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第4話:穏やかな生活の準備
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カーム村で迎える初めての朝は、鳥のさえずりと共にやってきた。
薄汚れた窓ガラスを通して差し込む柔らかな朝日が、俺の顔を照らす。硬い床の上で毛布一枚にくるまって眠ったというのに、体の怠さは不思議と感じなかった。むしろ、ここ数年で最も心地よい目覚めだったかもしれない。
俺はゆっくりと起き上がり、自分の「家」の中を見渡した。
昨日は高揚感で気づかなかったが、改めて見るとひどい有様だ。床には分厚い埃が積もり、壁には蜘蛛の巣がいくつも張られている。部屋の隅に置かれたテーブルは脚が一本折れ、椅子は座面が抜け落ちていた。何年も人が住んでいなかったのだ。当然の状態と言える。
やるべきことは山積みだ。
普通ならうんざりするところだろう。だが俺の口元には、自然と笑みが浮かんでいた。
掃除、修理、そして畑仕事。これから始まる全ては、誰かの命令ではない。生きるため、そして殺すためでもない。ただ、俺自身が穏やかに暮らすための、俺だけの仕事だ。そう思うと、胸の奥から静かな活力が湧き上がってくるのを感じた。
まずは掃除からだ。
俺は袖をまくり、村長から借りたバケツを持って家を出た。村の生活用水は共同の井戸から汲むのが基本だが、オルデン村長は「家の裏手を少し下ったところにある小川の水が一番綺麗だ」と教えてくれていた。
小川のせせらぎに耳を澄ませながら、森の中の小道を進む。長年の経験が、空気の湿度や風向きから最適なルートを導き出す。獣道のように細く、草に覆われた道だったが、俺の足取りに迷いはなかった。やがて、苔むした岩の間を流れる清流にたどり着く。水は水晶のように透き通り、川底の小石の一つ一つまでくっきりと見えた。
水を汲んで家に戻ると、早速掃除に取り掛かった。まずは箒で大まかな埃を掃き出す。俺の動きには一切の無駄がない。体幹を軸に、腰の回転だけで箒を操る。最小限の動きで、最大の範囲を掃き清めていく。体に染みついた、気配を殺して移動するための体捌きが、こんなところで役立つとは思わなかった。
次に雑巾掛けだ。
一見綺麗に見える床板も、俺の目には汚れの濃淡が模様のように見えていた。光の反射角度、木目の僅かな凹凸。そういった微細な情報が、埃の溜まりやすい場所を正確に示している。俺はそこを狙い、的確に力を込めて拭き上げていく。梁の上や棚の裏側といった死角も、まるで最初からそこにあると知っていたかのように、迷いなく綺麗にしていった。
半日も経たないうちに、家の中は見違えるように輝きを取り戻した。埃っぽかった空気は澄み渡り、窓から差し込む光が磨き上げられた床板に反射して、部屋全体を明るく照らしている。
一息つく間もなく、俺は壊れた家具の修理に取り掛かった。
まずは脚の折れたテーブルだ。俺はテーブルをひっくり返し、その構造を数秒間観察した。どこに力がかかり、どの角度で木材を組み合わせれば最も強度が増すか。それは、罠の構造を解体し、無力化する思考と全く同じだった。
森で手頃な太さの枝を拾ってくると、鞘から抜き放った黒いナイフで削り始めた。シャッ、シャッ、と乾いた音がリズミカルに響く。俺の手の中で、ただの枝がみるみるうちに精巧なテーブルの脚へと姿を変えていく。寸法は測っていない。だが俺の目は、既存の三本の脚と寸分の狂いもない形状を完璧に捉えていた。
古い釘穴に新しい脚をはめ込むと、まるで元からそこにあったかのようにぴったりと収まった。楔を打ち込み、完全に固定する。テーブルを起こして体重をかけてみたが、びくともしなかった。
次に椅子の修理だ。こちらは座面が抜け落ちている。
俺は村の共有倉庫から丈夫そうな蔓を数本もらってくると、それを編み込み始めた。指先が、まるで意思を持っているかのように複雑な模様を織りなしていく。これも昔取った杵柄というやつだ。かつては敵を捕らえるための罠を編んだこの技術が、今では自分の尻を支える座面を作るために使われている。皮肉なものだ。
編み上げた座面を椅子の枠にきつく張り、固定する。試しに座ってみると、蔓が適度なしなりを生み出し、驚くほど快適な座り心地だった。
夕暮れが近づき、空が茜色に染まり始める。
家の中の作業は、あらかた片付いた。だが、俺は休もうとは思わなかった。むしろ、心地よい疲労感が次の作業への意欲を掻き立てる。俺は家の裏手にある、雑草だらけの土地へと向かった。俺の畑になる場所だ。
クワを手に取り、固い地面に突き立てる。
ザクリ、と小気味よい音がした。俺は腰を落とし、安定した姿勢でクワを振るい始めた。一振り一振りに体重を乗せ、テコの原理を最大限に利用する。これもまた、剣を振るう動きの応用だった。ただ闇雲に力を込めるのではない。力の流れを読み、最小の労力で最大の効果を得る。
土を掘り起こしながら、俺は地面を注意深く観察した。生えている雑草の種類、土の色、湿り気、そして鼻をつく僅かな匂い。それらの情報から、この土地の性質を分析する。酸性が強い土壌だ。水はけは悪くない。おそらく、根菜類や豆科の植物を育てるのに向いているだろう。潜伏先の環境を瞬時に把握し、最適なサバイバル計画を立てる。その能力が、農作業の計画立案に直結していた。
ただ雑草を抜くこともしない。根が深く張り、土を柔らかくしてくれる草はあえて残す。ミミズが多い場所は、土が豊かである証拠だ。そこを中心に耕していく。自然の摂理に逆らわず、その力を利用する。それもまた、暗殺者が自然に溶け込み、環境を味方につけるための鉄則だった。
陽が完全に沈み、一番星が空に瞬く頃。俺はようやく作業を終えた。
畑と呼ぶにはまだ程遠いが、それでも一角の土地は黒々とした土の顔を覗かせ、いつでも種を受け入れる準備が整っていた。
額の汗を手の甲で拭う。体は鉛のように重かったが、その疲労は不思議と不快ではなかった。むしろ、一日を全力で生き抜いた証しとして、心地よくさえあった。
家に戻り、修理した椅子に腰を下ろす。
小川で汲んできた水を瓢箪から杯に注ぎ、ゆっくりと喉に流し込んだ。
冷たい水が、渇いた体に染み渡っていく。
――美味い。
心の底から、そう思った。
今まで飲んできたどんな高級な葡萄酒よりも、このただの水が美味しく感じられた。
それは、今日一日流した汗の味であり、自分の力で生活を築き上げているという充実感の味だった。
綺麗になった部屋。使えるようになった家具。そして、これから実りをもたらすであろう畑。
全てが、俺自身の手で作り出したものだ。
この確かな手応え。この静かな喜び。俺は四十年間生きてきて、初めてこの感情を知った。
夜空には、満天の星が広がっていた。王都の空とは比べ物にならないほど、一つ一つの星が力強く輝いている。まるで、俺の新たな門出を祝福してくれているかのようだった。
俺はこの星空の下で、生きていく。
誰を殺すでもなく、誰から追われるでもなく。
ただ、一人の人間として。
その決意を胸に刻み、俺は静かに目を閉じた。
穏やかな夜が、俺を優しく包み込んでいた。
薄汚れた窓ガラスを通して差し込む柔らかな朝日が、俺の顔を照らす。硬い床の上で毛布一枚にくるまって眠ったというのに、体の怠さは不思議と感じなかった。むしろ、ここ数年で最も心地よい目覚めだったかもしれない。
俺はゆっくりと起き上がり、自分の「家」の中を見渡した。
昨日は高揚感で気づかなかったが、改めて見るとひどい有様だ。床には分厚い埃が積もり、壁には蜘蛛の巣がいくつも張られている。部屋の隅に置かれたテーブルは脚が一本折れ、椅子は座面が抜け落ちていた。何年も人が住んでいなかったのだ。当然の状態と言える。
やるべきことは山積みだ。
普通ならうんざりするところだろう。だが俺の口元には、自然と笑みが浮かんでいた。
掃除、修理、そして畑仕事。これから始まる全ては、誰かの命令ではない。生きるため、そして殺すためでもない。ただ、俺自身が穏やかに暮らすための、俺だけの仕事だ。そう思うと、胸の奥から静かな活力が湧き上がってくるのを感じた。
まずは掃除からだ。
俺は袖をまくり、村長から借りたバケツを持って家を出た。村の生活用水は共同の井戸から汲むのが基本だが、オルデン村長は「家の裏手を少し下ったところにある小川の水が一番綺麗だ」と教えてくれていた。
小川のせせらぎに耳を澄ませながら、森の中の小道を進む。長年の経験が、空気の湿度や風向きから最適なルートを導き出す。獣道のように細く、草に覆われた道だったが、俺の足取りに迷いはなかった。やがて、苔むした岩の間を流れる清流にたどり着く。水は水晶のように透き通り、川底の小石の一つ一つまでくっきりと見えた。
水を汲んで家に戻ると、早速掃除に取り掛かった。まずは箒で大まかな埃を掃き出す。俺の動きには一切の無駄がない。体幹を軸に、腰の回転だけで箒を操る。最小限の動きで、最大の範囲を掃き清めていく。体に染みついた、気配を殺して移動するための体捌きが、こんなところで役立つとは思わなかった。
次に雑巾掛けだ。
一見綺麗に見える床板も、俺の目には汚れの濃淡が模様のように見えていた。光の反射角度、木目の僅かな凹凸。そういった微細な情報が、埃の溜まりやすい場所を正確に示している。俺はそこを狙い、的確に力を込めて拭き上げていく。梁の上や棚の裏側といった死角も、まるで最初からそこにあると知っていたかのように、迷いなく綺麗にしていった。
半日も経たないうちに、家の中は見違えるように輝きを取り戻した。埃っぽかった空気は澄み渡り、窓から差し込む光が磨き上げられた床板に反射して、部屋全体を明るく照らしている。
一息つく間もなく、俺は壊れた家具の修理に取り掛かった。
まずは脚の折れたテーブルだ。俺はテーブルをひっくり返し、その構造を数秒間観察した。どこに力がかかり、どの角度で木材を組み合わせれば最も強度が増すか。それは、罠の構造を解体し、無力化する思考と全く同じだった。
森で手頃な太さの枝を拾ってくると、鞘から抜き放った黒いナイフで削り始めた。シャッ、シャッ、と乾いた音がリズミカルに響く。俺の手の中で、ただの枝がみるみるうちに精巧なテーブルの脚へと姿を変えていく。寸法は測っていない。だが俺の目は、既存の三本の脚と寸分の狂いもない形状を完璧に捉えていた。
古い釘穴に新しい脚をはめ込むと、まるで元からそこにあったかのようにぴったりと収まった。楔を打ち込み、完全に固定する。テーブルを起こして体重をかけてみたが、びくともしなかった。
次に椅子の修理だ。こちらは座面が抜け落ちている。
俺は村の共有倉庫から丈夫そうな蔓を数本もらってくると、それを編み込み始めた。指先が、まるで意思を持っているかのように複雑な模様を織りなしていく。これも昔取った杵柄というやつだ。かつては敵を捕らえるための罠を編んだこの技術が、今では自分の尻を支える座面を作るために使われている。皮肉なものだ。
編み上げた座面を椅子の枠にきつく張り、固定する。試しに座ってみると、蔓が適度なしなりを生み出し、驚くほど快適な座り心地だった。
夕暮れが近づき、空が茜色に染まり始める。
家の中の作業は、あらかた片付いた。だが、俺は休もうとは思わなかった。むしろ、心地よい疲労感が次の作業への意欲を掻き立てる。俺は家の裏手にある、雑草だらけの土地へと向かった。俺の畑になる場所だ。
クワを手に取り、固い地面に突き立てる。
ザクリ、と小気味よい音がした。俺は腰を落とし、安定した姿勢でクワを振るい始めた。一振り一振りに体重を乗せ、テコの原理を最大限に利用する。これもまた、剣を振るう動きの応用だった。ただ闇雲に力を込めるのではない。力の流れを読み、最小の労力で最大の効果を得る。
土を掘り起こしながら、俺は地面を注意深く観察した。生えている雑草の種類、土の色、湿り気、そして鼻をつく僅かな匂い。それらの情報から、この土地の性質を分析する。酸性が強い土壌だ。水はけは悪くない。おそらく、根菜類や豆科の植物を育てるのに向いているだろう。潜伏先の環境を瞬時に把握し、最適なサバイバル計画を立てる。その能力が、農作業の計画立案に直結していた。
ただ雑草を抜くこともしない。根が深く張り、土を柔らかくしてくれる草はあえて残す。ミミズが多い場所は、土が豊かである証拠だ。そこを中心に耕していく。自然の摂理に逆らわず、その力を利用する。それもまた、暗殺者が自然に溶け込み、環境を味方につけるための鉄則だった。
陽が完全に沈み、一番星が空に瞬く頃。俺はようやく作業を終えた。
畑と呼ぶにはまだ程遠いが、それでも一角の土地は黒々とした土の顔を覗かせ、いつでも種を受け入れる準備が整っていた。
額の汗を手の甲で拭う。体は鉛のように重かったが、その疲労は不思議と不快ではなかった。むしろ、一日を全力で生き抜いた証しとして、心地よくさえあった。
家に戻り、修理した椅子に腰を下ろす。
小川で汲んできた水を瓢箪から杯に注ぎ、ゆっくりと喉に流し込んだ。
冷たい水が、渇いた体に染み渡っていく。
――美味い。
心の底から、そう思った。
今まで飲んできたどんな高級な葡萄酒よりも、このただの水が美味しく感じられた。
それは、今日一日流した汗の味であり、自分の力で生活を築き上げているという充実感の味だった。
綺麗になった部屋。使えるようになった家具。そして、これから実りをもたらすであろう畑。
全てが、俺自身の手で作り出したものだ。
この確かな手応え。この静かな喜び。俺は四十年間生きてきて、初めてこの感情を知った。
夜空には、満天の星が広がっていた。王都の空とは比べ物にならないほど、一つ一つの星が力強く輝いている。まるで、俺の新たな門出を祝福してくれているかのようだった。
俺はこの星空の下で、生きていく。
誰を殺すでもなく、誰から追われるでもなく。
ただ、一人の人間として。
その決意を胸に刻み、俺は静かに目を閉じた。
穏やかな夜が、俺を優しく包み込んでいた。
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―・―・―・―・―・―・―・―
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※「小説家になろう」「カクヨム」「アルファポリス」に同内容のものを投稿しています。
※この作品以外にもいろいろと小説を投稿しています。よろしければそちらもご覧ください。
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