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第七十四話 決戦前夜
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偽りのクーデターの幕が上がり、ヴァルハイトの軍勢が王都へと進軍を開始した。その報は、瞬く間に帝国中に衝撃となって駆け巡った。俺は、本隊とは別の、秘密のルートで王都へと先行していた。夜の闇に紛れ、セラと共に、俺は決戦の舞台となる王宮の地下へと向かう。
俺の心は、不思議と凪いでいた。父と兄たちとの間に生まれた、予期せぬ絆。それは、孤独な戦いを続けてきた俺にとって、何よりも心強い支えとなっていた。俺はもう、一人ではない。
王都の地下水道。その冷たく湿った闇の中を、俺とセラは音もなく進んでいた。壁を伝う水の音と、俺たちの呼吸だけが、この地下迷宮の静寂を破っている。
「アレン様」
俺の前を、警戒しながら進むセラが、静かに声をかけてきた。
「……本当に、よろしいのですか」
「何がだ」
「ご家族との、和解。それは、アレン様がずっと望んでいたことかもしれません。ですが、その絆が、アレン様の決断を鈍らせる足枷となる可能性も……」
セラの言葉には、俺の身を案じる、深い憂いが込められていた。彼女は、俺が非情な決断を下さなければならない局面で、家族への情に流されることを恐れているのだ。
俺は、足を止めた。そして、暗闇の中で、セラの背中に向かって静かに告げる。
「案ずるな、セラ。俺の覚悟は、揺らいでいない」
俺は、懐から取り出した黒い仮面――クロウの仮面――を、ゆっくりと顔に着けた。
「俺は、アレン・フォン・ヴァルハイトという名を、一度捨てる。この戦いが終わるまで、俺はただの『クロウ』。誰の息子でも、誰の弟でもない。ただ、目的を遂行するためだけの、影だ」
その言葉に、セラは何も答えなかった。だが、その背中から伝わる気配が、わずかに和らいだのを、俺は感じ取った。彼女は、俺の覚悟を、信じてくれたのだ。
俺たちは、王宮の地下、「始祖の祭壇」へと続く、秘密の通路の前にたどり着いた。ここは、ヴァルハイト家に代々口伝でのみ伝えられてきた、緊急用の脱出路の一つだ。
分厚い石の壁に隠された仕掛けを動かすと、ゴゴゴ、と低い音を立てて、壁の一部が横にスライドし、暗い通路が現れた。
「ここから先は、俺一人で行く」
俺は、セラに向き直った。
「お前には、別の役目がある」
「ですが、アレン様の護衛は……!」
「これは命令だ、セラ」
俺の声は、有無を言わせぬ響きを持っていた。
「お前は、地上へ戻れ。そして、王宮の周辺で、俺の合図を待て。もし、万が一、俺の計画が失敗した場合……その時は、お前が最後の切り札となれ」
俺は、彼女に小さな羊皮紙の巻物を手渡した。そこには、俺が考えうる、最悪の事態を想定した、次なる一手、プランBが記されている。
「……必ず、ご無事でお戻りください」
セラは、巻物を固く握りしめ、その紫の瞳に強い決意を宿らせて、頷いた。
「ああ。約束する」
俺は、彼女の頭を、ポンと軽く叩いた。
「必ず、生きて帰る。そして、お前が淹れた紅茶を飲む。……俺たちの戦いが、全て終わった後でな」
それは、俺たちの間で交わされた、初めての、そして最後の約束だったかもしれない。
セラは、一礼すると、音もなく地下水道の闇へとその姿を消した。
一人残された俺は、仮面の位置を直し、覚悟を固めて、秘密の通路の奥へと足を踏み入れた。
通路の先は、古代の魔法によって守られた、荘厳な空間だった。始祖の祭壇。
そこは、巨大なドーム状の地下神殿だった。天井には、夜空を模した魔法の光が瞬き、壁には、帝国の創生神話を描いたと思われる、色鮮やかなフレスコ画が並んでいる。
そして、その中央。黒曜石を切り出して作られた、巨大な祭壇が鎮座していた。その上には、何も置かれていない。だが、祭壇そのものから、微弱だが、計り知れないほどの強大な魔力が、絶えず放たれているのが感じられた。
ここが、『光の鍵』が封印されている場所。
俺は、祭壇の近くにある、巨大な柱の影に身を潜めた。そして、息を殺し、気配を完全に消し去り、ただひたすらに、獲物が現れるのを待った。
どれくらいの時間が、過ぎただろうか。
遠く、地上から、戦いの始まりを告げる角笛の音が、微かに響いてきた。父の、そして兄たちの戦いが、始まったのだ。
そして、その音を合図にするかのように、俺が潜むこの地下神殿にも、変化が訪れた。
俺が侵入してきた通路とは、反対側の壁。そこが、静かに、そして音もなく、開いたのだ。
現れたのは、黒いローブをまとった、数人の人影だった。彼らの動きは、セラのそれに匹敵するほど洗練されており、ただ者ではないことが一目で分かった。
「黄昏の蛇」。奴らが、ついに姿を現した。
彼らは、周囲を警戒しながら、ゆっくりと祭壇へと近づいてくる。
俺は、柱の影から、その一人一人の特徴を、脳裏に焼き付けていった。身長、体格、歩き方、そして、かすかに漏れ聞こえる声。
だが、彼らの中に、俺が想定していた「首魁」らしき人物の姿は、なかった。彼らは、あくまで先遣隊。露払いに過ぎない。
(……まだだ。まだ、動く時ではない)
俺は、逸る心を抑え、さらに深く、影の中へと意識を沈めた。
やがて、先遣隊の一人が、祭壇の前で何らかの合図を送った。
すると、彼らが現れた通路の奥から、ついに、その人物が姿を現した。
その人物を見た瞬間、俺は息を呑んだ。
それは、俺の予測を、完全に裏切る人物だった。
いや、心のどこかで、最悪の可能性として、予測していたのかもしれない。
穏やかな笑みを浮かべ、慈愛に満ちたその姿。
聖教会において、聖女リリアーナの後見人であり、帝国中の民から、生き神のように崇められている、最高位の聖職者。
枢機卿アウグストゥス。
その彼が、なぜ、こんな場所に。
俺の脳裏で、父が残した謎と、俺自身の疑念が、一つの悍(おぞ)ましい答えとなって結びついた。
もう一人の蛇。
学園に潜む、最後の裏切り者。
その正体は、俺が考えていたよりも、遥かに深く、そして絶望的な場所に、潜んでいたのだ。
俺は、柱の影の中で、静かに、そして激しい怒りと共に、その名を呟いた。
「……そうか。お前だったのか」
決戦前夜は、終わった。
今、この瞬間から、帝国の、そして俺の運命を懸けた、本当の戦いが始まる。
俺の心は、不思議と凪いでいた。父と兄たちとの間に生まれた、予期せぬ絆。それは、孤独な戦いを続けてきた俺にとって、何よりも心強い支えとなっていた。俺はもう、一人ではない。
王都の地下水道。その冷たく湿った闇の中を、俺とセラは音もなく進んでいた。壁を伝う水の音と、俺たちの呼吸だけが、この地下迷宮の静寂を破っている。
「アレン様」
俺の前を、警戒しながら進むセラが、静かに声をかけてきた。
「……本当に、よろしいのですか」
「何がだ」
「ご家族との、和解。それは、アレン様がずっと望んでいたことかもしれません。ですが、その絆が、アレン様の決断を鈍らせる足枷となる可能性も……」
セラの言葉には、俺の身を案じる、深い憂いが込められていた。彼女は、俺が非情な決断を下さなければならない局面で、家族への情に流されることを恐れているのだ。
俺は、足を止めた。そして、暗闇の中で、セラの背中に向かって静かに告げる。
「案ずるな、セラ。俺の覚悟は、揺らいでいない」
俺は、懐から取り出した黒い仮面――クロウの仮面――を、ゆっくりと顔に着けた。
「俺は、アレン・フォン・ヴァルハイトという名を、一度捨てる。この戦いが終わるまで、俺はただの『クロウ』。誰の息子でも、誰の弟でもない。ただ、目的を遂行するためだけの、影だ」
その言葉に、セラは何も答えなかった。だが、その背中から伝わる気配が、わずかに和らいだのを、俺は感じ取った。彼女は、俺の覚悟を、信じてくれたのだ。
俺たちは、王宮の地下、「始祖の祭壇」へと続く、秘密の通路の前にたどり着いた。ここは、ヴァルハイト家に代々口伝でのみ伝えられてきた、緊急用の脱出路の一つだ。
分厚い石の壁に隠された仕掛けを動かすと、ゴゴゴ、と低い音を立てて、壁の一部が横にスライドし、暗い通路が現れた。
「ここから先は、俺一人で行く」
俺は、セラに向き直った。
「お前には、別の役目がある」
「ですが、アレン様の護衛は……!」
「これは命令だ、セラ」
俺の声は、有無を言わせぬ響きを持っていた。
「お前は、地上へ戻れ。そして、王宮の周辺で、俺の合図を待て。もし、万が一、俺の計画が失敗した場合……その時は、お前が最後の切り札となれ」
俺は、彼女に小さな羊皮紙の巻物を手渡した。そこには、俺が考えうる、最悪の事態を想定した、次なる一手、プランBが記されている。
「……必ず、ご無事でお戻りください」
セラは、巻物を固く握りしめ、その紫の瞳に強い決意を宿らせて、頷いた。
「ああ。約束する」
俺は、彼女の頭を、ポンと軽く叩いた。
「必ず、生きて帰る。そして、お前が淹れた紅茶を飲む。……俺たちの戦いが、全て終わった後でな」
それは、俺たちの間で交わされた、初めての、そして最後の約束だったかもしれない。
セラは、一礼すると、音もなく地下水道の闇へとその姿を消した。
一人残された俺は、仮面の位置を直し、覚悟を固めて、秘密の通路の奥へと足を踏み入れた。
通路の先は、古代の魔法によって守られた、荘厳な空間だった。始祖の祭壇。
そこは、巨大なドーム状の地下神殿だった。天井には、夜空を模した魔法の光が瞬き、壁には、帝国の創生神話を描いたと思われる、色鮮やかなフレスコ画が並んでいる。
そして、その中央。黒曜石を切り出して作られた、巨大な祭壇が鎮座していた。その上には、何も置かれていない。だが、祭壇そのものから、微弱だが、計り知れないほどの強大な魔力が、絶えず放たれているのが感じられた。
ここが、『光の鍵』が封印されている場所。
俺は、祭壇の近くにある、巨大な柱の影に身を潜めた。そして、息を殺し、気配を完全に消し去り、ただひたすらに、獲物が現れるのを待った。
どれくらいの時間が、過ぎただろうか。
遠く、地上から、戦いの始まりを告げる角笛の音が、微かに響いてきた。父の、そして兄たちの戦いが、始まったのだ。
そして、その音を合図にするかのように、俺が潜むこの地下神殿にも、変化が訪れた。
俺が侵入してきた通路とは、反対側の壁。そこが、静かに、そして音もなく、開いたのだ。
現れたのは、黒いローブをまとった、数人の人影だった。彼らの動きは、セラのそれに匹敵するほど洗練されており、ただ者ではないことが一目で分かった。
「黄昏の蛇」。奴らが、ついに姿を現した。
彼らは、周囲を警戒しながら、ゆっくりと祭壇へと近づいてくる。
俺は、柱の影から、その一人一人の特徴を、脳裏に焼き付けていった。身長、体格、歩き方、そして、かすかに漏れ聞こえる声。
だが、彼らの中に、俺が想定していた「首魁」らしき人物の姿は、なかった。彼らは、あくまで先遣隊。露払いに過ぎない。
(……まだだ。まだ、動く時ではない)
俺は、逸る心を抑え、さらに深く、影の中へと意識を沈めた。
やがて、先遣隊の一人が、祭壇の前で何らかの合図を送った。
すると、彼らが現れた通路の奥から、ついに、その人物が姿を現した。
その人物を見た瞬間、俺は息を呑んだ。
それは、俺の予測を、完全に裏切る人物だった。
いや、心のどこかで、最悪の可能性として、予測していたのかもしれない。
穏やかな笑みを浮かべ、慈愛に満ちたその姿。
聖教会において、聖女リリアーナの後見人であり、帝国中の民から、生き神のように崇められている、最高位の聖職者。
枢機卿アウグストゥス。
その彼が、なぜ、こんな場所に。
俺の脳裏で、父が残した謎と、俺自身の疑念が、一つの悍(おぞ)ましい答えとなって結びついた。
もう一人の蛇。
学園に潜む、最後の裏切り者。
その正体は、俺が考えていたよりも、遥かに深く、そして絶望的な場所に、潜んでいたのだ。
俺は、柱の影の中で、静かに、そして激しい怒りと共に、その名を呟いた。
「……そうか。お前だったのか」
決戦前夜は、終わった。
今、この瞬間から、帝国の、そして俺の運命を懸けた、本当の戦いが始まる。
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