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第一話 不協和音の世界
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私の世界は、いつも不協和音に満ちている。
今日もそうだ。薔薇が咲き誇るクライノート伯爵家の庭園。小鳥のさえずりさえ音楽のように聞こえるはずの、穏やかな昼下がり。侍女たちの他愛ない会話が、私の鼓膜を不快に掻き乱した。
「アリーシャ様は本当にお美しいですわ」
この言葉は澄んだハープの音色。真実の響きだ。私は侍女に小さく微笑みかける。
「ありがとう、マリア」
「ええ、まるで本物の聖女様のよう」
こちらの言葉は違う。マリアの隣に立つアンナの声。その声には、ガラスを鋭い爪で引っ掻くような不快な高音が混じっている。嘘の音だ。彼女は私を美しいとは思っている。だが「聖女」という部分には、微かな嫉妬と嘲りが含まれていた。
私は表情を変えずにアンナの方を向く。
「あなたも、その刺繍はとても綺麗ね」
「もったいないお言葉ですわ」
アンナは嬉しそうに微笑む。その言葉は真実だった。褒められたことへの純粋な喜びの音がする。人は現金な生き物だ。少しの優しさで、その音色を簡単に変えてしまう。
私の名前はアリーシャ・フォン・クライノート。この国の伯爵家に生まれた長女。そして、人の言葉の真偽を「音」として聞き分ける、呪いのような力を持っていた。
物心ついた時から、世界は不快な音で溢れていた。
両親の愛の囁き。友人の励ましの言葉。街の人々の賞賛。その多くに、不協和音が混じっていた。
純粋な真実の言葉は、美しい和音となって心に響く。しかし、そんな音は滅多に聞くことができない。ほとんどの言葉には嘘や建前、嫉妬や見栄といった不純物が混ざり、耳障りなノイズとなって私を苛む。
おかげで私は、人を信じることができなくなった。心を許せる相手など一人もいない。常に完璧な令嬢を演じ、誰に対しても当たり障りのない対応を心がける。それが、この不協和音の世界で生きるための、私なりの処世術だった。
ティーカップを静かにソーサーへ戻す。カチャリという陶器の音だけが、嘘をつかない確かな音として耳に届いた。
「お姉様、こちらにいらしたのですね」
背後から聞こえた声は、鈴を転がすように愛らしい。しかし私の耳には、最も聞きたくない、激しい不協和音となって突き刺さる。
振り向くと、そこに立っていたのは異母妹のリゼットだった。蜂蜜色のふわふわした髪。庇護欲を掻き立てる大きな瞳。小動物のようなその姿は、誰からも愛される少女そのものだ。
「リゼット。どうしたの」
「アルフォンス殿下がお見えですわ。お姉様をお呼びでしたので」
リゼットは天使のような笑顔を浮かべている。だがその言葉の裏では、嫉妬と悪意の音が渦を巻いていた。調律の狂ったピアノを、力任せに叩きつけるような酷い音だ。
アルフォンス殿下。それが私の婚約者である、この国の第二王子の名前だ。
「そう。すぐに参ります」
私は静かに立ち上がる。リゼットは私の隣に並ぶと、心配そうな顔で私の手を取った。
「お姉様、お顔の色が優れませんわ。明日の儀式を前に、緊張なさっているの?」
その手は温かい。だが声は、鉄と鉄が擦れ合うような軋んだ音を立てている。心配など微塵もしていない。私の不幸を心から願っている、醜い本音が透けて見えた。
「少しだけ。でも大丈夫よ」
私は彼女の手をそっと離す。これ以上触れられていると、彼女の嘘の音に気が狂いそうだった。
応接室の扉を開けると、ソファに座る豪奢な青年が立ち上がった。輝く金髪に、空の色を映したような青い瞳。絵画から抜け出してきたような美しい人。アルフォンス・ルキウス・アストリア第二王子。
「アリーシャ。待っていたよ」
彼は甘い声で私の名を呼ぶ。そして優雅に歩み寄り、私の手の甲に口づけを落とした。
「君の美しい姿を見ていると、時を忘れてしまう」
その声もまた、ひどい不協和音だった。彼の言葉に愛はない。あるのは、私を「聖女」として手に入れることで得られる名声への渇望と、私という存在を支配する満足感だけだ。空虚な音が、私の頭に響き渡る。
「殿下こそ、本日もお元気そうで何よりです」
私は完璧な淑女の笑みを浮かべて応える。心の中では、耳を塞いで叫びだしたい衝動に駆られていた。
アルフォンス殿下は満足そうに頷くと、リゼットに視線を移した。
「リゼット嬢も息災そうで何よりだ」
「はい、殿下。お姉様のお側にいられて、私は幸せですわ」
リゼットの言葉に、殿下は目を細める。二人の間で交わされる会話は、どこか奇妙な調和を保っていた。嘘と嘘が重なり合うことで生まれる、歪んだハーモニー。それはそれで、また別の不快感を私に与えた。
この二人、私の知らないところで頻繁に会っている。その事実を、私は音で知っていた。
夕食の時間は、私にとって一日で最も苦痛な時間だった。
長いテーブルの向こうには、父であるクライノート伯爵。隣には継母。そしてその隣には、リゼットがいる。一見すれば、仲睦まじい貴族の家族の肖像画だ。
しかし、私の耳には地獄の合奏が鳴り響いていた。
「アリーシャ。明日の儀式、滞りなく終えるのだぞ。お前は我が家の誉れなのだからな」
父の厳格な声。そこには期待の音色と共に、失敗すれば家の恥だという、脅迫めいた不協和音が混じる。
「ええ、あなた。アリーシャなら大丈夫ですわ。この子は昔から、本当に出来の良い子ですもの」
継母が優雅な仕草で相槌を打つ。その声は、私の存在が自分の地位を脅かすことへの警戒心で、嫌らしく濁っていた。彼女にとって私は、愛する娘ではなく、厄介な前妻の忘れ形見でしかない。
そして、リゼット。
「お姉様、頑張ってくださいませ。リゼット、ずっと応援しておりますわ」
今日の不協和音の中で、最も強烈で、最も悪意に満ちた音。嫉妬と憎悪。そして何かを企む、密やかで粘質な響き。
私はただ、無言でナイフとフォークを動かす。味など少しもしない。料理の見た目と食感だけを頼りに、咀嚼して飲み下す。それが私の日常だった。
いつからだろう。こんな風に心を閉ざすようになったのは。
かつては、私も人を信じようとした。聞こえてくる不協和音を、自分の気のせいだと思おうとした。でも、無理だった。嘘の音は、いつだって現実になる。
「ずっと友達だよ」と言った少女は、陰で私の悪口を言っていた。
「お前を本当の娘のように思っている」と言った継母は、父の見ていないところで私を無視した。
「君だけを愛している」と言ったアルフォンス殿下は、他の令嬢にも同じ言葉を囁いていた。
この力は、聖女の奇跡などではない。人を信じる心を根こそぎ奪い去る、紛れもない呪いだ。
夕食を終え、自室に戻る。侍女を下がらせて、一人きりになった瞬間に、張り詰めていた糸が切れた。ベッドに倒れ込み、枕に顔をうずめる。
耳の奥で、今日聞いたいくつもの不協和音が木霊していた。父の期待。継母の牽制。リゼットの悪意。そして、アルフォンス殿下の虚ろな愛の言葉。
頭が割れそうに痛い。心臓がうるさく脈打っている。
ゆっくりと体を起こし、窓辺に歩み寄った。窓の外には、静かな夜空が広がっている。銀色の月が、地上を淡く照らしていた。
あの月は嘘をつかない。星々も嘘をつかない。風の音も、木の葉のざわめきも、全てが真実の音だ。
どうか、この耳から音を奪ってください。
そう祈ったのは、もう何度目になるだろうか。
いっそ何も聞こえなくなれば、どれほど楽になれるだろう。人の顔色を窺い、嘘に傷つくこともなくなる。偽りの笑顔で自分を塗り固める必要もなくなる。
明日は、王宮で聖女認定の最終儀式が行われる。
私のこの力が、聖なるものか否かを判断するための儀式だ。神官たちが用意した「嘘つき」の言葉を聞き分けられれば、私は正式にこの国の聖女として認められる。
国中の期待。王家の思惑。そして、私を陥れようとする者たちの底知れぬ悪意。
その全てが、明日、私に集中する。
その先に待つのが破滅だとしても、もう私に逃げ場などどこにもなかった。
私はただ、窓の外の静かな月に、救いを求めることしかできなかった。
その祈りが、全く別の形で聞き届けられることになるとは、まだ知る由もない。ただ、胸騒ぎだけが、嵐の前の静けさのように、私の心を支配していた。
不協-和音に満ちた世界で、私は独りだった。
今日もそうだ。薔薇が咲き誇るクライノート伯爵家の庭園。小鳥のさえずりさえ音楽のように聞こえるはずの、穏やかな昼下がり。侍女たちの他愛ない会話が、私の鼓膜を不快に掻き乱した。
「アリーシャ様は本当にお美しいですわ」
この言葉は澄んだハープの音色。真実の響きだ。私は侍女に小さく微笑みかける。
「ありがとう、マリア」
「ええ、まるで本物の聖女様のよう」
こちらの言葉は違う。マリアの隣に立つアンナの声。その声には、ガラスを鋭い爪で引っ掻くような不快な高音が混じっている。嘘の音だ。彼女は私を美しいとは思っている。だが「聖女」という部分には、微かな嫉妬と嘲りが含まれていた。
私は表情を変えずにアンナの方を向く。
「あなたも、その刺繍はとても綺麗ね」
「もったいないお言葉ですわ」
アンナは嬉しそうに微笑む。その言葉は真実だった。褒められたことへの純粋な喜びの音がする。人は現金な生き物だ。少しの優しさで、その音色を簡単に変えてしまう。
私の名前はアリーシャ・フォン・クライノート。この国の伯爵家に生まれた長女。そして、人の言葉の真偽を「音」として聞き分ける、呪いのような力を持っていた。
物心ついた時から、世界は不快な音で溢れていた。
両親の愛の囁き。友人の励ましの言葉。街の人々の賞賛。その多くに、不協和音が混じっていた。
純粋な真実の言葉は、美しい和音となって心に響く。しかし、そんな音は滅多に聞くことができない。ほとんどの言葉には嘘や建前、嫉妬や見栄といった不純物が混ざり、耳障りなノイズとなって私を苛む。
おかげで私は、人を信じることができなくなった。心を許せる相手など一人もいない。常に完璧な令嬢を演じ、誰に対しても当たり障りのない対応を心がける。それが、この不協和音の世界で生きるための、私なりの処世術だった。
ティーカップを静かにソーサーへ戻す。カチャリという陶器の音だけが、嘘をつかない確かな音として耳に届いた。
「お姉様、こちらにいらしたのですね」
背後から聞こえた声は、鈴を転がすように愛らしい。しかし私の耳には、最も聞きたくない、激しい不協和音となって突き刺さる。
振り向くと、そこに立っていたのは異母妹のリゼットだった。蜂蜜色のふわふわした髪。庇護欲を掻き立てる大きな瞳。小動物のようなその姿は、誰からも愛される少女そのものだ。
「リゼット。どうしたの」
「アルフォンス殿下がお見えですわ。お姉様をお呼びでしたので」
リゼットは天使のような笑顔を浮かべている。だがその言葉の裏では、嫉妬と悪意の音が渦を巻いていた。調律の狂ったピアノを、力任せに叩きつけるような酷い音だ。
アルフォンス殿下。それが私の婚約者である、この国の第二王子の名前だ。
「そう。すぐに参ります」
私は静かに立ち上がる。リゼットは私の隣に並ぶと、心配そうな顔で私の手を取った。
「お姉様、お顔の色が優れませんわ。明日の儀式を前に、緊張なさっているの?」
その手は温かい。だが声は、鉄と鉄が擦れ合うような軋んだ音を立てている。心配など微塵もしていない。私の不幸を心から願っている、醜い本音が透けて見えた。
「少しだけ。でも大丈夫よ」
私は彼女の手をそっと離す。これ以上触れられていると、彼女の嘘の音に気が狂いそうだった。
応接室の扉を開けると、ソファに座る豪奢な青年が立ち上がった。輝く金髪に、空の色を映したような青い瞳。絵画から抜け出してきたような美しい人。アルフォンス・ルキウス・アストリア第二王子。
「アリーシャ。待っていたよ」
彼は甘い声で私の名を呼ぶ。そして優雅に歩み寄り、私の手の甲に口づけを落とした。
「君の美しい姿を見ていると、時を忘れてしまう」
その声もまた、ひどい不協和音だった。彼の言葉に愛はない。あるのは、私を「聖女」として手に入れることで得られる名声への渇望と、私という存在を支配する満足感だけだ。空虚な音が、私の頭に響き渡る。
「殿下こそ、本日もお元気そうで何よりです」
私は完璧な淑女の笑みを浮かべて応える。心の中では、耳を塞いで叫びだしたい衝動に駆られていた。
アルフォンス殿下は満足そうに頷くと、リゼットに視線を移した。
「リゼット嬢も息災そうで何よりだ」
「はい、殿下。お姉様のお側にいられて、私は幸せですわ」
リゼットの言葉に、殿下は目を細める。二人の間で交わされる会話は、どこか奇妙な調和を保っていた。嘘と嘘が重なり合うことで生まれる、歪んだハーモニー。それはそれで、また別の不快感を私に与えた。
この二人、私の知らないところで頻繁に会っている。その事実を、私は音で知っていた。
夕食の時間は、私にとって一日で最も苦痛な時間だった。
長いテーブルの向こうには、父であるクライノート伯爵。隣には継母。そしてその隣には、リゼットがいる。一見すれば、仲睦まじい貴族の家族の肖像画だ。
しかし、私の耳には地獄の合奏が鳴り響いていた。
「アリーシャ。明日の儀式、滞りなく終えるのだぞ。お前は我が家の誉れなのだからな」
父の厳格な声。そこには期待の音色と共に、失敗すれば家の恥だという、脅迫めいた不協和音が混じる。
「ええ、あなた。アリーシャなら大丈夫ですわ。この子は昔から、本当に出来の良い子ですもの」
継母が優雅な仕草で相槌を打つ。その声は、私の存在が自分の地位を脅かすことへの警戒心で、嫌らしく濁っていた。彼女にとって私は、愛する娘ではなく、厄介な前妻の忘れ形見でしかない。
そして、リゼット。
「お姉様、頑張ってくださいませ。リゼット、ずっと応援しておりますわ」
今日の不協和音の中で、最も強烈で、最も悪意に満ちた音。嫉妬と憎悪。そして何かを企む、密やかで粘質な響き。
私はただ、無言でナイフとフォークを動かす。味など少しもしない。料理の見た目と食感だけを頼りに、咀嚼して飲み下す。それが私の日常だった。
いつからだろう。こんな風に心を閉ざすようになったのは。
かつては、私も人を信じようとした。聞こえてくる不協和音を、自分の気のせいだと思おうとした。でも、無理だった。嘘の音は、いつだって現実になる。
「ずっと友達だよ」と言った少女は、陰で私の悪口を言っていた。
「お前を本当の娘のように思っている」と言った継母は、父の見ていないところで私を無視した。
「君だけを愛している」と言ったアルフォンス殿下は、他の令嬢にも同じ言葉を囁いていた。
この力は、聖女の奇跡などではない。人を信じる心を根こそぎ奪い去る、紛れもない呪いだ。
夕食を終え、自室に戻る。侍女を下がらせて、一人きりになった瞬間に、張り詰めていた糸が切れた。ベッドに倒れ込み、枕に顔をうずめる。
耳の奥で、今日聞いたいくつもの不協和音が木霊していた。父の期待。継母の牽制。リゼットの悪意。そして、アルフォンス殿下の虚ろな愛の言葉。
頭が割れそうに痛い。心臓がうるさく脈打っている。
ゆっくりと体を起こし、窓辺に歩み寄った。窓の外には、静かな夜空が広がっている。銀色の月が、地上を淡く照らしていた。
あの月は嘘をつかない。星々も嘘をつかない。風の音も、木の葉のざわめきも、全てが真実の音だ。
どうか、この耳から音を奪ってください。
そう祈ったのは、もう何度目になるだろうか。
いっそ何も聞こえなくなれば、どれほど楽になれるだろう。人の顔色を窺い、嘘に傷つくこともなくなる。偽りの笑顔で自分を塗り固める必要もなくなる。
明日は、王宮で聖女認定の最終儀式が行われる。
私のこの力が、聖なるものか否かを判断するための儀式だ。神官たちが用意した「嘘つき」の言葉を聞き分けられれば、私は正式にこの国の聖女として認められる。
国中の期待。王家の思惑。そして、私を陥れようとする者たちの底知れぬ悪意。
その全てが、明日、私に集中する。
その先に待つのが破滅だとしても、もう私に逃げ場などどこにもなかった。
私はただ、窓の外の静かな月に、救いを求めることしかできなかった。
その祈りが、全く別の形で聞き届けられることになるとは、まだ知る由もない。ただ、胸騒ぎだけが、嵐の前の静けさのように、私の心を支配していた。
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