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第六話 静寂の城
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馬車が巨大な鉄門をくぐり抜けた瞬間、外の世界の喧騒が完全に遮断された。
窓から見えるのは、どこまでも続くかのような広大な庭園。 meticulously に手入れされた芝生と、計算され尽くしたように配置された木々。それは美しく、同時に人を寄せ付けない完璧さを湛えていた。
やがて、その庭園の先に、城と呼ぶにふさわしい壮大な屋敷が姿を現した。
黒に近い灰色の石で造られた重厚な建物。華美な装飾は一切なく、ただその巨大さと威厳だけで見る者を圧倒する。まるで、この屋敷の主であるゼノン・エルヴァインそのものを体現したかのようだった。
馬車が屋敷の正面玄関にゆるやかに停止する。
先に降り立ったゼノン公爵が、無言で私に手を差し伸べた。黒い手袋に覆われたその手は、大きく、節くれだっている。処刑台で私を支えたのと同じ手だ。
私は一瞬ためらった後、おそるおそるその手を取った。彼の手に体温は感じられない。けれど、その力強い感触が、ここが現実なのだと私に告げていた。
彼に導かれるまま、私はエルヴァイン公爵邸の地に、初めて足を踏み入れた。
重々しい樫の扉が開かれ、私たちは広大なエントランスホールへと足を踏み入れた。
高い天井には、巨大なシャンデリアが静かな光を放っている。磨き上げられた大理石の床は、鏡のように私たちの姿を映し出した。正面には二階へと続く大階段が、まるで王の玉座へと誘うかのように伸びている。
人の気配がする。しかし、私の耳には何も聞こえてこなかった。
いや、違う。聞こえている。
衣擦れの音。微かな息遣い。遠くで響く、誰かの足音。
それらの音が、何の不純物も混じらない、純粋な「音」として私の耳に届いている。
驚きに目を見開く私を待っていたのは、一列に整列した使用人たちだった。
先頭に立つのは、背筋を伸ばした白髪の老紳士。その後ろには、メイドや従僕たちが微動だにせず控えている。彼らの視線は一斉に私に注がれた。その瞳には、好奇心、戸惑い、そしてほんの少しの警戒心が見て取れる。
普通なら、彼らのそんな感情は、ざわついた不協和音となって私を襲うはずだった。
しかし、聞こえない。
彼らの心は、主であるゼノン公爵への絶対的な忠誠心と、厳格な規律によって、完璧に統制されていた。余計な感情が音となって漏れ出すことを、許さない。そんな鉄のような空気が、この屋敷を支配していた。
ここは、静かだ。
心の底から震えるような感動が、私を襲った。
「紹介する」
ゼノン公爵の低く平坦な声が、ホールに響いた。
「彼女はアリーシャ・フォン・クライノート。本日より、俺の婚約者となる」
婚約者。その言葉に、使用人たちの間に僅かな動揺が走るのが空気で分かった。しかし、誰一人として表情を変える者はいない。
「客人として、丁重にもてなせ。だが、過度な干渉は不要だ。分かったな」
「「「御意」」」
統率の取れた返事が、一つの音となって返ってきた。その返事にも、嘘の響きは一切なかった。
「部屋へ案内する」
ゼノン公爵はそれだけ言うと、私の方へ向き直り、大階段の方へと歩き出した。私は慌ててその後を追う。
長い廊下を、ただ二人の足音だけを響かせて歩く。壁に飾られた絵画も、窓から見える庭の景色も、どこか現実感を失っていた。
私の意識は、ただひたすらに「音」へと集中していた。
窓の外で、鳥がさえずる声が聞こえる。澄んだ、美しい音色。
遠くの厨房からか、食器が触れ合うかすかな音がする。生活の、確かな響き。
風が窓を揺らす、優しい音。
それら全てが、私にとっては生まれて初めて聞く音楽のようだった。
嘘に汚されていない、ありのままの世界の音。
涙が、勝手に滲んできた。
処刑台の上でさえ流れなかった涙が、今、この静寂の中で、私の心を温めていく。
ここなら、私は生きていけるかもしれない。
息を、することができるかもしれない。
そんな、今まで抱いたこともない微かな希望が、胸の奥で芽生え始めていた。
「ここだ」
ゼノン公爵が、一つの扉の前で足を止めた。彼はノブに手をかけ、静かに扉を開ける。
案内されたのは、息を呑むほどに広く、美しい部屋だった。
天井は高く、大きな窓からは西日が差し込み、部屋全体を柔らかな光で満たしている。部屋の中央には天蓋付きの大きなベッド。窓際には豪奢なソファセット。奥には書斎として使えるであろう机まで置かれていた。
クライノート伯爵家で私に与えられていた部屋とは、比べ物にならないほど豪華で、そして落ち着いた空間だった。
「必要なものがあれば、侍女を呼べ。呼び鈴はベッドの脇にある」
ゼノン公爵は、部屋の入り口に立ったまま、淡々と告げた。
「夕食は後で運ばせる。今夜はゆっくり休むといい」
それだけが、彼からの言葉の全てだった。
私が何かを言う前に、彼は静かに扉を閉めて去っていく。その足音が遠ざかっていくのを聞きながら、私は部屋の中央に立ち尽くしていた。
一人になった。
しかし、クライノート家にいた時のような、息が詰まる孤独感はなかった。
ふらふらと窓辺に歩み寄り、指でそっと窓ガラスに触れる。窓の外には、夕日に染まる美しい庭園が広がっていた。
あの広場で、民衆の罵声を浴び、死を覚悟したのが、ほんの数時間前のことだとはとても思えない。
まるで、長い悪夢からようやく覚めたかのようだった。
私は、窓辺のソファにゆっくりと腰を下ろした。柔らかなクッションが、疲弊しきった私の体を優しく受け止めてくれる。
そして、心の底から、深く、長い息を吐いた。
それは、私がこの世に生を受けてから、初めてついた、本物の安堵のため息だった。
不協和音のしない世界が、こんなにも穏やかで、満ち足りたものだなんて。
私は、まだこの静寂の城の主のことを何も知らない。
彼がなぜ私を助けたのかも、これから私に何をさせようとしているのかも。
だが今は、ただこの静けさに身を委ねていたかった。
明日からのことなど、考えたくはなかった。
ただ、今は。
この安らぎだけが、私の全てだった。
窓から見えるのは、どこまでも続くかのような広大な庭園。 meticulously に手入れされた芝生と、計算され尽くしたように配置された木々。それは美しく、同時に人を寄せ付けない完璧さを湛えていた。
やがて、その庭園の先に、城と呼ぶにふさわしい壮大な屋敷が姿を現した。
黒に近い灰色の石で造られた重厚な建物。華美な装飾は一切なく、ただその巨大さと威厳だけで見る者を圧倒する。まるで、この屋敷の主であるゼノン・エルヴァインそのものを体現したかのようだった。
馬車が屋敷の正面玄関にゆるやかに停止する。
先に降り立ったゼノン公爵が、無言で私に手を差し伸べた。黒い手袋に覆われたその手は、大きく、節くれだっている。処刑台で私を支えたのと同じ手だ。
私は一瞬ためらった後、おそるおそるその手を取った。彼の手に体温は感じられない。けれど、その力強い感触が、ここが現実なのだと私に告げていた。
彼に導かれるまま、私はエルヴァイン公爵邸の地に、初めて足を踏み入れた。
重々しい樫の扉が開かれ、私たちは広大なエントランスホールへと足を踏み入れた。
高い天井には、巨大なシャンデリアが静かな光を放っている。磨き上げられた大理石の床は、鏡のように私たちの姿を映し出した。正面には二階へと続く大階段が、まるで王の玉座へと誘うかのように伸びている。
人の気配がする。しかし、私の耳には何も聞こえてこなかった。
いや、違う。聞こえている。
衣擦れの音。微かな息遣い。遠くで響く、誰かの足音。
それらの音が、何の不純物も混じらない、純粋な「音」として私の耳に届いている。
驚きに目を見開く私を待っていたのは、一列に整列した使用人たちだった。
先頭に立つのは、背筋を伸ばした白髪の老紳士。その後ろには、メイドや従僕たちが微動だにせず控えている。彼らの視線は一斉に私に注がれた。その瞳には、好奇心、戸惑い、そしてほんの少しの警戒心が見て取れる。
普通なら、彼らのそんな感情は、ざわついた不協和音となって私を襲うはずだった。
しかし、聞こえない。
彼らの心は、主であるゼノン公爵への絶対的な忠誠心と、厳格な規律によって、完璧に統制されていた。余計な感情が音となって漏れ出すことを、許さない。そんな鉄のような空気が、この屋敷を支配していた。
ここは、静かだ。
心の底から震えるような感動が、私を襲った。
「紹介する」
ゼノン公爵の低く平坦な声が、ホールに響いた。
「彼女はアリーシャ・フォン・クライノート。本日より、俺の婚約者となる」
婚約者。その言葉に、使用人たちの間に僅かな動揺が走るのが空気で分かった。しかし、誰一人として表情を変える者はいない。
「客人として、丁重にもてなせ。だが、過度な干渉は不要だ。分かったな」
「「「御意」」」
統率の取れた返事が、一つの音となって返ってきた。その返事にも、嘘の響きは一切なかった。
「部屋へ案内する」
ゼノン公爵はそれだけ言うと、私の方へ向き直り、大階段の方へと歩き出した。私は慌ててその後を追う。
長い廊下を、ただ二人の足音だけを響かせて歩く。壁に飾られた絵画も、窓から見える庭の景色も、どこか現実感を失っていた。
私の意識は、ただひたすらに「音」へと集中していた。
窓の外で、鳥がさえずる声が聞こえる。澄んだ、美しい音色。
遠くの厨房からか、食器が触れ合うかすかな音がする。生活の、確かな響き。
風が窓を揺らす、優しい音。
それら全てが、私にとっては生まれて初めて聞く音楽のようだった。
嘘に汚されていない、ありのままの世界の音。
涙が、勝手に滲んできた。
処刑台の上でさえ流れなかった涙が、今、この静寂の中で、私の心を温めていく。
ここなら、私は生きていけるかもしれない。
息を、することができるかもしれない。
そんな、今まで抱いたこともない微かな希望が、胸の奥で芽生え始めていた。
「ここだ」
ゼノン公爵が、一つの扉の前で足を止めた。彼はノブに手をかけ、静かに扉を開ける。
案内されたのは、息を呑むほどに広く、美しい部屋だった。
天井は高く、大きな窓からは西日が差し込み、部屋全体を柔らかな光で満たしている。部屋の中央には天蓋付きの大きなベッド。窓際には豪奢なソファセット。奥には書斎として使えるであろう机まで置かれていた。
クライノート伯爵家で私に与えられていた部屋とは、比べ物にならないほど豪華で、そして落ち着いた空間だった。
「必要なものがあれば、侍女を呼べ。呼び鈴はベッドの脇にある」
ゼノン公爵は、部屋の入り口に立ったまま、淡々と告げた。
「夕食は後で運ばせる。今夜はゆっくり休むといい」
それだけが、彼からの言葉の全てだった。
私が何かを言う前に、彼は静かに扉を閉めて去っていく。その足音が遠ざかっていくのを聞きながら、私は部屋の中央に立ち尽くしていた。
一人になった。
しかし、クライノート家にいた時のような、息が詰まる孤独感はなかった。
ふらふらと窓辺に歩み寄り、指でそっと窓ガラスに触れる。窓の外には、夕日に染まる美しい庭園が広がっていた。
あの広場で、民衆の罵声を浴び、死を覚悟したのが、ほんの数時間前のことだとはとても思えない。
まるで、長い悪夢からようやく覚めたかのようだった。
私は、窓辺のソファにゆっくりと腰を下ろした。柔らかなクッションが、疲弊しきった私の体を優しく受け止めてくれる。
そして、心の底から、深く、長い息を吐いた。
それは、私がこの世に生を受けてから、初めてついた、本物の安堵のため息だった。
不協和音のしない世界が、こんなにも穏やかで、満ち足りたものだなんて。
私は、まだこの静寂の城の主のことを何も知らない。
彼がなぜ私を助けたのかも、これから私に何をさせようとしているのかも。
だが今は、ただこの静けさに身を委ねていたかった。
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