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第九十九話 故郷へ
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リリアーナがロヴェルトの地を訪れてから数日が過ぎた。彼女はすぐに王都へ戻るかと思われたが、「この村の子供たちに、文字や聖教会の教えを伝えたい」という名目で俺の領地に滞在し続けることになった。
村人たちは生き神のような聖女様の突然の来訪に最初は恐縮しきっていたが、彼女の分け隔てない慈愛に満ちた人柄に触れるうちにすぐに心を開いていった。村の小さな集会所は彼女が開く臨時の寺子屋となり、子供たちの明るい笑い声と彼女の優しい歌声が毎日響き渡るようになった。
俺と彼女の関係もまた大きく変わっていた。
俺たちはもう互いに仮面を被ることはなかった。二人きりになると、俺はこれまでの戦いの真実を、彼女は聖女としての苦悩を、少しずつ、しかし素直に語り合うようになった。それは俺にとって初めて経験する魂の深い部分での繋がりだった。
セラはそんな俺たちの様子を少し離れた場所から複雑な表情で見守っていた。その紫の瞳には嫉妬とも安堵ともつかない奇妙な色が浮かんでいたが、彼女は決して俺たちの時間を邪魔しようとはしなかった。
冬が終わり、春の訪れを告げる暖かい風が吹き始めた頃、俺の元に一通の手紙が届いた。
差出人はヴァルハイト家の新たな当主となった長兄ゲオルグからだった。
手紙には簡潔に、しかし兄らしい無骨な言葉でこう記されていた。
『父上が、お前に会いたがっておられる。一度、故郷へ帰ってこい』
故郷。
父ジークフリートが隠居生活を送るヴァルハイト家発祥の地。
俺は、その手紙を握りしめ遠い北の空を見上げた。
父と最後に会ったのは、あの爵位継承の儀の時。彼が俺に「我が誇りだ」と言ってくれたあの日以来だった。
「……行こうか」
俺は隣にいたリリアーナとセラに静かに告げた。
それは俺の最後の戦後処理。
俺を縛り付けていたヴァルハイト家という血の宿命との、本当の意味での和解を果たすための旅の始まりだった。
数週間後。俺たちはヴァルハイト家の本領地、峻厳な山々に囲まれた古い城砦都市へとたどり着いた。ここはロヴェルトの地のような素朴さはない。だが、武門の名家としての質実剛健な気風と長い歴史の重みが街の隅々にまで満ちていた。
人々は俺の姿を認めると、驚きと畏敬の念が入り混じった表情で道を開けた。俺があの大事件の影の立役者の一人であるという噂は、この故郷の地にもすでに届いていたのだ。
俺たちが丘の上にそびえる古い城へと向かうと、その門の前で父ジークフリートが一人で俺たちを待っていた。
彼はもはや公爵の豪奢な衣装ではなく、一人の武人としての簡素な革鎧を身に着けていた。その顔には以前のような険しさはなく、厳しい冬を越えた古木のような穏やかで深い静けさが宿っている。
「……来たか、アレン」
父は静かに言った。その声はかつて俺を震え上がらせた絶対者のそれとは全く違っていた。
「そして、聖女様も。ようこそ、ヴァルハイトの地へ」
彼はリリアーナに向かって深く頭を下げた。
俺は父に導かれ、城の中庭へと入った。そこには小さな墓石が一つだけ、ぽつんと立てられていた。
「……母上の墓だ」
父は墓石を愛おしそうに撫でながら言った。
「俺は、お前が生まれた時誓ったのだ。この子だけはヴァルハイトの血塗られた宿命から守り抜いてみせると。だが、俺は間違っていた。お前は俺が思うよりも遥かに強く、そして気高い魂を持っていた。お前は守られるべき存在ではなく、自らの手で運命を切り拓く者だったのだ」
父はゆっくりと振り返った。そして俺の前に立つと、その大きな両腕で俺の体を力強く、そして優しく抱きしめた。
それは俺が生まれて初めて経験する父からの温かい抱擁だった。
ゴツゴツとした鎧の感触。土と鉄と、そして父自身の匂い。
その温もりが俺の心の奥底にまだ残っていた最後の氷の欠片を完全に溶かしていった。
「……よく、やった」
父の震える声が俺の耳元で響いた。
「お前は俺が成し遂げられなかった、ヴァルハイト家の真の悲願を果たしてくれた。……我が誇りだ、アレン」
俺の目から、自分でも気づかないうちに熱いものが流れ落ちていた。
それは悲しみの涙ではなかった。
長かった、本当に長かった戦いがようやく終わり、故郷へと帰ってくることができた安堵の涙だった。
リリアーナはそんな俺たちの姿を優しい微笑みを浮かべて見守っていた。
そして、セラは。
彼女は俺の隣で静かに、本当に静かに微笑んでいた。
その微笑みは俺がこれまで見たどんな笑顔よりも美しく、そして幸せに満ち溢れていた。
その夜。
俺は父と、そして駆けつけてくれたゲオルグ兄上、ベルトルト兄上と共に城の食卓を囲んでいた。
そこにはもはや以前のような冷たい緊張感はなく、ただ一つの家族としての穏やかで温かい時間が流れていた。
俺たちは夜が更けるまで、これまでの戦いを、そしてこれからの未来を語り合った。
ヴァルハイト家は変わるだろう。
いや、俺が変えてみせる。
血塗られた宿命を断ち切り、帝国の影としてではなく帝国の光を支える真の貴族として。
俺の戦いは終わった。
だが、俺の物語はまだ始まったばかりなのだ。
俺は窓の外に広がる故郷の星空を見上げながら、新たな決意を静かに、しかし強く胸に刻んでいた。
村人たちは生き神のような聖女様の突然の来訪に最初は恐縮しきっていたが、彼女の分け隔てない慈愛に満ちた人柄に触れるうちにすぐに心を開いていった。村の小さな集会所は彼女が開く臨時の寺子屋となり、子供たちの明るい笑い声と彼女の優しい歌声が毎日響き渡るようになった。
俺と彼女の関係もまた大きく変わっていた。
俺たちはもう互いに仮面を被ることはなかった。二人きりになると、俺はこれまでの戦いの真実を、彼女は聖女としての苦悩を、少しずつ、しかし素直に語り合うようになった。それは俺にとって初めて経験する魂の深い部分での繋がりだった。
セラはそんな俺たちの様子を少し離れた場所から複雑な表情で見守っていた。その紫の瞳には嫉妬とも安堵ともつかない奇妙な色が浮かんでいたが、彼女は決して俺たちの時間を邪魔しようとはしなかった。
冬が終わり、春の訪れを告げる暖かい風が吹き始めた頃、俺の元に一通の手紙が届いた。
差出人はヴァルハイト家の新たな当主となった長兄ゲオルグからだった。
手紙には簡潔に、しかし兄らしい無骨な言葉でこう記されていた。
『父上が、お前に会いたがっておられる。一度、故郷へ帰ってこい』
故郷。
父ジークフリートが隠居生活を送るヴァルハイト家発祥の地。
俺は、その手紙を握りしめ遠い北の空を見上げた。
父と最後に会ったのは、あの爵位継承の儀の時。彼が俺に「我が誇りだ」と言ってくれたあの日以来だった。
「……行こうか」
俺は隣にいたリリアーナとセラに静かに告げた。
それは俺の最後の戦後処理。
俺を縛り付けていたヴァルハイト家という血の宿命との、本当の意味での和解を果たすための旅の始まりだった。
数週間後。俺たちはヴァルハイト家の本領地、峻厳な山々に囲まれた古い城砦都市へとたどり着いた。ここはロヴェルトの地のような素朴さはない。だが、武門の名家としての質実剛健な気風と長い歴史の重みが街の隅々にまで満ちていた。
人々は俺の姿を認めると、驚きと畏敬の念が入り混じった表情で道を開けた。俺があの大事件の影の立役者の一人であるという噂は、この故郷の地にもすでに届いていたのだ。
俺たちが丘の上にそびえる古い城へと向かうと、その門の前で父ジークフリートが一人で俺たちを待っていた。
彼はもはや公爵の豪奢な衣装ではなく、一人の武人としての簡素な革鎧を身に着けていた。その顔には以前のような険しさはなく、厳しい冬を越えた古木のような穏やかで深い静けさが宿っている。
「……来たか、アレン」
父は静かに言った。その声はかつて俺を震え上がらせた絶対者のそれとは全く違っていた。
「そして、聖女様も。ようこそ、ヴァルハイトの地へ」
彼はリリアーナに向かって深く頭を下げた。
俺は父に導かれ、城の中庭へと入った。そこには小さな墓石が一つだけ、ぽつんと立てられていた。
「……母上の墓だ」
父は墓石を愛おしそうに撫でながら言った。
「俺は、お前が生まれた時誓ったのだ。この子だけはヴァルハイトの血塗られた宿命から守り抜いてみせると。だが、俺は間違っていた。お前は俺が思うよりも遥かに強く、そして気高い魂を持っていた。お前は守られるべき存在ではなく、自らの手で運命を切り拓く者だったのだ」
父はゆっくりと振り返った。そして俺の前に立つと、その大きな両腕で俺の体を力強く、そして優しく抱きしめた。
それは俺が生まれて初めて経験する父からの温かい抱擁だった。
ゴツゴツとした鎧の感触。土と鉄と、そして父自身の匂い。
その温もりが俺の心の奥底にまだ残っていた最後の氷の欠片を完全に溶かしていった。
「……よく、やった」
父の震える声が俺の耳元で響いた。
「お前は俺が成し遂げられなかった、ヴァルハイト家の真の悲願を果たしてくれた。……我が誇りだ、アレン」
俺の目から、自分でも気づかないうちに熱いものが流れ落ちていた。
それは悲しみの涙ではなかった。
長かった、本当に長かった戦いがようやく終わり、故郷へと帰ってくることができた安堵の涙だった。
リリアーナはそんな俺たちの姿を優しい微笑みを浮かべて見守っていた。
そして、セラは。
彼女は俺の隣で静かに、本当に静かに微笑んでいた。
その微笑みは俺がこれまで見たどんな笑顔よりも美しく、そして幸せに満ち溢れていた。
その夜。
俺は父と、そして駆けつけてくれたゲオルグ兄上、ベルトルト兄上と共に城の食卓を囲んでいた。
そこにはもはや以前のような冷たい緊張感はなく、ただ一つの家族としての穏やかで温かい時間が流れていた。
俺たちは夜が更けるまで、これまでの戦いを、そしてこれからの未来を語り合った。
ヴァルハイト家は変わるだろう。
いや、俺が変えてみせる。
血塗られた宿命を断ち切り、帝国の影としてではなく帝国の光を支える真の貴族として。
俺の戦いは終わった。
だが、俺の物語はまだ始まったばかりなのだ。
俺は窓の外に広がる故郷の星空を見上げながら、新たな決意を静かに、しかし強く胸に刻んでいた。
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