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第九十七話 英雄の帰還
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王都の喧騒を背に、俺とセラを乗せた馬は慣れ親しんだ西への街道をひた走っていた。背後で急速に小さくなっていく帝都のシルエット。それは俺が捨て去った過去の象...象徴のようでもあった。
長かった。本当に、長い戦いだった。
処刑台の悪夢にうなされた十歳のあの日から、俺の人生は常に死と隣り合わせの綱渡りだった。悪役の仮面を被り、孤独の中で牙を研ぎ、誰にも理解されずに戦い続けた日々。父との確執、兄たちとの断絶、そしてカイウスやリリアーナとの歪で奇妙な関係。
その全てが今、一つの結末を迎えた。
俺は運命に勝ったのだ。
「……アレン様」
隣を走るセラが静かに俺の名を呼んだ。その声には俺の心の揺らぎを感じ取ったかのような、かすかな気遣いが含まれている。
「……何でもない」
俺は短く答え、馬の速度を上げた。
感傷に浸っている場合ではない。俺には帰るべき場所がある。俺を待っている者たちがいる。その事実だけが空っぽになりかけた俺の心を、温かいもので満たしてくれていた。
数日間の旅路の果て、地平線の彼方に、見慣れた風景が広がり始めた。赤茶けた大地、ごつごつとした岩肌の丘。そしてその中心で、空に向かって力強く羽根を回す巨大な風車。
ロヴェルトの地。
俺の王国。
村の見張り台に立っていた若者が俺たちの姿に気づき、慌てて鐘を鳴らし始めた。カーン、カーンという甲高い音が穏やかな昼下がりの空に響き渡る。それは領主の帰還を告げる歓迎の音色だった。
俺たちが村の入り口にたどり着く頃には、村中の人々が仕事の手を止めて集まってきていた。
そして俺が馬から降りた瞬間。
「「「うおおおおおおおおっ!!」」」
大地を揺るがすほどの熱狂的な歓声が、俺たちを包み込んだ。
「領主様だ! 領主様がお帰りになったぞ!」
「おかえりなさいませ、アレン様!」
「俺たちの英雄だ!」
老人たちは涙を流して俺の名を呼び、女たちは花を投げ、子供たちは目を輝かせて俺を見上げている。その熱気は王都でカイウスに向けられていたどんな喝采よりも、遥かに温かく、そして力強いものだった。
村のまとめ役となっていた、かつての自警団のリーダーが人垣をかき分けて俺の前に進み出た。その顔には深い信頼と心からの喜びが満ち溢れている。
「お帰りなさいませ、アレン様。ご無事のご帰還、心よりお待ちしておりました」
「ああ、ただいま」
俺は照れ臭さを隠すように短く答えた。
「村の様子は、どうだ」
「はっ! 全てアレン様が残してくださった計画書通りに! ご覧ください!」
男が誇らしげに指し示した先には、俺が旅立つ前とは比較にならないほど発展した村の姿があった。
風車は二基に増設され、その動力を使って新しい鍛冶場や製粉所が活気に満ちている。畑はさらに広がり、塩土芋や浄土豆だけでなく、いくつかの新しい作物の試験栽培も始まっていた。家々は修繕され、村の中心には小さな市場まで開かれている。
そして何より、そこに住む人々の顔つきが全く違っていた。誰もが自信に満ち、自分たちの手でこの村を豊かにしているという確かな誇りをその目に宿していた。
「……見事だ。よくやってくれた」
俺のその一言に、村人たちはまるで自分のことのように嬉しそうな歓声を上げた。
その夜、村では俺の帰還を祝うささやかな宴が開かれた。
広場の中央には大きな焚き火が焚かれ、その周りを村人たちが囲んでいる。テーブルには採れたての芋や豆を使った素朴な料理と、自分たちで醸造した果実酒が並んでいた。王宮の舞踏会のような煌びやかさはない。だが、ここには王宮のどこを探しても見つからない本物の笑顔と温もりがあった。
俺は村の長老たちに勧められるまま、木の杯に注がれた果実酒を呷った。甘酸っぱく、少し土臭いその味はどんな高級なワインよりも俺の体に染み渡った。
子供たちが俺の周りに集まってきて、王都での英雄譚をせがむ。俺は困り果てながらも彼らにせがまれるまま、少しだけ脚色した武勇伝を語って聞かせた。俺の話に子供たちは目を輝かせ、大人たちは誇らしげに頷いている。
セラはそんな俺たちの輪から少し離れた場所で、村の女たちに囲まれていた。彼女たちはセラの手を取り、口々にお礼を言っている。俺が留守の間、セラが影からこの村を守ってくれていたことを彼らは知っていたのだ。セラの無表情な仮面が、ほんの少しだけ和らいでいるように見えた。
宴が最高潮に達した頃、誰かが楽器を奏で始め村人たちは輪になって踊り始めた。その素朴で力強い踊りの輪の中に、俺も、そしてセラも、いつの間にか引き込まれていた。
最初は戸惑っていた俺も彼らの心からの歓迎の空気に、自然と体が動いていた。
俺は笑っていた。
心の底から。何の仮面も被らずに、ただ一人の人間として。
その自分の感情に、俺自身が一番驚いていたのかもしれない。
宴が終わり、人々がそれぞれの家路についた後。
俺は領主の館の自室のバルコニーに出て、静かになった村を見下ろしていた。空には満天の星が宝石のようにきらめいている。
「……アレン様」
背後からセラの声がした。彼女は温かいハーブティーの入ったカップを二つ、盆に乗せて持ってきた。
「眠れんのか」
「あなた様こそ」
俺たちは何も言わずにカップを受け取った。温かい湯気が夜の冷たい空気に溶けていく。
俺たちの間に穏やかな沈黙が流れた。それはもはや気まずいものではなく、互いの存在を確かめ合うような心地よい静寂だった。
「……良い場所ですね。ここは」
セラがぽつりと呟いた。
「ああ。俺の王国だ」
俺は星空の下に広がるこの愛おしい風景を目に焼き付けた。
畑も、風車も、あの家々の灯りも、そしてそこに住む人々の笑顔も。その全てが俺が血と嘘と裏切りの中で、命を懸けて守り抜いた宝物だった。
この平和を俺は二度と手放さない。
そのためならば俺は再び、どんな戦いにでも身を投じるだろう。
俺は静かに、しかし強く心に誓った。
「ありがとう、セラ」
俺は隣に立つ少女に静かに言った。
「お前がいなければ俺は、この景色を見ることはできなかった」
セラは何も答えなかった。
だが月明かりに照らされたその横顔には、俺が今まで見た中で最も美しい、穏やかな微笑みが浮かんでいた。
英雄の帰還。
それは新たな戦いの始まりを告げる狼煙ではなく、ただ心安らぐ、穏やかな夜の訪れを告げているだけだった。
長かった。本当に、長い戦いだった。
処刑台の悪夢にうなされた十歳のあの日から、俺の人生は常に死と隣り合わせの綱渡りだった。悪役の仮面を被り、孤独の中で牙を研ぎ、誰にも理解されずに戦い続けた日々。父との確執、兄たちとの断絶、そしてカイウスやリリアーナとの歪で奇妙な関係。
その全てが今、一つの結末を迎えた。
俺は運命に勝ったのだ。
「……アレン様」
隣を走るセラが静かに俺の名を呼んだ。その声には俺の心の揺らぎを感じ取ったかのような、かすかな気遣いが含まれている。
「……何でもない」
俺は短く答え、馬の速度を上げた。
感傷に浸っている場合ではない。俺には帰るべき場所がある。俺を待っている者たちがいる。その事実だけが空っぽになりかけた俺の心を、温かいもので満たしてくれていた。
数日間の旅路の果て、地平線の彼方に、見慣れた風景が広がり始めた。赤茶けた大地、ごつごつとした岩肌の丘。そしてその中心で、空に向かって力強く羽根を回す巨大な風車。
ロヴェルトの地。
俺の王国。
村の見張り台に立っていた若者が俺たちの姿に気づき、慌てて鐘を鳴らし始めた。カーン、カーンという甲高い音が穏やかな昼下がりの空に響き渡る。それは領主の帰還を告げる歓迎の音色だった。
俺たちが村の入り口にたどり着く頃には、村中の人々が仕事の手を止めて集まってきていた。
そして俺が馬から降りた瞬間。
「「「うおおおおおおおおっ!!」」」
大地を揺るがすほどの熱狂的な歓声が、俺たちを包み込んだ。
「領主様だ! 領主様がお帰りになったぞ!」
「おかえりなさいませ、アレン様!」
「俺たちの英雄だ!」
老人たちは涙を流して俺の名を呼び、女たちは花を投げ、子供たちは目を輝かせて俺を見上げている。その熱気は王都でカイウスに向けられていたどんな喝采よりも、遥かに温かく、そして力強いものだった。
村のまとめ役となっていた、かつての自警団のリーダーが人垣をかき分けて俺の前に進み出た。その顔には深い信頼と心からの喜びが満ち溢れている。
「お帰りなさいませ、アレン様。ご無事のご帰還、心よりお待ちしておりました」
「ああ、ただいま」
俺は照れ臭さを隠すように短く答えた。
「村の様子は、どうだ」
「はっ! 全てアレン様が残してくださった計画書通りに! ご覧ください!」
男が誇らしげに指し示した先には、俺が旅立つ前とは比較にならないほど発展した村の姿があった。
風車は二基に増設され、その動力を使って新しい鍛冶場や製粉所が活気に満ちている。畑はさらに広がり、塩土芋や浄土豆だけでなく、いくつかの新しい作物の試験栽培も始まっていた。家々は修繕され、村の中心には小さな市場まで開かれている。
そして何より、そこに住む人々の顔つきが全く違っていた。誰もが自信に満ち、自分たちの手でこの村を豊かにしているという確かな誇りをその目に宿していた。
「……見事だ。よくやってくれた」
俺のその一言に、村人たちはまるで自分のことのように嬉しそうな歓声を上げた。
その夜、村では俺の帰還を祝うささやかな宴が開かれた。
広場の中央には大きな焚き火が焚かれ、その周りを村人たちが囲んでいる。テーブルには採れたての芋や豆を使った素朴な料理と、自分たちで醸造した果実酒が並んでいた。王宮の舞踏会のような煌びやかさはない。だが、ここには王宮のどこを探しても見つからない本物の笑顔と温もりがあった。
俺は村の長老たちに勧められるまま、木の杯に注がれた果実酒を呷った。甘酸っぱく、少し土臭いその味はどんな高級なワインよりも俺の体に染み渡った。
子供たちが俺の周りに集まってきて、王都での英雄譚をせがむ。俺は困り果てながらも彼らにせがまれるまま、少しだけ脚色した武勇伝を語って聞かせた。俺の話に子供たちは目を輝かせ、大人たちは誇らしげに頷いている。
セラはそんな俺たちの輪から少し離れた場所で、村の女たちに囲まれていた。彼女たちはセラの手を取り、口々にお礼を言っている。俺が留守の間、セラが影からこの村を守ってくれていたことを彼らは知っていたのだ。セラの無表情な仮面が、ほんの少しだけ和らいでいるように見えた。
宴が最高潮に達した頃、誰かが楽器を奏で始め村人たちは輪になって踊り始めた。その素朴で力強い踊りの輪の中に、俺も、そしてセラも、いつの間にか引き込まれていた。
最初は戸惑っていた俺も彼らの心からの歓迎の空気に、自然と体が動いていた。
俺は笑っていた。
心の底から。何の仮面も被らずに、ただ一人の人間として。
その自分の感情に、俺自身が一番驚いていたのかもしれない。
宴が終わり、人々がそれぞれの家路についた後。
俺は領主の館の自室のバルコニーに出て、静かになった村を見下ろしていた。空には満天の星が宝石のようにきらめいている。
「……アレン様」
背後からセラの声がした。彼女は温かいハーブティーの入ったカップを二つ、盆に乗せて持ってきた。
「眠れんのか」
「あなた様こそ」
俺たちは何も言わずにカップを受け取った。温かい湯気が夜の冷たい空気に溶けていく。
俺たちの間に穏やかな沈黙が流れた。それはもはや気まずいものではなく、互いの存在を確かめ合うような心地よい静寂だった。
「……良い場所ですね。ここは」
セラがぽつりと呟いた。
「ああ。俺の王国だ」
俺は星空の下に広がるこの愛おしい風景を目に焼き付けた。
畑も、風車も、あの家々の灯りも、そしてそこに住む人々の笑顔も。その全てが俺が血と嘘と裏切りの中で、命を懸けて守り抜いた宝物だった。
この平和を俺は二度と手放さない。
そのためならば俺は再び、どんな戦いにでも身を投じるだろう。
俺は静かに、しかし強く心に誓った。
「ありがとう、セラ」
俺は隣に立つ少女に静かに言った。
「お前がいなければ俺は、この景色を見ることはできなかった」
セラは何も答えなかった。
だが月明かりに照らされたその横顔には、俺が今まで見た中で最も美しい、穏やかな微笑みが浮かんでいた。
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