「お前の戦い方は地味すぎる」とギルドをクビになったおっさん、その正体は大陸を震撼させた伝説の暗殺者。

夏見ナイ

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第35話:小さな警告

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井戸への毒物混入を未然に防いだ俺は、何事もなかったかのように自宅の寝床に戻った。
村は俺が守ったことなど何も知らずに、静かな夜明けを迎えようとしている。
それでいい。俺が望んだのは感謝でも名声でもなく、ただこの変わらない日常なのだから。

だが、俺の心の中には新たな懸念が生まれていた。
あの斥候たち。
彼らは確かに逃げ帰った。だが、俺は彼らに一切の傷を負わせていない。ただ恐怖を与えただけだ。
冷静になれば彼らは自分たちが遭遇した出来事を分析するだろう。そして、この村に得体の知れない「何か」がいるという結論に至るはずだ。

それは果たして良い結果をもたらすだろうか。
あるいは逆に奴らの好奇心や警戒心を煽り、さらに大規模な調査部隊を送り込ませるきっかけになるのではないか。

(…少し甘すぎたか)

俺は暗い天井を見上げながら自分の判断を反芻していた。
あの場で口封じのために全員を始末しておくべきだったか。いや、それでは斥候が戻らないことで結局は同じ結果になる。

正解が分からない。
十年という平和な歳月は、俺のかつての冷徹な判断力を確実に鈍らせていた。
守るべきものができると人は臆病になる。その言葉の意味を、俺は今更ながら噛み締めていた。

翌朝。俺が畑に出ると、セレスティアが待ち構えていたかのように静かな表情で立っていた。
「…昨夜の件、お見事でした、先輩」
その声には僅かな賞賛の色が混じっていた。彼女は俺が斥候を追い払った一部始終を、どこからか監視していたのだろう。

「別に、何もしていない」
「いいえ。あなたは何もしないことで全てを成し遂げた。殺さず、傷つけず、ただ恐怖という最も効果的な武器で敵を退ける。まさにあなたの真骨頂ですね」

セレスティアの分析は的確だった。
だが、俺は素直にそれを受け入れる気にはなれなかった。
「…あれで本当に良かったのか、俺にも分からん」
「どういう意味です?」

「奴らは俺に傷つけられていない。つまり、報告に戻ることができるということだ。俺という不確定要素の存在を、黄昏の蛇の本体に知らせることになる」
俺の懸念を口にすると、セレスティアは一瞬考え込むように目を伏せた。

「…確かに。ですが、それは必ずしも悪いことばかりではありません」
彼女は諜報員としての冷静な分析を始めた。
「彼らの報告はおそらく支離滅裂なものになるでしょう。『闇から怪物が現れた』『何もされていないのに恐怖で動けなくなった』と。そんな報告を黄昏の蛇の上層部がまともに信じるとは思えません。むしろ、任務に失敗した部下が恐怖のあまり幻覚でも見たのだと判断する可能性が高い」

「だと、いいがな」
「それに、もし万が一彼らがこの村に本当に危険な存在がいると認識したとしても、それは彼らにとって強力な牽制になります。迂闊に手出しができなくなる。結果として、この村の安全は一時的にではありますが確保されることになるはずです」

セレスティアの言葉には説得力があった。
俺は少しだけ安堵の息を漏らした。
だが、彼女の分析はまだ終わっていなかった。

「ただし、問題はその斥候の一人を私が見逃してしまったことです」
「…どういうことだ?」
「昨夜、村から逃げ出した斥候は三人。ですが、私が把握していた斥候は本来四人いたはずなのです。おそらくもう一人は別の場所で別の任務についていたのでしょう。そして、仲間たちの異常な逃走劇をどこかで見ていた可能性が高い」
「……」
「その男が仲間たちよりも冷静に状況を分析できる人間だった場合…話は変わってきます」

セレスティアの言葉に、俺の背筋を冷たいものが走った。
そうだ。俺が相手にしたのは井戸に近づいた三人のみ。もう一人、俺が感知していない斥候がいたとしたら。

俺の甘さが最悪の事態を招くかもしれない。
俺は唇を噛み締めた。

「…そのもう一人の行方は追えるか?」
「既に追っています。私の『梟』たちが。おそらく今日中には居場所が割れるでしょう」
『梟』。それはセレスティアが使役する、情報収集に特化した使い魔のことだろう。

「見つけ次第、処理しますか?」
セレスティアの問いに、俺はしばらく黙考した。
ここで四人目の斥候を始末すれば黄昏の蛇は確実にこの村を危険視する。だが、生かしておけば俺に関するより正確な情報が敵の手に渡ることになる。
どちらも望ましい結果ではない。まさに究極の選択だった。

俺は一つの結論に達した。
「…いや、殺すな」
「しかし!」
「殺さずに捕らえろ。そして俺の前に連れてこい」

俺の言葉に、セレスティアは驚いたように目を見開いた。
「…何を、お考えで?」
「小さな『警告』を送る。これ以上、この村に手を出すな、と」

俺の目にはかつて“神の影”と呼ばれた頃の、冷たい光が宿っていた。
もう甘い考えは捨てる。
俺の平穏を脅かす者には、相応の覚悟をしてもらう必要がある。
ただし血は流さない。それが今の俺にできる、ギリギリの妥協点だった。

その日の夕方。
セレスティアは言葉通り一人の男を連れて、俺の家の前に現れた。
男は全身を縄で縛られ、口には猿轡をかまされている。黄昏の蛇の四人目の斥候だ。その目には恐怖と抵抗の色が浮かんでいた。

俺は男を縛ったまま家の縁側に座らせた。
そして俺とリリア、セレスティアの三人で、いつも通りに夕食を始めた。
男の存在などまるで気にも留めていないかのように。

「師匠! 今日のスープ、絶品です!」
「先輩。このハーブの配合、もう少し改良の余地があるわね」

和やかな(?)食卓の風景。
だが、縛られた斥候にとってそれは地獄のような光景だったに違いない。
目の前の三人は明らかに自分たちの仲間を退けた怪物たちだ。その彼らが自分という捕虜を前に、平然と食事を楽しんでいる。その異常さが男の精神をじわじわと削っていく。

食事が終わると、俺は静かに立ち上がり男の前に屈み込んだ。
そして猿轡を外し、彼の耳元で静かに、しかしはっきりと告げた。

「消えろ」

ただ一言。
それだけだった。

「仲間を連れて二度とこの村に現れるな。次に会った時はこれだけでは済まん」
俺はそう言うと、ナイフで彼の縄を断ち切った。

解放された男は一瞬、何が起こったのか理解できないという顔をした。
だが、すぐに我に返ると悲鳴を上げることも忘れ、転がるようにして闇の中へと逃げていった。

「…これで良かったのでしょうか」
セレスティアが不安そうに呟く。
「ああ。これでいい」

俺は男が消えていった暗い森を見つめながら答えた。
「恐怖は伝染する。奴が持ち帰った恐怖が、黄昏の蛇の中に疑心暗鬼という名の毒を撒き散らすことになるだろう」

これは賭けだった。
俺の小さな警告が巨大な組織の動きを止められるかどうか。

だが、俺はこの賭けに勝つしかない。
俺の平穏な日常を守るために。
そして、この手をこれ以上血で汚さないために。
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