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第85話 揺るがぬ忠誠
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「……お断りします」
リリアの静かで、しかし凛とした声が夜の静寂に響いた。
そのあまりにも予想外の返答に、ザラキエルの美しい顔が初めてわずかに歪んだ。
「……ほう? 今、何と?」
「お断りします、と言ったのです」
リリアはもはや俯いていなかった。彼女は魔王四天王の一人であるザラキエルを、その大きな瞳で真っ直ぐに見据えていた。
「確かにあなたの言う通りかもしれません。人間は信じられない。そしてゴブ様も、いつか私を切り捨てるのかもしれない。彼の世界は弱肉強食。それが理なのでしょうから」
彼女の言葉は、ザラキエルが突きつけた厳しい現実を一度全て受け入れるものだった。
「ですが」とリリアは続けた。その声には一点の曇りもなかった。「それでも私は彼を信じます」
「……愚かな。何を根拠に?」
ザラキエルの声に、苛立ちの色が滲み始める。
「根拠などありません」リリアは静かに微笑んだ。「ただ、私はこの目で見てきたのです。彼が仲間を失い、血を流しながらも決して諦めなかった姿を。彼が戦えない弱いゴブリンたちにさえ役割を与え、その居場所を作ろうとした姿を。そして……」
彼女の脳裏に、あの日の光景が蘇っていた。
人間たちに追い詰められていた名も知れぬエルフの子供。その子を守るために彼は何の計算もなく、ただ衝動的に自分よりも遥かに格上の敵の前に立ちはだかった。
「彼は私を救ってくれた時、『仲間だからだ』と言いました。そこには何の打算も計算もなかった。ただ目の前で脅かされている仲間を守りたいという、純粋な想いだけがあった。私はそれを信じます」
ザラキエルの言葉は巧みだった。だが、彼は一つだけ致命的な見落としをしていた。
俺という存在がただの合理主義の塊ではないこと。その冷徹な仮面の下に、前世で失った「仲間」や「居場所」に対する不器用で、しかし誰よりも強い渇望を隠していることを。
リリアは、その本質を誰よりも近くで見て感じ取っていたのだ。
「あなたの言う『救い』はとても甘美に聞こえます。ですが、それは結局魔王という新たな支配者に媚びへつらうだけの偽りの安寧ではありませんか? それでは何も変わらない。私はもう誰かに与えられた居場所で、怯えながら生きるのはごめんなさい」
彼女は一歩前に出た。その小さな身体から、ザラキエルでさえも気圧されるほどの強い意志の力が放たれていた。
「私の居場所はここです」
彼女は自分の胸にそっと手を当てた。
「あの不器用で口の悪い、でも誰よりも仲間想いな私たちの王の隣。彼と共に、たとえ明日喰われるかもしれないとしても、自分たちの手で未来を築き上げていく。それが私の選んだ道です」
それは、リリア・シルヴァニアという一人のエルフの魂の叫びだった。
故郷を失い全てを諦めかけていた少女が、新たな居場所を見つけ自らの意志でその運命を掴み取ろうとする、力強い独立宣言だった。
「……そうか」
ザラキエルは差し伸べていた手をゆっくりと下ろした。
彼の顔からは表情が消え失せていた。
それは無関心ではない。自らの策が完全に破れたことを認めた、冷徹な現実認識の顔だった。
彼はリリアという存在を見誤っていた。
彼女は、この国の弱点などではなかった。
むしろ、この国の『心』そのもの。王の冷徹な知略に温かい魂を吹き込む、絶対不可欠な存在。彼女がいる限り、この国はただの暴力装置にはならない。
「……見事だ、エルフの娘。お前のその揺るがぬ忠誠、我が主にも見せて差し上げたかったほどだ」
ザラキエルの声にはもはや甘さはなかった。
そこには敵意とも敬意ともつかない、複雑な響きが込められていた。
「だが、覚えておくがいい。世界はお前たちが思うほど甘くはない。その美しい理想が、いずれお前たち自身を滅ぼすことになるやもしれんぞ」
彼はそう言い残すと、背後を振り返った。
そして影の中へと溶けるように消えようとした、その時だった。
「――それ以上、俺の女に近づくな」
低く、地を這うような声が夜の静寂を切り裂いた。
声の主はいつからそこにいたのか。
ザラキエルの背後の影の中から、もう一つのさらに濃密な闇がゆっくりと人型を形作っていた。
漆黒の翼。
ゴブリンロードの威圧感。
そして、その紅い瞳には仲間を、そしてリリアを脅かされたことに対する絶対零度の怒りが燃え盛っていた。
俺が、そこに立っていた。
戦場から戻ってきたのだ。
リリアの静かで、しかし凛とした声が夜の静寂に響いた。
そのあまりにも予想外の返答に、ザラキエルの美しい顔が初めてわずかに歪んだ。
「……ほう? 今、何と?」
「お断りします、と言ったのです」
リリアはもはや俯いていなかった。彼女は魔王四天王の一人であるザラキエルを、その大きな瞳で真っ直ぐに見据えていた。
「確かにあなたの言う通りかもしれません。人間は信じられない。そしてゴブ様も、いつか私を切り捨てるのかもしれない。彼の世界は弱肉強食。それが理なのでしょうから」
彼女の言葉は、ザラキエルが突きつけた厳しい現実を一度全て受け入れるものだった。
「ですが」とリリアは続けた。その声には一点の曇りもなかった。「それでも私は彼を信じます」
「……愚かな。何を根拠に?」
ザラキエルの声に、苛立ちの色が滲み始める。
「根拠などありません」リリアは静かに微笑んだ。「ただ、私はこの目で見てきたのです。彼が仲間を失い、血を流しながらも決して諦めなかった姿を。彼が戦えない弱いゴブリンたちにさえ役割を与え、その居場所を作ろうとした姿を。そして……」
彼女の脳裏に、あの日の光景が蘇っていた。
人間たちに追い詰められていた名も知れぬエルフの子供。その子を守るために彼は何の計算もなく、ただ衝動的に自分よりも遥かに格上の敵の前に立ちはだかった。
「彼は私を救ってくれた時、『仲間だからだ』と言いました。そこには何の打算も計算もなかった。ただ目の前で脅かされている仲間を守りたいという、純粋な想いだけがあった。私はそれを信じます」
ザラキエルの言葉は巧みだった。だが、彼は一つだけ致命的な見落としをしていた。
俺という存在がただの合理主義の塊ではないこと。その冷徹な仮面の下に、前世で失った「仲間」や「居場所」に対する不器用で、しかし誰よりも強い渇望を隠していることを。
リリアは、その本質を誰よりも近くで見て感じ取っていたのだ。
「あなたの言う『救い』はとても甘美に聞こえます。ですが、それは結局魔王という新たな支配者に媚びへつらうだけの偽りの安寧ではありませんか? それでは何も変わらない。私はもう誰かに与えられた居場所で、怯えながら生きるのはごめんなさい」
彼女は一歩前に出た。その小さな身体から、ザラキエルでさえも気圧されるほどの強い意志の力が放たれていた。
「私の居場所はここです」
彼女は自分の胸にそっと手を当てた。
「あの不器用で口の悪い、でも誰よりも仲間想いな私たちの王の隣。彼と共に、たとえ明日喰われるかもしれないとしても、自分たちの手で未来を築き上げていく。それが私の選んだ道です」
それは、リリア・シルヴァニアという一人のエルフの魂の叫びだった。
故郷を失い全てを諦めかけていた少女が、新たな居場所を見つけ自らの意志でその運命を掴み取ろうとする、力強い独立宣言だった。
「……そうか」
ザラキエルは差し伸べていた手をゆっくりと下ろした。
彼の顔からは表情が消え失せていた。
それは無関心ではない。自らの策が完全に破れたことを認めた、冷徹な現実認識の顔だった。
彼はリリアという存在を見誤っていた。
彼女は、この国の弱点などではなかった。
むしろ、この国の『心』そのもの。王の冷徹な知略に温かい魂を吹き込む、絶対不可欠な存在。彼女がいる限り、この国はただの暴力装置にはならない。
「……見事だ、エルフの娘。お前のその揺るがぬ忠誠、我が主にも見せて差し上げたかったほどだ」
ザラキエルの声にはもはや甘さはなかった。
そこには敵意とも敬意ともつかない、複雑な響きが込められていた。
「だが、覚えておくがいい。世界はお前たちが思うほど甘くはない。その美しい理想が、いずれお前たち自身を滅ぼすことになるやもしれんぞ」
彼はそう言い残すと、背後を振り返った。
そして影の中へと溶けるように消えようとした、その時だった。
「――それ以上、俺の女に近づくな」
低く、地を這うような声が夜の静寂を切り裂いた。
声の主はいつからそこにいたのか。
ザラキエルの背後の影の中から、もう一つのさらに濃密な闇がゆっくりと人型を形作っていた。
漆黒の翼。
ゴブリンロードの威圧感。
そして、その紅い瞳には仲間を、そしてリリアを脅かされたことに対する絶対零度の怒りが燃え盛っていた。
俺が、そこに立っていた。
戦場から戻ってきたのだ。
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