破滅の運命を覆すため、悪役貴族は影で最強を目指す 〜歴史書では断罪される俺だが、未来知識と禁忌の魔法で成り上がってみせる〜

夏見ナイ

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第五十六話 聖女の危機

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夜明け前の薄明かりが、血の匂いが微かに漂うロヴェルトの地を照らし始めていた。俺は地下貯蔵庫の冷たい石段に腰掛け、始末を終えたセラが戻ってくるのを待っていた。頭の中では、先ほど捕虜から聞き出した情報が警鐘のように鳴り響いている。
リリアーナの誘拐。建国記念祭。
歴史の歯車は俺の介入にもかかわらず、定められた破滅の道筋へと執拗に回帰しようとしていた。「黄昏の蛇」、そしてその背後にいるであろう父。俺は複数の巨大な流れが複雑に絡み合う奔流の真ん中に、たった一人で立たされている。
やがてセラが音もなく俺の隣に姿を現した。その黒い戦闘服には新たな返り血の染み一つない。彼女の仕事に、抜かりはなかった。
「……終わりました」
「そうか」
俺は立ち上がり、白み始めた空を見上げた。
「俺たちはこの村を離れる。今すぐにだ」
「村の守りは、どうなさいますか」
セラの問いはもっともだった。一度襲撃を受けたこの村を、領主である俺が空ける。それは民を見捨てる行為に等しい。
「自警団に全てを託す。彼らはもうただの農民ではない。自分たちの手で未来を掴み取った強い戦士だ。俺が残した計画書と蓄えがあれば、しばらくは持ち堪えられるはずだ」
俺は村の中心へと向かいながら言葉を続けた。
「それに、蛇どもも馬鹿ではない。一度これだけの戦力を失った場所に、すぐに次の手を打ってはこないだろう。奴らの本命は王都だ。この村への襲撃は陽動に過ぎなかったのだから」
それは冷徹な計算に基づいた判断だった。だが、その裏に俺が育てた村人たちへの信頼があることも、また事実だった。

俺が王都へ緊急に戻らねばならないと告げると、村の代表者たちの顔には動揺が走った。だが、彼らはもはや以前のように俺を疑ったり、見捨てられると嘆いたりすることはなかった。
「領主様には、領主様にしかできぬ戦いがあるのでしょう」
村のまとめ役の男は俺の目をまっすぐに見据えて言った。
「この村のことは我々にお任せください。あなた様が安心して王都で戦えるよう、この地は我々が命を懸けて守り抜きます」
その言葉に、他の村人たちも力強く頷いた。彼らの信頼が重く、そして温かく俺の背中を押す。
俺は彼らに倉庫の警備を厳重にすること、見知らぬ者が村に近づけばすぐに報告することなどを詳細に指示した。そしてセラと共に、最も足の速い馬を二頭選び鞍にまたがる。
「行ってまいります、領主様! ご武運を!」
村人たちの声援を背に、俺たちは王都へと続く道を全速力で駆け出した。

道中、俺とセラの間に会話はほとんどなかった。今は一秒でも早く王都に戻ることが最優先だった。馬蹄の音と風を切り裂く音だけが、焦る俺たちの心をさらに急き立てる。
日が暮れ、森の中で短い休息を取った時。焚き火の炎を見つめながら、セラが初めて口を開いた。
「アレン様は……聖女様のことが、ご心配なのですか」
その問いはどこか俺の心を探るような響きを持っていた。
俺は火で炙っていた干し-肉をかじりながら、そっけなく答えた。
「勘違いするな。全ては計画のためだ」
俺はセラの紫の瞳を見据えた。
「歴史書によれば、リリアーナの誘拐事件こそがヴァルハイト家断罪の決定打となる。彼女が『黄昏の蛇』の手に落ち、それをカイウスが救出する。その筋書きが完成してしまえば、俺たちの破滅は確定する。俺が彼女を助けるのは俺自身が生き延びるためだ。それ以上でも、それ以下でもない」
それは俺が自分自身に言い聞かせている、冷徹な真実だった。
「……承知しております」
セラは静かに頷いた。だが、その瞳の奥に俺の言葉だけでは納得していない、何か別の感情が揺らめいているのを俺は見逃さなかった。彼女はリリアーナを拒絶したあの夜の、俺の心の痛みを知っている。
俺たちはそれ以上何も語らなかった。ただ、揺れる炎を見つめながらそれぞれの胸の内にある複雑な思いを静かに燃やしていた。

二日後。俺たちはほとんど不眠不休で馬を飛ばし続け、ついに王都の城壁へとたどり着いた。馬は口から泡を吹き、その場で倒れ込んでしまうほどの無理をさせた。
ヴァルハイト邸に戻った俺は休む間もなく自室に籠もり、セラが集めてきた全ての情報を机の上に広げた。
建国記念祭の日程は十日後。
当日のリリアーナのスケジュール。午前中は大聖堂でのミサ、午後は王宮での祝賀パレードに参加。警備は近衛騎士団が最高レベルで行うことになっている。
「これだけの警備網を、どうやって突破するつもりだ……」
俺は地図を睨みつけ、唸った。
歴史書には「祭りの喧騒の中、リリアーナが忽然と姿を消した」としか記されていない。その具体的な手口までは書かれていなかったのだ。
「セラ。お前なら、どうする」
俺が問うと、セラは地図の一点を指差した。それは祝賀パレードのルートが通る、王都で最も古く入り組んだ職人街の区画だった。
「……ここです」
彼女の声は確信に満ちていた。
「この区画は道が狭く、古い建物が密集しています。騎士団の馬は入れず、警備は徒歩の兵士が中心となる。そして何より、地下には古い水道網が迷路のように張り巡ぎらされている。もし私が聖女様を攫うなら、パレードで最も人混みが多くなるこの場所で混乱を引き起こし、その隙に彼女を地下へと引きずり込みます。そうすれば、誰にも気づかれずに王都のどこへでも移動できる」
完璧な分析だった。暗殺者として生きてきた彼女だからこそ見える、王都の「死角」。
「……決まりだな」
俺たちの作戦の舞台は、その職人街となった。
だが、問題はここからだ。誘拐を未然に防ぐか、それとも一度誘拐させてから奪還するか。
未然に防げば、俺たちの存在が「黄昏の蛇」に知られるリスクがある。奴らは計画を変更し、さらに予測不能な手を打ってくるかもしれない。
ならば後者だ。
「犯人たちには計画通りに誘拐を実行させる」
俺は冷徹に告げた。
「そして奴らを泳がせ、アジトまで案内してもらう。リリアーナには、少しだけ怖い思いをしてもらうことになるがな」
それはリリアーナを「餌」として使うという、非情な決断だった。
「蛇の巣穴を根こそぎ叩き潰す。そのためにはこれが最善の策だ」
俺は机の引き出しから、学園の生徒名簿を取り出した。そして、リリアーナ・フォン・シルフィードのページを開く。そこに添えられた小さな肖像画の中の彼女は、慈愛に満ちた微笑みを浮かべていた。
俺は、その絵を指でそっとなぞった。
「……お前には死なれては困るんだ。聖女様」
俺は誰に言うでもなく呟いた。
「お前は、俺の破滅フラグの最大のトリガーなんだからな」
その言葉とは裏腹に、俺の瞳には冷たい計算だけではない、俺自身もまだ名前をつけることのできない複雑な感情の光が揺らめいていた。
建国記念祭まで、あと十日。運命の歯車はもう誰にも止められない速度で回り始めていた。
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