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第93話 運命のバレンタインデー、あるいは静かなる籠城
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二月十四日。
運命のバレンタインデーが来た。
俺は、まだ薄暗い早朝に、緊張で跳ね起きた心臓と共に目を覚ました。
窓の外はどんよりとした曇り空。まるでこれから始まる俺たちの戦いを、空もまた固唾をのんで見守っているかのようだった。
学校には二人とも『体調不良』で休むと昨日のうちに連絡を入れてある。
今日の俺たちの戦場は学校ではない。
この俺の部屋。六畳一間の、この小さな城だけだ。
午前九時、約束の時間きっかりに家のチャイムが鳴った。
俺が玄関のドアを開けると、そこには大きなフード付きのコートに身を包んだ冬花が立っていた。その顔はいつも以上に白く、そして決意に満ちていた。
「……おはよう、優斗さん」
「……おう」
俺たちの間に多くの言葉は必要なかった。
「あら、冬花ちゃん! いらっしゃい! 優斗ったら朝からソワソワしちゃって。二人とも、せっかくのバレンタインなんだからゆっくりしていきなさいね!」
リビングから聞こえてくる母親の、あまりにも能天気で温かい声。
その平和な日常と、俺たちが置かれた過酷な現実とのギャップに、俺は少しだけ眩暈を覚えた。
俺たちは母親に軽く挨拶を済ませると、すぐに俺の部屋へと向かった。
ガチャリとドアを閉め、鍵をかける。
その瞬間、俺の部屋は外界から完全に遮断された二人だけの要塞となった。
「……始めようか」
俺が言うと、彼女もこくりと静かに頷いた。
俺たちはまず、カーテンを寸分の隙間もなく閉め切った。
部屋の中は昼間だというのに、薄暗い静寂に包まれる。
次に、お互いのスマホの電源を完全にオフにした。
『私を名乗る人物から連絡があっても、それは罠の可能性がある』
昨夜の彼女の言葉が蘇る。
これで外界からの情報は完全にシャットアウトされた。
テレビもつけない。パソコンも開かない。
俺たちが信じられるのは、今この部屋にいるお互いの存在だけだ。
俺たちは部屋の中央に置かれたローテーブルを挟んで、向かい合って座った。
これから運命の時刻、午後二時十七分が過ぎ去るまで。
俺たちはこの場所から一歩も動かない。
ただひたすらに時が過ぎるのを待つ。
それが俺たちの唯一にして絶対の作戦。
時計の秒針がカチ、カチと音を立てる。
その音がまるで時限爆弾のカウントダウンのように、俺の耳に響いた。
静かだった。
あまりにも静かすぎた。
その静寂が逆に、俺たちの緊張をじわじわと高めていく。
俺は何か話さなければと焦った。
この息が詰まるような空気に耐えられなかった。
「……なあ」
俺が口を開いたのと、彼女がバッグの中から何かを取り出したのは、ほぼ同時だった。
「……これ」
彼女が俺の前にそっと差し出したのは、可愛らしいハート型の小さな箱だった。
赤いリボンが綺麗に結ばれている。
「……バレンタイン、ですから」
彼女は少しだけ恥ずかしそうに頬を染めながら言った。
そのあまりにも健気で、あまりにも愛おしい贈り物。
俺は、この極限状況の中で彼女が俺のためにこれを用意してくれていたという事実に、胸が熱くなった。
俺はゆっくりとその箱を受け取った。
そしてリボンを解き、蓋を開ける。
中には形の違う数種類のチョコレートが、宝石のように綺麗に並んでいた。
カカオの甘くてほろ苦い香りが、ふわりと鼻腔をくすぐる。
「……手作りか?」
「はい。未来のあなたも、私の作るトリュフが大好物でしたから」
彼女はそう言ってはにかんだ。
その笑顔は、この薄暗い部屋の中をぱっと明るく照らす太陽のように見えた。
俺は、その中から一番シンプルなトリュフを一つまみ上げる。
そして口に運んだ。
途端に口いっぱいに、濃厚なチョコレートの風味が広がった。
滑らかな口溶け。
そして後から追いかけてくる、ほんのりとした洋酒の香り。
美味い。
今まで食べたどんなチョコレートよりも、ずっとずっと美味かった。
その優しい甘さが、俺の張り詰めていた心を少しだけ溶かしてくれた。
「……ありがとう、冬花。世界一美味いよ」
俺が心からの感謝を伝えると、彼女は心の底から幸せそうに微笑んだ。
その笑顔を俺は絶対に守り抜くと、改めて誓った。
俺たちはそうしてチョコレートを分け合いながら、静かに時が過ぎるのを待っていた。
他愛のない話をした。
もしこの戦いが無事に終わったらどこへ行こうか、とか。
春になったらお花見もいいね、とか。
夏にはまた海にも行きたいな、とか。
その一つ一つが、俺たちの未来へのささやかな、しかし確かな希望の光だった。
時計の針がゆっくりと進んでいく。
正午を過ぎ、午後一時を回った。
運命の時刻まで、あと一時間を切った。
俺たちの会話は自然と途切れ、部屋の中は再び重い静寂に包まれた。
緊張が最高潮に達する。
俺は繋いだ彼女の手が、微かに震えているのに気づいた。
俺は、その手をぎゅっと力強く握りしめる。
大丈夫だ。
俺がいる。
彼女もそれに応えるように、強く、強く握り返してくる。
俺たちは見つめ合った。
その瞳には同じ覚悟の色が宿っている。
午後二時。
あと十七分。
俺たちの運命が決まる。
時計の秒針の音が心臓の鼓動と重なり合う。
カチ、カチ、カチ……。
それはまるで死へのカウントダウン。
俺は生唾を飲み込んだ。
その静寂を破ったのは。
突然鳴り響いた甲高い電子音だった。
俺の机の上に置きっぱなしになっていた、固定電話の着信音だった。
俺も彼女も、完全にその存在を忘れていた。
鳴り響く電話の音。
それはこの静かな要塞に、無理やりこじ開けられた外界との亀裂。
俺たちの心臓が大きく跳ねた。
罠だ。
間違いなく、これは運命が仕掛けた罠だ。
俺たちは顔を見合わせ、固く頷き合った。
出るな。
絶対に出るな。
だがその無機質な呼び出し音は、まるで俺たちの決意を嘲笑うかのように、いつまでもいつまでも鳴り続けていた。
運命のバレンタインデーが来た。
俺は、まだ薄暗い早朝に、緊張で跳ね起きた心臓と共に目を覚ました。
窓の外はどんよりとした曇り空。まるでこれから始まる俺たちの戦いを、空もまた固唾をのんで見守っているかのようだった。
学校には二人とも『体調不良』で休むと昨日のうちに連絡を入れてある。
今日の俺たちの戦場は学校ではない。
この俺の部屋。六畳一間の、この小さな城だけだ。
午前九時、約束の時間きっかりに家のチャイムが鳴った。
俺が玄関のドアを開けると、そこには大きなフード付きのコートに身を包んだ冬花が立っていた。その顔はいつも以上に白く、そして決意に満ちていた。
「……おはよう、優斗さん」
「……おう」
俺たちの間に多くの言葉は必要なかった。
「あら、冬花ちゃん! いらっしゃい! 優斗ったら朝からソワソワしちゃって。二人とも、せっかくのバレンタインなんだからゆっくりしていきなさいね!」
リビングから聞こえてくる母親の、あまりにも能天気で温かい声。
その平和な日常と、俺たちが置かれた過酷な現実とのギャップに、俺は少しだけ眩暈を覚えた。
俺たちは母親に軽く挨拶を済ませると、すぐに俺の部屋へと向かった。
ガチャリとドアを閉め、鍵をかける。
その瞬間、俺の部屋は外界から完全に遮断された二人だけの要塞となった。
「……始めようか」
俺が言うと、彼女もこくりと静かに頷いた。
俺たちはまず、カーテンを寸分の隙間もなく閉め切った。
部屋の中は昼間だというのに、薄暗い静寂に包まれる。
次に、お互いのスマホの電源を完全にオフにした。
『私を名乗る人物から連絡があっても、それは罠の可能性がある』
昨夜の彼女の言葉が蘇る。
これで外界からの情報は完全にシャットアウトされた。
テレビもつけない。パソコンも開かない。
俺たちが信じられるのは、今この部屋にいるお互いの存在だけだ。
俺たちは部屋の中央に置かれたローテーブルを挟んで、向かい合って座った。
これから運命の時刻、午後二時十七分が過ぎ去るまで。
俺たちはこの場所から一歩も動かない。
ただひたすらに時が過ぎるのを待つ。
それが俺たちの唯一にして絶対の作戦。
時計の秒針がカチ、カチと音を立てる。
その音がまるで時限爆弾のカウントダウンのように、俺の耳に響いた。
静かだった。
あまりにも静かすぎた。
その静寂が逆に、俺たちの緊張をじわじわと高めていく。
俺は何か話さなければと焦った。
この息が詰まるような空気に耐えられなかった。
「……なあ」
俺が口を開いたのと、彼女がバッグの中から何かを取り出したのは、ほぼ同時だった。
「……これ」
彼女が俺の前にそっと差し出したのは、可愛らしいハート型の小さな箱だった。
赤いリボンが綺麗に結ばれている。
「……バレンタイン、ですから」
彼女は少しだけ恥ずかしそうに頬を染めながら言った。
そのあまりにも健気で、あまりにも愛おしい贈り物。
俺は、この極限状況の中で彼女が俺のためにこれを用意してくれていたという事実に、胸が熱くなった。
俺はゆっくりとその箱を受け取った。
そしてリボンを解き、蓋を開ける。
中には形の違う数種類のチョコレートが、宝石のように綺麗に並んでいた。
カカオの甘くてほろ苦い香りが、ふわりと鼻腔をくすぐる。
「……手作りか?」
「はい。未来のあなたも、私の作るトリュフが大好物でしたから」
彼女はそう言ってはにかんだ。
その笑顔は、この薄暗い部屋の中をぱっと明るく照らす太陽のように見えた。
俺は、その中から一番シンプルなトリュフを一つまみ上げる。
そして口に運んだ。
途端に口いっぱいに、濃厚なチョコレートの風味が広がった。
滑らかな口溶け。
そして後から追いかけてくる、ほんのりとした洋酒の香り。
美味い。
今まで食べたどんなチョコレートよりも、ずっとずっと美味かった。
その優しい甘さが、俺の張り詰めていた心を少しだけ溶かしてくれた。
「……ありがとう、冬花。世界一美味いよ」
俺が心からの感謝を伝えると、彼女は心の底から幸せそうに微笑んだ。
その笑顔を俺は絶対に守り抜くと、改めて誓った。
俺たちはそうしてチョコレートを分け合いながら、静かに時が過ぎるのを待っていた。
他愛のない話をした。
もしこの戦いが無事に終わったらどこへ行こうか、とか。
春になったらお花見もいいね、とか。
夏にはまた海にも行きたいな、とか。
その一つ一つが、俺たちの未来へのささやかな、しかし確かな希望の光だった。
時計の針がゆっくりと進んでいく。
正午を過ぎ、午後一時を回った。
運命の時刻まで、あと一時間を切った。
俺たちの会話は自然と途切れ、部屋の中は再び重い静寂に包まれた。
緊張が最高潮に達する。
俺は繋いだ彼女の手が、微かに震えているのに気づいた。
俺は、その手をぎゅっと力強く握りしめる。
大丈夫だ。
俺がいる。
彼女もそれに応えるように、強く、強く握り返してくる。
俺たちは見つめ合った。
その瞳には同じ覚悟の色が宿っている。
午後二時。
あと十七分。
俺たちの運命が決まる。
時計の秒針の音が心臓の鼓動と重なり合う。
カチ、カチ、カチ……。
それはまるで死へのカウントダウン。
俺は生唾を飲み込んだ。
その静寂を破ったのは。
突然鳴り響いた甲高い電子音だった。
俺の机の上に置きっぱなしになっていた、固定電話の着信音だった。
俺も彼女も、完全にその存在を忘れていた。
鳴り響く電話の音。
それはこの静かな要塞に、無理やりこじ開けられた外界との亀裂。
俺たちの心臓が大きく跳ねた。
罠だ。
間違いなく、これは運命が仕掛けた罠だ。
俺たちは顔を見合わせ、固く頷き合った。
出るな。
絶対に出るな。
だがその無機質な呼び出し音は、まるで俺たちの決意を嘲笑うかのように、いつまでもいつまでも鳴り続けていた。
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