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第七十二話 リリアーナの決意
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王都に不穏な空気が満ちる中、聖教会の大聖堂だけは変わらぬ静寂と神聖さに包まれていた。ステンドグラスから差し込む月光が、大理石の床に幻想的な模様を描き出している。
リリアーナ・フォン・シルフィードは、その静寂の只中、一人で祭壇の前に跪き深く祈りを捧げていた。
聖女誘拐事件以来、彼女の心は晴れることがなかった。救出された安堵感よりも、事件の裏に隠された深い闇と謎の協力者「クロウ」の存在が、重い靄のように彼女の心を覆っていた。
そして日に日に現実味を帯びていく、ヴァルハイト家のクーデターの噂。人々の心に広がる不安と恐怖が、聖女である彼女の肌をぴりぴりと刺すように感じられた。
(神よ……どうか、この帝国に御慈悲を。無用な血が流れることのないよう、人々をお導きください……)
彼女はただひたすらに平和を祈った。
だが、その祈りの言葉はどこか空虚に響くだけだった。祈るだけでは何も変わらない。そのことを彼女はあの誘拐事件で、痛いほどに思い知らされていたからだ。
自分の無力さ。聖女という立場でありながら悪意の前では、ただ攫われるだけのか弱い少女でしかなかった自分。
もしあの「クロウ」という男が現れなければ、自分はどうなっていたのだろうか。
彼女は祈りを中断し、ゆっくりと立ち上がった。そして大聖堂の壁に飾られた、歴代聖女の肖像画を見上げる。どの聖女も慈愛に満ちた穏やかな笑みを浮かべていた。
「……私は、聖女失格ですわ」
リリアーナは誰に言うでもなく、自嘲するように呟いた。
「民の心を癒やすことはできても、その身を脅かす悪意から民を守ることはできない。ただ祈ることしかできない……」
彼女の脳裏に、二人の対照的な少年の姿が浮かび上がった。
一人はカイウス・フォン・グランツ。正義の光そのもののような存在。彼は剣を取り、帝国を脅かす悪と真正面から戦おうとしている。
もう一人はアレン・フォン・ヴァルハイト。悪意と侮蔑の仮面を被り、人を傷つけることを厭わない少年。だが、なぜか彼の影にはいつも「クロウ」の姿が重なって見える。
光と、影。
どちらもそれぞれのやり方で、この帝国の歪みと戦っているのではないか。
ならば自分は?
自分はただ守られ、祈るだけの存在で本当にいいのだろうか。
「……いいえ」
リリアーナは静かに、しかし力強く首を横に振った。
彼女は肖像画に背を向け、大聖堂の出口へと歩き出した。その足取りにはもう迷いはなかった。
「聖なる光は、ただ癒やすためだけにあるのではありません。時には闇を打ち払う力にもなるはずです」
彼女は自分の手のひらを見つめた。そこにはまだ小さな、しかし確かな光の魔力が宿っている。
「私も戦います。この国を、そして私が愛する人々を守るために」
それは聖女としてではない、リリアーナ・フォン・シルフィードという一人の少女が自らの意思で下した、戦う覚悟の表明だった。
彼女は大聖堂を後にすると、まっすぐに王宮へと向かった。
向かう先はカイウスの私室。
彼女は彼に告げるつもりだった。明日の戦い、自分も共に戦場に立つと。後方支援として仲間たちを癒やし、支えるために。
それはカイウスにとって、そして歴史書の筋書きにとって全く予想外の行動だった。聖女は守られるべき存在であり、戦場に出るべきではない。それがこれまでの帝国の常識だったからだ。
リリアーナが王宮の廊下を歩いていると、前からカイウスの側近であるレオナールが慌ただしい様子で歩いてくるのに出くわした。
「レオナール様。カイウス様はご自室に?」
「リリアーナ様。はい、いらっしゃいますが……今は取り込み中でして」
レオナールの顔には深い困惑の色が浮かんでいた。
「先ほどカイウス様の部屋に何者かが侵入したようなのです。ですが、何も盗まれた形跡はなく、ただ一通の手紙が……」
「手紙?」
その時、カイウスの私室の扉が勢いよく開かれた。
中から現れたカイウスは鬼気迫る表情で一枚の羊皮紙を握りしめていた。その顔は青ざめ、その瞳は深い疑念と混乱に揺れていた。
「カイウス様……?」
リリアーナは彼のただならぬ様子に息を呑んだ。
カイウスはリリアーナの姿を認めると、一瞬だけその手紙を隠すように背後に回した。
「……リリアーナ。どうしてここに」
「私は……」
リリアーナが自分の決意を伝えようとした、その時。
カイウスは彼女の言葉を遮るように言った。
「……ちょうどよかった。君にも聞いてほしいことがある」
彼はレオナールとリリアーナを部屋の中へと招き入れた。そして固く扉を閉める。
部屋の中は張り詰めた空気に満ちていた。カイウスはしばらくの間、何かを深く、深く思い悩むように部屋の中を歩き回っていた。
やがて彼は覚悟を決めたように足を止めた。
そして握りしめていた手紙をテーブルの上に置く。
「……これを見てほしい」
リリアーナとレオナールは訝しげにその羊皮紙を覗き込んだ。
そこに記された衝撃的な内容。そして最後に添えられた、カラスの羽根を模した紋章。
「……クロウ……!」
リリアーナは思わずその名を口にしていた。
カイウスは彼女の反応を見て確信した。彼女もまた「クロウ」という存在を深く意識していることを。
「……僕はこれまで、ヴァルハイト家こそがこの国を蝕む最大の悪だと信じてきた」
カイウスは静かに、しかし重々しく語り始めた。
「だが、もしこの手紙が真実だとすれば……我々が本当に戦うべき敵は、全く別の場所にいるのかもしれない」
彼の言葉はリリアーリナの心を強く揺さぶった。
アレン・ヴァルハイト。彼が戦っているという孤独な戦い。それはもしかしたら、この手紙に記された帝国の深い闇と関係があるのではないか。
「私は……」
リリアーナは口を開いた。
「私は戦います、カイウス様。あなたの隣で何が真実で何が偽りなのかを、この目で見届けるために」
彼女の瞳にはもはや迷いはなかった。聖女としての務めと一人の少女としての決意が、一つの強い光となってその瞳の奥で輝いていた。
カイウスはそんな彼女の姿を見て静かに頷いた。
「……ありがとう、リリアーナ。君の光が今の我々には必要だ」
歴史の歯車はまた一つ、大きく軋みを上げて回り始めた。
聖女が戦場に立つ。
その小さな、しかし決定的な変化が、これから始まる動乱の結末を誰にも予測できない方向へと導いていくことになる。
そのことをこの部屋にいる誰も、そしてこの脚本を描いた俺自身さえも、まだ知る由もなかった。
リリアーナ・フォン・シルフィードは、その静寂の只中、一人で祭壇の前に跪き深く祈りを捧げていた。
聖女誘拐事件以来、彼女の心は晴れることがなかった。救出された安堵感よりも、事件の裏に隠された深い闇と謎の協力者「クロウ」の存在が、重い靄のように彼女の心を覆っていた。
そして日に日に現実味を帯びていく、ヴァルハイト家のクーデターの噂。人々の心に広がる不安と恐怖が、聖女である彼女の肌をぴりぴりと刺すように感じられた。
(神よ……どうか、この帝国に御慈悲を。無用な血が流れることのないよう、人々をお導きください……)
彼女はただひたすらに平和を祈った。
だが、その祈りの言葉はどこか空虚に響くだけだった。祈るだけでは何も変わらない。そのことを彼女はあの誘拐事件で、痛いほどに思い知らされていたからだ。
自分の無力さ。聖女という立場でありながら悪意の前では、ただ攫われるだけのか弱い少女でしかなかった自分。
もしあの「クロウ」という男が現れなければ、自分はどうなっていたのだろうか。
彼女は祈りを中断し、ゆっくりと立ち上がった。そして大聖堂の壁に飾られた、歴代聖女の肖像画を見上げる。どの聖女も慈愛に満ちた穏やかな笑みを浮かべていた。
「……私は、聖女失格ですわ」
リリアーナは誰に言うでもなく、自嘲するように呟いた。
「民の心を癒やすことはできても、その身を脅かす悪意から民を守ることはできない。ただ祈ることしかできない……」
彼女の脳裏に、二人の対照的な少年の姿が浮かび上がった。
一人はカイウス・フォン・グランツ。正義の光そのもののような存在。彼は剣を取り、帝国を脅かす悪と真正面から戦おうとしている。
もう一人はアレン・フォン・ヴァルハイト。悪意と侮蔑の仮面を被り、人を傷つけることを厭わない少年。だが、なぜか彼の影にはいつも「クロウ」の姿が重なって見える。
光と、影。
どちらもそれぞれのやり方で、この帝国の歪みと戦っているのではないか。
ならば自分は?
自分はただ守られ、祈るだけの存在で本当にいいのだろうか。
「……いいえ」
リリアーナは静かに、しかし力強く首を横に振った。
彼女は肖像画に背を向け、大聖堂の出口へと歩き出した。その足取りにはもう迷いはなかった。
「聖なる光は、ただ癒やすためだけにあるのではありません。時には闇を打ち払う力にもなるはずです」
彼女は自分の手のひらを見つめた。そこにはまだ小さな、しかし確かな光の魔力が宿っている。
「私も戦います。この国を、そして私が愛する人々を守るために」
それは聖女としてではない、リリアーナ・フォン・シルフィードという一人の少女が自らの意思で下した、戦う覚悟の表明だった。
彼女は大聖堂を後にすると、まっすぐに王宮へと向かった。
向かう先はカイウスの私室。
彼女は彼に告げるつもりだった。明日の戦い、自分も共に戦場に立つと。後方支援として仲間たちを癒やし、支えるために。
それはカイウスにとって、そして歴史書の筋書きにとって全く予想外の行動だった。聖女は守られるべき存在であり、戦場に出るべきではない。それがこれまでの帝国の常識だったからだ。
リリアーナが王宮の廊下を歩いていると、前からカイウスの側近であるレオナールが慌ただしい様子で歩いてくるのに出くわした。
「レオナール様。カイウス様はご自室に?」
「リリアーナ様。はい、いらっしゃいますが……今は取り込み中でして」
レオナールの顔には深い困惑の色が浮かんでいた。
「先ほどカイウス様の部屋に何者かが侵入したようなのです。ですが、何も盗まれた形跡はなく、ただ一通の手紙が……」
「手紙?」
その時、カイウスの私室の扉が勢いよく開かれた。
中から現れたカイウスは鬼気迫る表情で一枚の羊皮紙を握りしめていた。その顔は青ざめ、その瞳は深い疑念と混乱に揺れていた。
「カイウス様……?」
リリアーナは彼のただならぬ様子に息を呑んだ。
カイウスはリリアーナの姿を認めると、一瞬だけその手紙を隠すように背後に回した。
「……リリアーナ。どうしてここに」
「私は……」
リリアーナが自分の決意を伝えようとした、その時。
カイウスは彼女の言葉を遮るように言った。
「……ちょうどよかった。君にも聞いてほしいことがある」
彼はレオナールとリリアーナを部屋の中へと招き入れた。そして固く扉を閉める。
部屋の中は張り詰めた空気に満ちていた。カイウスはしばらくの間、何かを深く、深く思い悩むように部屋の中を歩き回っていた。
やがて彼は覚悟を決めたように足を止めた。
そして握りしめていた手紙をテーブルの上に置く。
「……これを見てほしい」
リリアーナとレオナールは訝しげにその羊皮紙を覗き込んだ。
そこに記された衝撃的な内容。そして最後に添えられた、カラスの羽根を模した紋章。
「……クロウ……!」
リリアーナは思わずその名を口にしていた。
カイウスは彼女の反応を見て確信した。彼女もまた「クロウ」という存在を深く意識していることを。
「……僕はこれまで、ヴァルハイト家こそがこの国を蝕む最大の悪だと信じてきた」
カイウスは静かに、しかし重々しく語り始めた。
「だが、もしこの手紙が真実だとすれば……我々が本当に戦うべき敵は、全く別の場所にいるのかもしれない」
彼の言葉はリリアーリナの心を強く揺さぶった。
アレン・ヴァルハイト。彼が戦っているという孤独な戦い。それはもしかしたら、この手紙に記された帝国の深い闇と関係があるのではないか。
「私は……」
リリアーナは口を開いた。
「私は戦います、カイウス様。あなたの隣で何が真実で何が偽りなのかを、この目で見届けるために」
彼女の瞳にはもはや迷いはなかった。聖女としての務めと一人の少女としての決意が、一つの強い光となってその瞳の奥で輝いていた。
カイウスはそんな彼女の姿を見て静かに頷いた。
「……ありがとう、リリアーナ。君の光が今の我々には必要だ」
歴史の歯車はまた一つ、大きく軋みを上げて回り始めた。
聖女が戦場に立つ。
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