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第46話:【迎撃段階①】第一波
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新月の闇は全てを飲み込むほどに深い。
俺はカーム村の東側、村全体を見渡せる巨大な樫の木の最も高い枝の上にいた。俺の体は木の幹と完全に同化し、気配は夜の闇に溶け込んでいる。ここからなら敵の動きも村の防衛線の様子も、全てを掌の上で転がすように把握することができた。
眼下では村の男たちが息を殺して持ち場についている。ガレスとマーカスが築いた防衛線は俺の助言通り、敵の陽動である西側ではなく、この東の森を正面に見据えていた。彼らの顔には緊張の色が浮かんでいるが、恐怖に怯える者は一人もいない。ただ、静かにその時を待っている。
やがて、その時は来た。
森の奥、俺が予測した地点の闇が僅かに揺らいだ。
獣ではない。人間の、それも統率の取れた集団が放つ、練り上げられた殺気の揺らぎ。
黄昏の蛇、東の森から侵入する別動隊。その数、およそ二十。本隊の半分にも満たないが、一人一人の練度は鉱山にいた連中とは比べ物にならない。おそらくボルガが選りすぐった精鋭部隊なのだろう。
彼らは村の灯りが丘の上の俺の家一軒だけであることを確認すると、油断したように口元を歪めた。
「…馬鹿な連中だ。見張りも立てず、呑気に灯りをつけてやがる」
「あの家が、例の“神の影”とやらの家か。大したことはなさそうだな」
「隊長の言う通り、西の本隊に気を取られているんだろう。このまま一気に村へ侵入し、内部から蹂躙してやる」
彼らの囁き声が風に乗って俺の耳に届く。
全ては俺の筋書き通りだった。
彼らは森の中で最も手早く村へ到達できる獣道へと足を踏み入れた。その先頭に立つ男の足が、ぬるりとした感触と共に地面に沈み込む。
「うおっ!?」
男はバランスを崩し、派手に転倒した。
「ちくしょう、ぬかるみか。昨日は雨も降ってねえのに、なんでこんな場所が…」
悪態をつきながら立ち上がった男の足は泥にまみれて重くなっている。後に続く者たちも次々と足を取られ、隊列は早くも乱れ始めていた。
俺が数日かけて川の水を少しずつ引き込み、丹念に作り上げた人工の沼地。
だが、彼らの目にはそれはただの運の悪いぬかるみにしか見えない。
「気をつけろ! 足元が悪い!」
リーダー格の男が指示を飛ばすが、その声には苛立ちが滲んでいた。彼らの侵攻のテンポは、戦う前にほんの少しだけ削がれたのだ。
ぬかるみを抜け、彼らがようやく息をついたのも束の間。
ぶううん、という不気味な羽音がどこからともなく聞こえ始めた。
「…なんだ、この音は」
一人が訝しげに空を見上げる。
闇夜に紛れて黒い小さな影の群れが、彼らの頭上へと集まってきている。
夜行性の肉食蜂、ナイトホーネットだ。普段は温厚だが、巣を刺激されると狂暴化し、集団で獲物を襲う。
「…甘い匂いがしねえか?」
「ああ。蜜のような…」
彼らは気づいていない。
自分たちが今通っている道の風上にある大木に、巨大な蜂の巣があることを。
そして俺がその木の幹に蜂蜜と、蜂を興奮させる特殊な植物の蜜をたっぷりと塗りつけておいたことを。
羽音は次第に大きくなる。
やがて、先頭を歩いていた男の一人が首筋に走る鋭い痛みに悲鳴を上げた。
「ぎゃあ! い、痛え! 何だこりゃ!」
一匹が刺したのを合図に、蜂の群れが一斉に彼らに襲いかかった。
「うわあああ!」
「蜂だ! 蜂の群れだ!」
「払え! 追い払え!」
闇の中で男たちの阿鼻叫喚が響き渡る。
剣を振り回し、火をつけようとする者もいるが、パニックに陥った集団の中でそんな行動は味方を傷つけるだけだった。隊列は完全に崩壊し、彼らは蜘蛛の子を散らすように蜂の群れから逃げ惑う。
ある者は来た道を引き返そうとしてぬかるみにはまり、身動きが取れないまま蜂の餌食になった。
またある者はやみくもに森の奥深くへと逃げ込み、仲間とはぐれて孤立した。
そして、最も多くの者が唯一開けているように見えた、崖沿いの細い道へと殺到した。
それが俺が用意した、最後の舞台だった。
「こっちだ! こっちへ逃げろ!」
リーダー格の男が叫び、十数人の男たちが崖っぷちの道へとなだれ込む。
その全員が道に足を踏み入れた、その瞬間。
ミシリ、とか細い音が響いた。
彼らの頭上、崖の中腹にそびえる巨大な岩盤。その岩盤をかろうじて支えていた一本の古い木の根。俺がほんの少しだけナイフで傷をつけておいた、その根が男たちの足音の振動に耐えきれず、ついに断ち切れたのだ。
ゴゴゴゴゴ…
地響きと共に巨大な岩盤がゆっくりと傾ぎ始める。
「…な、なんだ…!?」
男たちが見上げた時には、もう遅かった。
轟音。
小規模な崖崩れが彼らの頭上を直撃した。
数人の男は悲鳴を上げる間もなく岩の下敷きになり、残りの者たちもその衝撃で崖の下へと転がり落ちていく。
静寂が再び森に戻った。
あれほどいたはずの黄昏の蛇の精鋭部隊は、今やその数を半分以下に減らしていた。
生き残った者たちも蜂に刺され、崖から落ちて深手を負い、あるいは仲間を失った恐怖で完全に戦意を喪失していた。
「…な、なんなんだ、この森は…」
「呪われている…! 悪霊が棲みついてやがるんだ…!」
「もう駄目だ…帰るぞ! こんな場所で死んでたまるか!」
彼らは村の防衛線にたどり着くことすらなかった。
戦う前に心が折れてしまったのだ。
俺は、その一部始終を木の枝の上から静かに見下ろしていた。
俺は誰一人として、この手で殺めてはいない。
ただ、自然が持つ牙をほんの少しだけ剥き出しにしてやっただけだ。
そして、彼らは勝手にその牙にかかって自滅した。
これが俺の戦い方。
地味で、効率的で、そして何よりも静かな戦い方。
だが、これで終わりではない。
東の別動隊はこれで壊密した。
問題は西から来る、ボルガが率いる本隊だ。
奴らはこの別動隊からの連絡が途絶えたことで何らかの異常を察知するだろう。そして、さらに警戒を強め、より苛烈な攻撃を仕掛けてくるはずだ。
俺の視線は東の森から、村の向こう側、西の闇へと向けられた。
本当の戦いはこれから始まる。
生き残った数人の残党が這う這うの体で村の防衛線の前に姿を現した。
彼らは武器を構える村の男たちの姿を見ると、最後の気力も尽き果てたようにその場に崩れ落ちた。
「た、助けてくれ…! この森には、化け物がいる…!」
その哀れな姿は村人たちの士気を、皮肉にも最高潮にまで高める結果となった。
俺が仕掛けた静かなる第一波の迎撃。
それは完璧な形で完了した。
俺はカーム村の東側、村全体を見渡せる巨大な樫の木の最も高い枝の上にいた。俺の体は木の幹と完全に同化し、気配は夜の闇に溶け込んでいる。ここからなら敵の動きも村の防衛線の様子も、全てを掌の上で転がすように把握することができた。
眼下では村の男たちが息を殺して持ち場についている。ガレスとマーカスが築いた防衛線は俺の助言通り、敵の陽動である西側ではなく、この東の森を正面に見据えていた。彼らの顔には緊張の色が浮かんでいるが、恐怖に怯える者は一人もいない。ただ、静かにその時を待っている。
やがて、その時は来た。
森の奥、俺が予測した地点の闇が僅かに揺らいだ。
獣ではない。人間の、それも統率の取れた集団が放つ、練り上げられた殺気の揺らぎ。
黄昏の蛇、東の森から侵入する別動隊。その数、およそ二十。本隊の半分にも満たないが、一人一人の練度は鉱山にいた連中とは比べ物にならない。おそらくボルガが選りすぐった精鋭部隊なのだろう。
彼らは村の灯りが丘の上の俺の家一軒だけであることを確認すると、油断したように口元を歪めた。
「…馬鹿な連中だ。見張りも立てず、呑気に灯りをつけてやがる」
「あの家が、例の“神の影”とやらの家か。大したことはなさそうだな」
「隊長の言う通り、西の本隊に気を取られているんだろう。このまま一気に村へ侵入し、内部から蹂躙してやる」
彼らの囁き声が風に乗って俺の耳に届く。
全ては俺の筋書き通りだった。
彼らは森の中で最も手早く村へ到達できる獣道へと足を踏み入れた。その先頭に立つ男の足が、ぬるりとした感触と共に地面に沈み込む。
「うおっ!?」
男はバランスを崩し、派手に転倒した。
「ちくしょう、ぬかるみか。昨日は雨も降ってねえのに、なんでこんな場所が…」
悪態をつきながら立ち上がった男の足は泥にまみれて重くなっている。後に続く者たちも次々と足を取られ、隊列は早くも乱れ始めていた。
俺が数日かけて川の水を少しずつ引き込み、丹念に作り上げた人工の沼地。
だが、彼らの目にはそれはただの運の悪いぬかるみにしか見えない。
「気をつけろ! 足元が悪い!」
リーダー格の男が指示を飛ばすが、その声には苛立ちが滲んでいた。彼らの侵攻のテンポは、戦う前にほんの少しだけ削がれたのだ。
ぬかるみを抜け、彼らがようやく息をついたのも束の間。
ぶううん、という不気味な羽音がどこからともなく聞こえ始めた。
「…なんだ、この音は」
一人が訝しげに空を見上げる。
闇夜に紛れて黒い小さな影の群れが、彼らの頭上へと集まってきている。
夜行性の肉食蜂、ナイトホーネットだ。普段は温厚だが、巣を刺激されると狂暴化し、集団で獲物を襲う。
「…甘い匂いがしねえか?」
「ああ。蜜のような…」
彼らは気づいていない。
自分たちが今通っている道の風上にある大木に、巨大な蜂の巣があることを。
そして俺がその木の幹に蜂蜜と、蜂を興奮させる特殊な植物の蜜をたっぷりと塗りつけておいたことを。
羽音は次第に大きくなる。
やがて、先頭を歩いていた男の一人が首筋に走る鋭い痛みに悲鳴を上げた。
「ぎゃあ! い、痛え! 何だこりゃ!」
一匹が刺したのを合図に、蜂の群れが一斉に彼らに襲いかかった。
「うわあああ!」
「蜂だ! 蜂の群れだ!」
「払え! 追い払え!」
闇の中で男たちの阿鼻叫喚が響き渡る。
剣を振り回し、火をつけようとする者もいるが、パニックに陥った集団の中でそんな行動は味方を傷つけるだけだった。隊列は完全に崩壊し、彼らは蜘蛛の子を散らすように蜂の群れから逃げ惑う。
ある者は来た道を引き返そうとしてぬかるみにはまり、身動きが取れないまま蜂の餌食になった。
またある者はやみくもに森の奥深くへと逃げ込み、仲間とはぐれて孤立した。
そして、最も多くの者が唯一開けているように見えた、崖沿いの細い道へと殺到した。
それが俺が用意した、最後の舞台だった。
「こっちだ! こっちへ逃げろ!」
リーダー格の男が叫び、十数人の男たちが崖っぷちの道へとなだれ込む。
その全員が道に足を踏み入れた、その瞬間。
ミシリ、とか細い音が響いた。
彼らの頭上、崖の中腹にそびえる巨大な岩盤。その岩盤をかろうじて支えていた一本の古い木の根。俺がほんの少しだけナイフで傷をつけておいた、その根が男たちの足音の振動に耐えきれず、ついに断ち切れたのだ。
ゴゴゴゴゴ…
地響きと共に巨大な岩盤がゆっくりと傾ぎ始める。
「…な、なんだ…!?」
男たちが見上げた時には、もう遅かった。
轟音。
小規模な崖崩れが彼らの頭上を直撃した。
数人の男は悲鳴を上げる間もなく岩の下敷きになり、残りの者たちもその衝撃で崖の下へと転がり落ちていく。
静寂が再び森に戻った。
あれほどいたはずの黄昏の蛇の精鋭部隊は、今やその数を半分以下に減らしていた。
生き残った者たちも蜂に刺され、崖から落ちて深手を負い、あるいは仲間を失った恐怖で完全に戦意を喪失していた。
「…な、なんなんだ、この森は…」
「呪われている…! 悪霊が棲みついてやがるんだ…!」
「もう駄目だ…帰るぞ! こんな場所で死んでたまるか!」
彼らは村の防衛線にたどり着くことすらなかった。
戦う前に心が折れてしまったのだ。
俺は、その一部始終を木の枝の上から静かに見下ろしていた。
俺は誰一人として、この手で殺めてはいない。
ただ、自然が持つ牙をほんの少しだけ剥き出しにしてやっただけだ。
そして、彼らは勝手にその牙にかかって自滅した。
これが俺の戦い方。
地味で、効率的で、そして何よりも静かな戦い方。
だが、これで終わりではない。
東の別動隊はこれで壊密した。
問題は西から来る、ボルガが率いる本隊だ。
奴らはこの別動隊からの連絡が途絶えたことで何らかの異常を察知するだろう。そして、さらに警戒を強め、より苛烈な攻撃を仕掛けてくるはずだ。
俺の視線は東の森から、村の向こう側、西の闇へと向けられた。
本当の戦いはこれから始まる。
生き残った数人の残党が這う這うの体で村の防衛線の前に姿を現した。
彼らは武器を構える村の男たちの姿を見ると、最後の気力も尽き果てたようにその場に崩れ落ちた。
「た、助けてくれ…! この森には、化け物がいる…!」
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