「お前の戦い方は地味すぎる」とギルドをクビになったおっさん、その正体は大陸を震撼させた伝説の暗殺者。

夏見ナイ

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第32話:忍び寄る本当の影

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セレスティアの中で何かが変わり始めた翌日。
彼女は俺に対する態度を微妙に変化させた。以前のような執拗な監視は影を潜め、代わりに俺の日常に自然に溶け込もうと試み始めたのだ。

「…先輩。そのクワの角度は効率が悪い。もう少し腰を落として体幹で振るべきよ」
「師匠! この人も師匠の技を盗もうとしています! 私の一番弟子としての立場が危ういです!」
「黙りなさい、小娘。私は合理的な指摘をしているだけ」

畑にはリリアとセレスティアの言い争う声が響くようになった。俺の胃痛の種が一つ増えただけとも言えるが、セレスティアから感じていた刺々しいプレッシャーが和らいだのは確かだった。

その日の午後、俺が家の軒先で昼寝をしていると、セレスティアが静かに隣に座った。その顔にはいつもの無表情とは違う、僅かな緊張の色が浮かんでいた。

「…先輩。少し耳に入れておきたい情報があります」
俺は目を開けずに返事だけした。
「お前たちの組織の話なら聞く気はないぞ」
「いいえ、違います。あなた自身の、そしてこの村の平穏に関わる話です」

その言葉に、俺はゆっくりと目を開けた。
セレスティアは声を潜めて続けた。
「『黄昏の蛇』。…その名を覚えていますか?」

その名を聞いた瞬間、俺の全身の空気が変わった。
穏やかな昼下がりの空気は凍りつき、俺の瞳の奥に自分でも気づかないうちに冷たい光が宿っていた。

黄昏の蛇。
忘れるはずがない。
彼らはただの暗殺者ギルドではなかった。金のためならどんな非道な手段も厭わない外道の集まりだ。人体実験、無差別な毒物の散布、村一つを丸ごと人質に取るような真似も平気でやってのける。
俺がいた組織とは思想も美学も何もかもが正反対だった。俺が「影」として静かに仕事をこなすのに対し、彼らは「絶望」を振りまくことを喜びとしていた。

十年以上前、俺は自分の意志で組織の命令を無視して彼らを壊滅させた。それは俺が“神の影”として行った、最後の、そして唯一の「私的な」仕事だった。

「…奴らは俺が潰したはずだ」
「首領は。ですが、残党がいたのです。彼らは十年かけて力を蓄え、最近この地方で再び活動を始めたという情報があります」

セレスティアは淡々と事実だけを告げた。
「彼らの目的はまだ不明です。ですが、先輩。奴らがもしあなたの生存を知ったら…どうなると思いますか?」

答えは聞くまでもなかった。
彼らにとって、俺は組織を壊滅させた不倶戴天の敵だ。復讐のためならどんな手段も使ってくるだろう。そして、彼らが最も得意とする手段は、相手の最も大切なものを最も残酷なやり方で奪うことだ。

俺の大切なもの。
それはこのカーム村の平穏な日常に他ならない。

「……」
俺は黙り込んだ。
胸の奥で黒い感情が渦巻くのを感じた。それは長い間忘れていた、冷たい怒りの感情だった。

セレスティアはそんな俺の様子を静かに見つめていた。
「先輩。だからこそ組織に戻るべきです。私たちが全力であなたとこの村を守ります」
「断る」
俺は即答していた。
「これは俺の問題だ。お前たちを巻き込むわけにはいかん」

それに、俺はもはや組織の人間ではない。
彼らの力を借りるということは、再びあの世界に足を踏み入れるということだ。それだけは絶対にできなかった。

「ですが!」
「それに、まだ奴らがこの村に来ると決まったわけじゃないだろう。ただの杞憂かもしれん」
俺は自分に言い聞かせるように言った。
そうであってほしい、という願望も込めて。
俺はもう血の匂いを嗅ぎたくなかった。ましてや、この穏やかな村にその匂いを持ち込みたくはなかった。

セレスティアは俺の頑なな態度に、それ以上何も言わなかった。
ただ、その紫の瞳には深い憂慮の色が浮かんでいた。
彼女は俺が思っている以上に事態が深刻であることを知っていたのだ。彼女の情報網は既に「黄昏の蛇」の斥候が、このカーム村周辺に出没していることを掴んでいた。だが、今の俺にそれを言っても反発を招くだけだと判断したのだろう。

その日の夕食は重い沈黙の中で過ぎていった。
リリアだけが何も知らずに「師匠、今日のスープはいつもより少し塩辛いですね!」と無邪気に笑っていた。

夜、俺は一人、縁側で月を眺めていた。
セレスティアがもたらした情報は、俺の心に重い影を落としていた。

黄昏の蛇。
その名がまるで呪いのように頭から離れない。
奴らは必ず来る。
俺の平穏を根こそぎ奪い去るために。

俺は自分の手のひらを見つめた。
この手はもう人を殺すための手ではない。土を耕し、物を作るための手だ。そう信じてきた。
だが、本当に守るべきものができた時、俺はこの手を再び血で汚す覚悟があるのだろうか。

静かな夜だった。
虫の声だけがやけに大きく聞こえる。
だが、俺の耳にはその音に混じって、遥か遠くから忍び寄ってくる不吉な足音が聞こえているような気がした。

それは俺が捨てたはずの過去の亡霊。
そして、この村に迫り来る本当の影の足音だった。
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