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第五十二話 父の書斎
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数日後、俺を乗せた馬車はヴァルハイト公爵家の広大な領地へと帰還した。王都の喧騒とは対照的な、どこまでも広がる緑の平原と遠くにそびえる峻厳な山脈。この土地の空気は王都のそれよりも澄んでいるはずなのに、俺の胸には鉛のような重さがのしかかっていた。
屋敷に到着しても、出迎える者はほとんどいなかった。使用人たちは皆、何かを恐れるように俯き、足早に俺たちの前から姿を消していく。屋敷全体が不気味なほどの静寂と張り詰めた緊張感に支配されていた。まるで巨大な嵐が訪れる直前の、嵐の目のようだ。
俺はセラに荷解きを任せると、迷わず一つの場所へと向かった。
父ジークフリートの書斎。
この屋敷の心臓部であり、全ての陰謀が生まれるであろう場所。俺は父の真意を確かめるため、正面から彼と対峙することを決めていた。
だが、書斎の前にたどり着いた俺を、二人の屈強な近衛騎士が阻んだ。
「アレン様。申し訳ございませんが、公爵様は今、誰との面会もお断りするようにと……」
「俺は誰かではない。この家の息子だ。通せ」
俺の言葉には、有無を言わせぬ響きがあった。学園で悪役を演じ続けてきたおかげで、人を威圧する術は自然と身についていた。騎士たちは一瞬怯んだが、それでも頑として動こうとしない。
「ですが、命令ですので……」
(……力ずくで入るか?)
俺が内心で物騒なことを考え始めた、その時だった。
書斎の中から、父の低く威厳に満ちた声が響いた。
「――通せ」
その一言に、騎士たちは弾かれたように道を開けた。俺は無言で彼らの横を通り過ぎ、重厚な扉を押し開ける。
書斎の中は、以前と何も変わっていなかった。壁一面の本棚、黒檀の巨大な執務机。だが、その空気は明らかに違っていた。机の上には王都から取り寄せたのであろう最新の軍事地図が広げられ、壁にはヴァルハイト家の私兵の配置を示す図面が掛けられている。部屋の隅には、磨き上げられた父の鎧兜が不気味な光を放っていた。
父ジークフリートは、机の向こうで地図を睨みつけながら、俺が入室しても顔を上げようとしなかった。
「……何の用だ、アレン。学園での役目も果たせぬまま、尻尾を巻いて逃げ帰ってきたか」
その声は相変わらず冷たかった。
「いいえ。父上に、お伺いしたいことがあって参りました」
俺は父の前に立った。そして単刀直入に切り出した。
「クーデターの噂は本当ですか」
俺の問いに、父の動きが初めて止まった。彼はゆっくりと顔を上げ、その鷲のような瞳で俺を射抜く。その視線は俺の覚悟を、その魂の底まで見透かそうとしているかのようだった。
「……その噂を信じるか、アレン」
「信じません」と俺は即答した。「父上ほどの御方が、このような稚拙で勝ち目の薄い賭けに乗るとは思えません。これは、何か別の目的のための『芝居』。そうでしょう?」
俺の言葉に、父の瞳の奥がわずかに揺らめいた。
俺は確信を持って続けた。
「あなたの狙いは『黄昏の蛇』。そして、奴らの背後にいる帝国の腐敗の根源。このクーデター騒ぎは、奴らを炙り出し一網打尽にするための壮大な罠なのではありませんか?」
書斎に沈黙が落ちた。父は何も答えない。ただ俺の顔をじっと見つめているだけだ。その沈黙が、俺の推測が正しかったことを何よりも雄弁に物語っていた。
「……ならば、どうするというのだ」
やがて父は静かに口を開いた。
「お前の言う通り、これが芝居だとして。お前のような力も実績もない三男坊に何ができる」
「駒になります」
俺は淀みなく答えた。
「父上の計画の中で、最も効果的な駒として動いてみせます。学園でカイウス王子や聖女と最も近い場所にいるのは兄上たちではなく、この俺です。彼らを欺き、情報を操作し、奴らを罠へと誘導する上で、俺以上に適任な駒はいないはずです」
それは父の掌の上で踊ることを受け入れるという宣言。だが、その瞳には決して飼いならされはしないという強い意志の光が宿っていた。
父はそんな俺の瞳をしばらく見つめていた。そして、ふいと視線を逸らし、立ち上がって窓の外へと歩み寄った。
「……お前は、ヴァルハイト家の闇を知らなすぎる」
父は窓の外に広がる自分の領地を見下ろしながら、独り言のように呟いた。
「この帝国は、我々が思うよりも遥かに深く病んでいる。その病巣はもはや通常の外科手術では取り除けぬほどに、帝国の隅々にまで転移している。それを根絶やしにするには、一度帝国そのものを瀕死の状態にまで追い込むしかないのだ」
その声には、冷酷な野心家のそれとは違う、国を憂う愛国者のような深い苦悩の色が滲んでいた。
「我がヴァルハイト家は、代々帝国の影を背負ってきた。光が強ければ影もまた濃くなる。帝室が輝かしい光であるならば、我々はその影となり、泥を啜り、血を流し、この国の安寧を守ってきた。今回のクーデターは、その最後の務めだ」
父はゆっくりと振り返った。その顔には、これまで俺が見たこともないような疲労と、そして悲壮な覚悟が浮かんでいた。
「我々は歴史上最大の悪役となるだろう。民に憎まれ、後世まで唾棄される存在として名を残すことになる。だが、それでいい。その犠牲の上に真に浄化された帝国が再建されるのならば本望だ」
俺は息を呑んだ。
歴史書は結果しか記さない。ジークフリートが反乱を起こし断罪された、と。だが、その裏にあった彼のこの悲壮な覚悟までは記してはいなかった。
「父上……」
「アレンよ」
父は初めて俺を、ただの駒ではなく息子として見つめた。
「お前はまだ若い。この闇にお前まで引きずり込むつもりはなかった。だが、お前は自らこの舞台に上がろうとしている。ならば問おう。お前にはヴァルハイトの血を引く者として、この茨の道を歩む覚悟が本当にあるのか」
その問いは、俺の魂そのものに突きつけられていた。
俺はゆっくりと、しかし力強く頷いた。
「覚悟は、とうの昔にできています」
俺は処刑台の悪夢を思い出す。あの無様な死を避けるためならば、どんな悪にもどんな闇にもこの身を染めてみせる。
俺の答えを聞き、父は静かに目を閉じた。そして再び目を開けた時、その瞳にはいつもの冷徹な光が戻っていた。
「……良かろう。ならば今宵、真の計画を教えてやる」
父は執務机の引き出しから、鍵のかかった木箱を取り出した。そして、その中から一枚の、羊皮紙よりも遥かに古い黄ばんだ地図のようなものを取り出す。
「これが、奴らが血眼になって探している『始祖の遺産』への唯一の手掛かりだ。そして我らがヴァルハイト家が、代々命を懸けて守り抜いてきた最大の秘密でもある」
俺は、その地図に視線を落とした。そこに描かれていたのは、見たこともない古代の紋様と謎めいた文字列。
父と息子の奇妙で危険な共犯関係。
それはこの静かな書斎で、誰にも知られることなく静かに始まった。
歴史の歯車が、俺の知らないところで、そして俺の介入によって、大きく確実な音を立てて回り始めていた。
屋敷に到着しても、出迎える者はほとんどいなかった。使用人たちは皆、何かを恐れるように俯き、足早に俺たちの前から姿を消していく。屋敷全体が不気味なほどの静寂と張り詰めた緊張感に支配されていた。まるで巨大な嵐が訪れる直前の、嵐の目のようだ。
俺はセラに荷解きを任せると、迷わず一つの場所へと向かった。
父ジークフリートの書斎。
この屋敷の心臓部であり、全ての陰謀が生まれるであろう場所。俺は父の真意を確かめるため、正面から彼と対峙することを決めていた。
だが、書斎の前にたどり着いた俺を、二人の屈強な近衛騎士が阻んだ。
「アレン様。申し訳ございませんが、公爵様は今、誰との面会もお断りするようにと……」
「俺は誰かではない。この家の息子だ。通せ」
俺の言葉には、有無を言わせぬ響きがあった。学園で悪役を演じ続けてきたおかげで、人を威圧する術は自然と身についていた。騎士たちは一瞬怯んだが、それでも頑として動こうとしない。
「ですが、命令ですので……」
(……力ずくで入るか?)
俺が内心で物騒なことを考え始めた、その時だった。
書斎の中から、父の低く威厳に満ちた声が響いた。
「――通せ」
その一言に、騎士たちは弾かれたように道を開けた。俺は無言で彼らの横を通り過ぎ、重厚な扉を押し開ける。
書斎の中は、以前と何も変わっていなかった。壁一面の本棚、黒檀の巨大な執務机。だが、その空気は明らかに違っていた。机の上には王都から取り寄せたのであろう最新の軍事地図が広げられ、壁にはヴァルハイト家の私兵の配置を示す図面が掛けられている。部屋の隅には、磨き上げられた父の鎧兜が不気味な光を放っていた。
父ジークフリートは、机の向こうで地図を睨みつけながら、俺が入室しても顔を上げようとしなかった。
「……何の用だ、アレン。学園での役目も果たせぬまま、尻尾を巻いて逃げ帰ってきたか」
その声は相変わらず冷たかった。
「いいえ。父上に、お伺いしたいことがあって参りました」
俺は父の前に立った。そして単刀直入に切り出した。
「クーデターの噂は本当ですか」
俺の問いに、父の動きが初めて止まった。彼はゆっくりと顔を上げ、その鷲のような瞳で俺を射抜く。その視線は俺の覚悟を、その魂の底まで見透かそうとしているかのようだった。
「……その噂を信じるか、アレン」
「信じません」と俺は即答した。「父上ほどの御方が、このような稚拙で勝ち目の薄い賭けに乗るとは思えません。これは、何か別の目的のための『芝居』。そうでしょう?」
俺の言葉に、父の瞳の奥がわずかに揺らめいた。
俺は確信を持って続けた。
「あなたの狙いは『黄昏の蛇』。そして、奴らの背後にいる帝国の腐敗の根源。このクーデター騒ぎは、奴らを炙り出し一網打尽にするための壮大な罠なのではありませんか?」
書斎に沈黙が落ちた。父は何も答えない。ただ俺の顔をじっと見つめているだけだ。その沈黙が、俺の推測が正しかったことを何よりも雄弁に物語っていた。
「……ならば、どうするというのだ」
やがて父は静かに口を開いた。
「お前の言う通り、これが芝居だとして。お前のような力も実績もない三男坊に何ができる」
「駒になります」
俺は淀みなく答えた。
「父上の計画の中で、最も効果的な駒として動いてみせます。学園でカイウス王子や聖女と最も近い場所にいるのは兄上たちではなく、この俺です。彼らを欺き、情報を操作し、奴らを罠へと誘導する上で、俺以上に適任な駒はいないはずです」
それは父の掌の上で踊ることを受け入れるという宣言。だが、その瞳には決して飼いならされはしないという強い意志の光が宿っていた。
父はそんな俺の瞳をしばらく見つめていた。そして、ふいと視線を逸らし、立ち上がって窓の外へと歩み寄った。
「……お前は、ヴァルハイト家の闇を知らなすぎる」
父は窓の外に広がる自分の領地を見下ろしながら、独り言のように呟いた。
「この帝国は、我々が思うよりも遥かに深く病んでいる。その病巣はもはや通常の外科手術では取り除けぬほどに、帝国の隅々にまで転移している。それを根絶やしにするには、一度帝国そのものを瀕死の状態にまで追い込むしかないのだ」
その声には、冷酷な野心家のそれとは違う、国を憂う愛国者のような深い苦悩の色が滲んでいた。
「我がヴァルハイト家は、代々帝国の影を背負ってきた。光が強ければ影もまた濃くなる。帝室が輝かしい光であるならば、我々はその影となり、泥を啜り、血を流し、この国の安寧を守ってきた。今回のクーデターは、その最後の務めだ」
父はゆっくりと振り返った。その顔には、これまで俺が見たこともないような疲労と、そして悲壮な覚悟が浮かんでいた。
「我々は歴史上最大の悪役となるだろう。民に憎まれ、後世まで唾棄される存在として名を残すことになる。だが、それでいい。その犠牲の上に真に浄化された帝国が再建されるのならば本望だ」
俺は息を呑んだ。
歴史書は結果しか記さない。ジークフリートが反乱を起こし断罪された、と。だが、その裏にあった彼のこの悲壮な覚悟までは記してはいなかった。
「父上……」
「アレンよ」
父は初めて俺を、ただの駒ではなく息子として見つめた。
「お前はまだ若い。この闇にお前まで引きずり込むつもりはなかった。だが、お前は自らこの舞台に上がろうとしている。ならば問おう。お前にはヴァルハイトの血を引く者として、この茨の道を歩む覚悟が本当にあるのか」
その問いは、俺の魂そのものに突きつけられていた。
俺はゆっくりと、しかし力強く頷いた。
「覚悟は、とうの昔にできています」
俺は処刑台の悪夢を思い出す。あの無様な死を避けるためならば、どんな悪にもどんな闇にもこの身を染めてみせる。
俺の答えを聞き、父は静かに目を閉じた。そして再び目を開けた時、その瞳にはいつもの冷徹な光が戻っていた。
「……良かろう。ならば今宵、真の計画を教えてやる」
父は執務机の引き出しから、鍵のかかった木箱を取り出した。そして、その中から一枚の、羊皮紙よりも遥かに古い黄ばんだ地図のようなものを取り出す。
「これが、奴らが血眼になって探している『始祖の遺産』への唯一の手掛かりだ。そして我らがヴァルハイト家が、代々命を懸けて守り抜いてきた最大の秘密でもある」
俺は、その地図に視線を落とした。そこに描かれていたのは、見たこともない古代の紋様と謎めいた文字列。
父と息子の奇妙で危険な共犯関係。
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