「お前の戦い方は地味すぎる」とギルドをクビになったおっさん、その正体は大陸を震撼させた伝説の暗殺者。

夏見ナイ

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第34話:最初の接触

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黄昏の蛇の斥候は、実にしつこかった。
俺が手鏡で監視を始めてから丸一日。男は場所を少しずつ変えながらも、常に村から一定の距離を保ち、執拗に内部の様子を窺い続けていた。その動きは獲物の周りを旋回する禿鷹を思わせた。

(素人同然だが、根気だけはあるらしいな)

俺は内心で悪態をつきながら、いつも通りの日常を演じ続けた。畑を耕し、リリアの相手をし、セレスティアの皮肉を聞き流す。斥候の存在など全く気づいていないかのように。

セレスティアも俺の意図を汲んでか、表立った行動は起こさなかった。だが、彼女の気配は常に研ぎ澄まされ、斥候の動きを完璧に捕捉しているのが分かった。リリアだけは何も知らずに、「師匠! 今日も修行、頑張ります!」と元気にクワを振るっている。この無邪気さが今の俺には唯一の救いだった。

事態が動いたのは二日目の夜だった。
月が雲に隠れ、村が深い闇に包まれた刻。俺は寝床で浅い眠りについていたが、僅かな物音一つで意識を覚醒させた。

耳を澄ます。
風の音に混じって聞こえる微かな衣擦れの音。そして、草を踏む不自然に慎重な足音。
斥候が動いた。
しかも一人ではない。気配は三つ。どうやら仲間を呼び寄せたらしい。

俺は音もなく寝床から起き上がると、窓の隙間から外の様子を窺った。
闇夜に紛れて移動する三つの人影が、俺の家の方向ではなく、村の中心部、共同井戸のある広場へと向かっているのが見えた。

(井戸…だと?)

その瞬間、俺の脳裏に最悪の可能性が閃いた。
黄昏の蛇が最も得意とする手口。毒だ。
村人たちが使う共同の井戸に毒を盛れば、村一つを壊滅させることなど造作もない。しかも誰がやったのか分からぬまま、人々は苦しみながら死んでいく。奴らが好みそうな陰湿で残虐なやり方だった。

俺の全身の血が急速に冷えていくのを感じた。
村人たちの顔が次々と脳裏に浮かんだ。
いつも優しい笑顔をくれるイーニッドさん。豪快に笑うドルガン。腕白なティム。そして、俺を師と慕うリリア。
彼らが苦悶の表情で倒れる姿を想像してしまい、腹の底から黒い怒りが湧き上がってきた。

(…許さん)

気づけば俺は物置に置いていた、あの黒いナイフを手に取っていた。
冷たい鉄の感触が手のひらに馴染む。
十年ぶりにこのナイフが血を求めるのを感じた。

だが、俺はかろうじて理性を保った。
ここで奴らを殺せば事態はさらに悪化する。斥候部隊が全滅したとなれば、黄昏の蛇は間違いなく本体をこの村に差し向けるだろう。そうなれば全面戦争は避けられない。

(殺さずに追い払う。脅威を未然に排除する)

俺はナイフを腰に差すと、黒い農作業着を羽織った。そして家の裏口から、音もなく闇の中へと滑り出した。

俺の体は水が流れるように自然に闇に溶け込んだ。
気配を完全に遮断し、足音一つ立てない。呼吸さえも夜の空気の揺らぎと同化させる。
俺はただの夜の一部と化した。

井戸のある広場へは斥候たちよりも先に回り込んだ。酒場の屋根裏、その窓の隙間から俺は彼らの動きを完璧に監視する。

三人の男たちは黒装束に身を包み、鬼祟かな足取りで井戸へと近づいていく。その動きは素人よりはマシという程度で、俺の目から見れば隙だらけだった。

一人が周囲を見張り、残りの二人が井戸の蓋に手をかける。
そして、リーダー格と思われる男が懐から小さな革袋を取り出した。中身はおそらく致死性の高い粉末状の毒だろう。

男が革袋の口を開け、井戸の中へとそれを注ぎ込もうとした、その瞬間。

俺は動いた。
屋根裏から飛び降り、着地の音さえも立てずに男たちの背後に降り立つ。

三人の男たちはまだ何も気づいていない。
彼らの意識は井戸に注ぐ毒に集中している。

俺はリーダー格の男のちょうど真後ろに立った。
距離は腕を伸ばせば届くほど。

そして、俺は遮断していた気配をほんの僅かだけ解放した。
それは殺気ではない。敵意でもない。
ただ、そこに「いる」という純粋な存在感。

「――ッ!?」

最初に反応したのはリーダー格の男だった。
彼の肩が大きく跳ね上がる。
生物としての本能が、すぐ背後に存在する「何か」を感知し、脳に最大級の警報を送り込んだのだ。

彼は錆びついたブリキの人形のように、ぎこちなく振り返った。
そして、俺の姿を認めた瞬間、彼の顔から全ての表情が消え失せた。

闇よりも深い闇を纏った一つの人影。
その手には月光を鈍く反射する、一本の黒いナイフ。
そして、その顔には感情というものが一切存在しない、絶対零度の無があった。

「ひ…」

男の喉から乾いた空気が漏れる。
声を出そうとしているのに、声帯が恐怖で麻痺し音にならない。

他の二人もリーダーの異変に気づいて振り返った。
そして、同じように絶望的な表情で凍りついた。

俺は何も言わなかった。
ただそこに立っているだけだ。
ナイフを振るうでもなく、威嚇するでもなく。

だが、その沈黙と静止が彼らにとってはどんな拷問よりも恐ろしいものだった。
目の前にいる存在が何者なのか。いつ、どこから現れたのか。何をしようとしているのか。
何も分からない。
その「分からなさ」が彼らの精神を内側から蝕んでいく。

時間が永遠のように引き延ばされる。
やがて、見張りをしていた男の一人がぷつりと理性の糸を切った。
「う…うわああああああ!」
彼は意味不明な絶叫を上げると、武器も何もかも放り出して一目散に村の外へと逃げ出した。

その絶叫が引き金になった。
残された二人もパニックに陥り、我先にと逃げ出していく。
リーダー格の男は毒の入った革袋をその場に落とすのも忘れ、仲間を追いかけて闇の中へと消えていった。

あっという間に広場には静寂が戻った。
残されたのは地面に落ちた小さな革袋と、俺一人だけ。

俺は地面に落ちた革袋を拾い上げると、その中身を燃え盛る焚き火の中へと投げ込んだ。毒は煙になることもなく、一瞬で灰と化した。

これで脅威は去った。
だが、俺の心は晴れなかった。
これはただの始まりに過ぎない。
最初の接触は終わった。だが、奴らは必ず戻ってくる。

俺は自分の手の中にある黒いナイフを見つめた。
今夜、このナイフが血を吸うことはなかった。
だが、次に奴らが現れた時も同じように済む保証はどこにもない。

俺の平穏はもはや風前の灯火だった。
俺がそれを守るためには、いずれこの手を再び汚す覚悟を決めなければならないのかもしれない。
その覚悟が今の俺にあるのだろうか。

俺は答えの出ない問いを抱えたまま、誰にも気づかれることなく闇の中へと姿を消した。
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