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第十九話 生涯をかけて守る盾
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嵐が過ぎ去った後、私たちの周りには奇妙な静寂が訪れた。
会場の喧騒は続いている。しかし、それはまるで厚いガラスを一枚隔てた向こう側の世界の出来事のようだった。ゼノン・エルヴァインという男が作り出す無音の領域が、私たちを外界の悪意から完全に遮断していた。
もう誰も、私たちに近づこうとはしない。
先ほどの若い貴族の哀れな末路は、格好の牽制となったのだろう。遠巻きに投げかけられる視線に含まれる嘲笑は消え失せ、代わりに畏怖と、そして少しばかりの嫉妬の響きが混じり始めていた。
私は、ゼノン公爵の隣に、ただ静かに立っていた。
先ほどまでの恐怖で強張っていた体から、少しずつ力が抜けていく。彼の隣は、この世のどこよりも安全な場所だ。その事実が、冷え切っていた私の心に、確かな安堵をもたらしていた。
彼は、私が落ち着きを取り戻すのを待っていたかのように、近くの侍従を呼び寄せた。
「飲み物を」
短い命令。侍従は恐縮しきった様子で、すぐに二つのグラスを盆に乗せて持ってきた。
彼はその一つを私に手渡す。グラスの中では、黄金色の果実水が涼やかに揺れていた。私は礼を言ってそれを受け取り、そっと口をつけた。甘く、冷たい液体が、乾いた喉を優しく潤していく。
私は、隣に立つ男の横顔を盗み見た。
彼は、グラスを片手に、相変わらずの無表情で会場を見渡している。その金色の瞳には、何の感情も映っていない。
しかし、私にはもう分かっていた。
この氷の仮面の下で、彼がどれほど鋭く周囲を警戒し、私を守ることに神経を集中させているか。
彼の静寂は、何もない無ではない。全ての脅威を瞬時に察知し、打ち払うために極限まで研ぎ澄まされた、静かなる闘気そのものなのだ。
その時だった。
会場の入り口で、楽団がひときわ高らかにファンファーレを奏でた。
ざわついていた会場が一瞬で静まり返り、全ての貴族たちが入り口に向かって一斉に頭を垂れる。
国王陛下と王妃殿下の、ご入場だった。
荘厳なマントを翻し、威厳に満ちた足取りで会場に入ってくる国王。その隣で、優雅な微笑みを浮かべて歩く王妃。二人の登場は、この夜会の主役が誰であるかを、改めて満場の人々に知らしめた。
国王夫妻は、会場の中央に設けられた一段高い玉座へと進み、そこに腰を下ろした。
やがて、国王が立ち上がり、短い祝辞を述べる。それが終わると、再び音楽が流れ始め、貴族たちはそれぞれの歓談に戻っていった。
しかし、会場の空気は、先ほどまでとは明らかに違っていた。誰もが、玉座の主の存在を意識している。その視線を感じながら、誰もが言葉を選び、慎重に振る舞っていた。
国王は、しばらく玉座から会場の様子を眺めていたが、やておもむろに立ち上がると、王妃を伴って階下へと降りてきた。
有力な貴族たちへ、直接声をかけるためだ。
国王が動くと、その周りの空気が動く。彼の進む先々で、貴族たちが畏まって頭を下げ、短い言葉を交わしていた。
私は、その光景を遠くから眺めていた。
まさか、私たちのところへは来ないだろう。
偽りの聖女として断罪された私と、その私を強引に庇護下に置いた公爵。国王にとって、私たちはできれば関わり合いたくない、厄介な存在のはずだ。
しかし、その私の淡い期待は、無残に裏切られた。
国王の足は、迷うことなく、真っ直ぐに私たちの方へと向けられていたのだ。
周囲の貴族たちの視線が、再び私たちに集中するのが分かった。先ほどよりも、ずっと重く、探るような視線だ。
王が、あの二人とどう接するのか。
会場中の人間が、固唾を飲んで見守っている。
やがて、国王と王妃は、私たちの目の前で足を止めた。
「エルヴァイン公爵。息災であるか」
国王の声は、威厳に満ち、感情の起伏を感じさせない。
ゼノン公爵は、グラスを近くのテーブルに置くと、完璧な作法で深く一礼した。
「はっ。陛下におかれましても、ご健勝のこととお慶び申し上げます」
私も、慌てて彼の隣で淑女の礼を取る。心臓が、早鐘のように鳴り響いていた。
国王は、ゼノン公爵の挨拶に軽く頷くと、その視線を、ゆっくりと私の顔に向けた。
値踏みするような、鋭い視線。その目に射抜かれ、私は身を固くした。
「して、公爵。その者が、貴公の言う『婚約者』か」
その問いは、わざと会場中に聞こえるように、はっきりとした声で発せられた。
試されている。
王として、この場であやふやな関係を許すわけにはいかない。ゼノン公爵が、どのような覚悟で私の隣に立っているのか。それを、満座の前で明らかにさせようとしているのだ。
会場が、水を打ったように静まり返る。
全ての人間が、ゼノン公爵の答えを待っていた。
彼の答え一つで、私の立場は天国にも地獄にも落ちるだろう。
私は、息をすることさえ忘れて、隣に立つ男を見上げた。
彼は、動じなかった。
その背筋は、真っ直ぐに伸びたままだ。
彼は私の方へ半歩身を寄せると、まるで宝物を扱うかのように、そっと私の腰に手を回した。そして、私の体を優しく引き寄せる。
驚きに目を見開く私を意にも介さず、彼は国王に向き直った。
そして、静かに、しかし会場の隅々にまで響き渡る、明瞭な声で言った。
「御意」
ただ、一言。
だが、その一言に込められた重みは、千の言葉にも勝るものだった。
彼は続けた。
「陛下にご紹介いたします。彼女はアリーシャ・フォン・クライノート」
そこで、彼は一度言葉を切った。
そして、私の目を真っ直ぐに見つめながら、はっきりと宣言したのだ。
「このゼノン・エルヴァインが、生涯をかけて守ると誓った、ただ一人の女性です」
その言葉が、私の心臓を直接貫いた。
生涯をかけて、守る。
ただ一人の、女性。
嘘だ。
これは、取引のはずだ。私を庇護するための、体裁のはずだ。
そう、頭では分かっている。
なのに。
彼の声には、嘘の不協和音が、一片たりとも混じっていなかった。
それは、彼自身が、今口にした言葉を、一片の疑いもなく「真実」として語っている証拠だった。
彼が作り出す静寂の中で、その真実の響きだけが、澄んだ鐘の音のように、私の魂の奥深くまで染み渡っていく。
会場は、完全な沈黙に支配されていた。
国王でさえ、その言葉に込められた絶対的な意志の力に、一瞬だけ目を見開いた。
やがて、国王は満足げに、深く頷いた。
「…よかろう。公爵の誓い、違えるでないぞ」
「御意」
国王はそれだけ言うと、私には一瞥もくれず、王妃を伴って次の貴族の元へと去っていった。
嵐が、また一つ、過ぎ去った。
しかし、後に残されたものは、先ほどとは全く違っていた。
会場の空気が、完全に変わったのだ。
もはや、私を侮蔑や好奇の目で見る者は、一人もいなくなった。
私は「偽りの聖女」ではない。
私は「罪人」でもない。
私は、この王国最強の公爵が、満座の前で「生涯をかけて守る」と宣言した、唯一無二の存在なのだ。
彼の言葉は、先ほどの一瞥よりもさらに強固な、決して砕けることのない、見えない守護の壁となった。
私は、まだ彼の腕の中にいた。腰に回された手の力強さと、かすかに伝わる彼の体温を感じながら、私は呆然と彼の横顔を見上げていた。
彼は、相変わらずの氷の仮面を被っている。
けれど、その仮面の下にある、真実の響きを、私は確かに聞いてしまった。
この人は、一体、何を考えているのだろう。
その答えは、まだ、私には分からなかった。
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私は、ゼノン公爵の隣に、ただ静かに立っていた。
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彼は、私が落ち着きを取り戻すのを待っていたかのように、近くの侍従を呼び寄せた。
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短い命令。侍従は恐縮しきった様子で、すぐに二つのグラスを盆に乗せて持ってきた。
彼はその一つを私に手渡す。グラスの中では、黄金色の果実水が涼やかに揺れていた。私は礼を言ってそれを受け取り、そっと口をつけた。甘く、冷たい液体が、乾いた喉を優しく潤していく。
私は、隣に立つ男の横顔を盗み見た。
彼は、グラスを片手に、相変わらずの無表情で会場を見渡している。その金色の瞳には、何の感情も映っていない。
しかし、私にはもう分かっていた。
この氷の仮面の下で、彼がどれほど鋭く周囲を警戒し、私を守ることに神経を集中させているか。
彼の静寂は、何もない無ではない。全ての脅威を瞬時に察知し、打ち払うために極限まで研ぎ澄まされた、静かなる闘気そのものなのだ。
その時だった。
会場の入り口で、楽団がひときわ高らかにファンファーレを奏でた。
ざわついていた会場が一瞬で静まり返り、全ての貴族たちが入り口に向かって一斉に頭を垂れる。
国王陛下と王妃殿下の、ご入場だった。
荘厳なマントを翻し、威厳に満ちた足取りで会場に入ってくる国王。その隣で、優雅な微笑みを浮かべて歩く王妃。二人の登場は、この夜会の主役が誰であるかを、改めて満場の人々に知らしめた。
国王夫妻は、会場の中央に設けられた一段高い玉座へと進み、そこに腰を下ろした。
やがて、国王が立ち上がり、短い祝辞を述べる。それが終わると、再び音楽が流れ始め、貴族たちはそれぞれの歓談に戻っていった。
しかし、会場の空気は、先ほどまでとは明らかに違っていた。誰もが、玉座の主の存在を意識している。その視線を感じながら、誰もが言葉を選び、慎重に振る舞っていた。
国王は、しばらく玉座から会場の様子を眺めていたが、やておもむろに立ち上がると、王妃を伴って階下へと降りてきた。
有力な貴族たちへ、直接声をかけるためだ。
国王が動くと、その周りの空気が動く。彼の進む先々で、貴族たちが畏まって頭を下げ、短い言葉を交わしていた。
私は、その光景を遠くから眺めていた。
まさか、私たちのところへは来ないだろう。
偽りの聖女として断罪された私と、その私を強引に庇護下に置いた公爵。国王にとって、私たちはできれば関わり合いたくない、厄介な存在のはずだ。
しかし、その私の淡い期待は、無残に裏切られた。
国王の足は、迷うことなく、真っ直ぐに私たちの方へと向けられていたのだ。
周囲の貴族たちの視線が、再び私たちに集中するのが分かった。先ほどよりも、ずっと重く、探るような視線だ。
王が、あの二人とどう接するのか。
会場中の人間が、固唾を飲んで見守っている。
やがて、国王と王妃は、私たちの目の前で足を止めた。
「エルヴァイン公爵。息災であるか」
国王の声は、威厳に満ち、感情の起伏を感じさせない。
ゼノン公爵は、グラスを近くのテーブルに置くと、完璧な作法で深く一礼した。
「はっ。陛下におかれましても、ご健勝のこととお慶び申し上げます」
私も、慌てて彼の隣で淑女の礼を取る。心臓が、早鐘のように鳴り響いていた。
国王は、ゼノン公爵の挨拶に軽く頷くと、その視線を、ゆっくりと私の顔に向けた。
値踏みするような、鋭い視線。その目に射抜かれ、私は身を固くした。
「して、公爵。その者が、貴公の言う『婚約者』か」
その問いは、わざと会場中に聞こえるように、はっきりとした声で発せられた。
試されている。
王として、この場であやふやな関係を許すわけにはいかない。ゼノン公爵が、どのような覚悟で私の隣に立っているのか。それを、満座の前で明らかにさせようとしているのだ。
会場が、水を打ったように静まり返る。
全ての人間が、ゼノン公爵の答えを待っていた。
彼の答え一つで、私の立場は天国にも地獄にも落ちるだろう。
私は、息をすることさえ忘れて、隣に立つ男を見上げた。
彼は、動じなかった。
その背筋は、真っ直ぐに伸びたままだ。
彼は私の方へ半歩身を寄せると、まるで宝物を扱うかのように、そっと私の腰に手を回した。そして、私の体を優しく引き寄せる。
驚きに目を見開く私を意にも介さず、彼は国王に向き直った。
そして、静かに、しかし会場の隅々にまで響き渡る、明瞭な声で言った。
「御意」
ただ、一言。
だが、その一言に込められた重みは、千の言葉にも勝るものだった。
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なのに。
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それは、彼自身が、今口にした言葉を、一片の疑いもなく「真実」として語っている証拠だった。
彼が作り出す静寂の中で、その真実の響きだけが、澄んだ鐘の音のように、私の魂の奥深くまで染み渡っていく。
会場は、完全な沈黙に支配されていた。
国王でさえ、その言葉に込められた絶対的な意志の力に、一瞬だけ目を見開いた。
やがて、国王は満足げに、深く頷いた。
「…よかろう。公爵の誓い、違えるでないぞ」
「御意」
国王はそれだけ言うと、私には一瞥もくれず、王妃を伴って次の貴族の元へと去っていった。
嵐が、また一つ、過ぎ去った。
しかし、後に残されたものは、先ほどとは全く違っていた。
会場の空気が、完全に変わったのだ。
もはや、私を侮蔑や好奇の目で見る者は、一人もいなくなった。
私は「偽りの聖女」ではない。
私は「罪人」でもない。
私は、この王国最強の公爵が、満座の前で「生涯をかけて守る」と宣言した、唯一無二の存在なのだ。
彼の言葉は、先ほどの一瞥よりもさらに強固な、決して砕けることのない、見えない守護の壁となった。
私は、まだ彼の腕の中にいた。腰に回された手の力強さと、かすかに伝わる彼の体温を感じながら、私は呆然と彼の横顔を見上げていた。
彼は、相変わらずの氷の仮面を被っている。
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