがどうした? ダンジョンの中だ。魔物の体液の一つや二つ、どこで付いてもおかしくないだろう」
俺は平静を装って答えた。
「いいえ、おかしいです」とリリアーナは首を横に振った。「あの体液は、私がカイウス様たちを治療した時に見た、あの異常変異種のオーガのものと、全く同じ色と粘性でした。一階層には、ゴブリンとバットしかいなかったはずです。あんな体液を持つ魔物は、存在しません」
鋭い観察眼。そして、驚異的な記憶力。彼女は、ただ慈愛に満ちただけの少女ではなかった。
俺は沈黙した。下手に言い訳をすれば、さらに墓穴を掘るだけだ。
俺の沈黙を肯定と受け取ったのか、リリアーナはさらに一歩、俺に近づいた。
「あなたは、本当はずっと深層にいたのではありませんか? そして、私たちを……助けてくださったのではありませんか?」
その声は、震えていた。それは、俺への追及というよりも、信じがたい真実を確かめようとする、切実な願いにも似ていた。
俺は、初めてリリアーナという少女の本質に触れた気がした。彼女は、俺を断罪したいわけではない。ただ、真実が知りたいのだ。悪逆非道と噂されるヴァルハイト家の少年が、なぜ命懸けで自分たちを救ったのか。その理由が。
だが、俺はその問いに答えるわけにはいかない。
俺の計画にとって、彼女のこの純粋さこそが、最も危険なのだ。
俺は、悪役の仮面を、さらに分厚く、冷たいものへと変えた。そして、心の底から彼女を嘲笑うかのように、噴き出した。
「はっ……ははははは! 助けた? 俺が? お前たちを?」
俺の突然の哄笑に、リリアーナは怯えたように後ずさる。
「聖女様は、よほど物語がお好きらしいな! この俺が、宿敵である王子と、偽善者の聖女を助けるだと? それは、どんな三文芝居だ?」
俺は笑うのをやめ、氷のような目で彼女を射抜いた。
「いいか、よく聞け。仮に、万が一、億が一。俺がその場にいたとしよう。だとしても、俺がするのは助けることではない。むしろ、あのオーガに加勢して、お前たちの死体が増えるのを見て楽しむだろうさ。それが、ヴァルハイトの人間というものだ」
それは、彼女の持つ全ての善意と希望を、根こそぎ否定する言葉だった。リリアーナの顔から、急速に血の気が引いていく。その瞳が、絶望に似た色に染まっていく。
「そん……な……」
「体液のことだったか? ああ、そういえば思い出した」
俺は、わざとらしく顎に手を当てた。
「逃げ惑う生徒の一人が、何か黒いものをぶちまけながら俺の横を走り抜けていったな。あれは、深層から命からがら逃げてきた奴だったのだろう。その時に付いたに違いない。くだらん」
完璧な、嘘。だが、今の彼女にはそれを否定する術はない。
俺は、完全に心を折られたように立ち尽くすリリアーナに背を向けた。
「俺に構うな。お前のその真っ直ぐな目は、見ているだけで虫唾が走る」
その言葉を最後に、俺はその場を立ち去った。
残されたリリアーナは、書架に背を預け、ずるずるとその場に座り込んだ。
彼女の心は、完全に引き裂かれていた。
彼女の直感は、アレンが嘘をついていると叫んでいる。彼こそが、自分たちを救ってくれた謎の協力者なのだと。
だが、彼自身の言葉が、その態度が、その全てを冷酷に否定する。彼の瞳に宿る闇は、あまりにも深く、彼女の光が届くものではないように思えた。
(……違う。きっと、何か理由があるはず)
彼女は、涙が滲む目で、俺が去っていった方向を見つめていた。
(私は、諦めない。本当のあなたを、いつか必ず……)
彼女の疑念は、晴れるどころか、より深く、より複雑なものへと変わっていった。それは、やがて彼女を、歴史書には記されていない、新たな行動へと駆り立てることになる。
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そのことに、俺はまだ気づいていなかった。
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