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第1話:最悪の目覚め
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焼けるように熱い。意識がぐらぐらと揺れる。
知らない男の怒声と、悲鳴のようなクラクションが脳内で反響していた。アスファルトに叩きつけられる衝撃。急速に冷えていく体の感覚。それが、俺の最後の記憶だったはずだ。
「……坊ちゃま。アレン坊ちゃま、お気を確かに」
誰かが俺を呼んでいる。柔らかく、少し震えた若い女の声だ。
重たい瞼をこじ開けると、視界に飛び込んできたのは見慣れた安アパートの天井ではなかった。精緻な彫刻が施された豪奢な天蓋。絹のように滑らかなシーツ。そして、俺の顔を心配そうに覗き込む、メイド服姿の少女。
誰だ、ここはどこだ。俺は誰だ。
混乱する頭で必死に思考を巡らせる。俺は確か、山田健一。三十二歳。中小企業の営業職。連日の残業で疲弊しきった体を引きずって帰る途中、信号無視のトラックに……。
そこまで思い出した瞬間、頭に激痛が走った。
山田健一としての三十年余りの人生と、まったく別の、まだ短い十年の記憶が奔流となって流れ込んでくる。混ぜこぜになった記憶は、まるで濁流のように俺の意識を飲み込もうとした。
「う、ぐ……っ」
「坊ちゃま!」
メイドの少女が慌てて俺の額の濡れタオルを替えようとする。その顔を見て、俺は息を呑んだ。亜麻色の髪を三つ編みにした、そばかすの残る素朴な少女。アンナ。俺の、いや、この体の持ち主の専属メイド。
そしてこの体の名前は、アレン・フォン・クラインフェルト。
その名前を認識した瞬間、濁流だった記憶がピタリと静まり、一つの像を結んだ。
アレン・フォン・クラインフェルト。
銀色の髪に紫水晶の瞳を持つ、公爵家の嫡男。神が愛したかのような美しい容姿と、生まれながらにして約束された輝かしい未来。
そして、その全てを自らの手で破滅させる、最悪の男。
「……鏡を」
「え?」
「鏡を、持ってきてくれ」
かすれた声で告げると、アンナは少し怯えたように頷き、すぐに銀細工の手鏡を持ってきた。震える手でそれを受け取り、自分の顔を映す。
鏡の中には、見知らぬ美少年がいた。
プラチナのように輝く銀髪。夜空の星を閉じ込めたような紫の瞳。まだ幼さは残るものの、将来は国中の女を虜にするだろうと確信できるほどの、完璧な造形。
それは紛れもなく、前世の俺が熱中した乙女ゲーム『エターナル・ファンタジア』に登場する、悪役貴族アレン・フォン・クラインフェルトそのものの姿だった。
血の気が引いていくのが分かった。手から滑り落ちた鏡が、絨毯の上に音もなく転がる。
終わった。
俺の人生は、始まる前に終わった。
『エターナル・ファンタジア』。通称エタファンは、平民でありながら聖なる力に目覚めたヒロインが、王立魔法学園を舞台に攻略対象のイケメンたちと恋を育み、世界の危機を救う王道ストーリーの乙女ゲームだ。
そしてアレン・フォン・クラインフェルトは、その物語における最重要キャラクターの一人。
悪役として。
彼は公爵家嫡男という高い身分を鼻にかけ、平民出身のヒロインを徹底的に見下し、いじめ抜く。その傲慢で幼稚な嫌がらせは、他の攻略対象者たちがヒロインに惹かれるきっかけとなる、いわば物語の潤滑油だ。
だが、彼の役割はそれだけでは終わらない。
物語中盤、ヒロインにことごとくやり込められ、嫉妬と憎悪に狂ったアレンは、世界の裏で暗躍する『闇の教団』と手を組む。そして禁断の魔術に手を染め、王国を転覆させようと企むのだ。
もちろん、そんな計画が成功するはずもない。
彼の野望は、ヒロインと恋に落ちた攻略対象者たちによって打ち砕かれる。ゲームの終盤、全ての悪事が白日の下に晒されたアレンを待っているのは、断罪イベント。
民衆が詰めかけた王都の広場で、彼の罪状が読み上げられる。石を投げつけられ、罵声を浴びせられ、泥に塗れる。そして最後は、ギロチンの冷たい刃の下にその首を差し出すのだ。
「……冗談じゃ、ない」
脳裏にゲームのスチルが鮮明に蘇る。
民衆の憎悪の視線を一身に浴びながら、虚ろな目でギロチンを見上げるアレンの姿。刃が落ちる瞬間の、絶望に歪んだ表情。
あれが、俺の未来。
山田健一として死んだと思ったら、次は処刑される運命の悪役に転生?あんまりじゃないか。神様とやらがいるのなら、性格が悪すぎると言わざるを得ない。
「坊ちゃま、大丈夫ですか?お顔の色が……」
アンナが心配そうに声をかけてくる。
このアンナも、アレンの悪行の最初の犠牲者だ。原作のアレンは、この後すぐに些細なミスを咎めて彼女を折檻し、公爵家から追い出す。それが、彼の破滅への第一歩だった。
「……アンナ」
「は、はい!」
ビクリと肩を震わせる彼女の反応に、胸が痛む。原作のアレンは、すでにこの優しい少女に対して、横暴な振る舞いを繰り返していたのだろう。
「下がっていい。少し、一人で考えたい」
「……かしこまりました。何か御用があれば、すぐにお呼びください」
アンナは深々と頭を下げ、静かに部屋から出て行った。
一人になった部屋で、俺は天蓋を見上げる。
死にたくない。
一度死んだからこそ、その思いは誰よりも強い。過労死なんて情けない死に方をした挙句、次はギロチンで首を刎ねられるなんて、絶対に受け入れられない。
それに、あの処刑シーンの記憶は、ただのゲーム知識とは思えないほど生々しいリアリティがあった。首筋を撫でる刃の冷たさ。民衆の歓声。世界から色が消えていく感覚。まるで、自分が一度体験したかのような鮮明さだ。
あれを、現実で味わうことになるのか。
震えが止まらない。恐怖で奥歯がガチガチと鳴る。
だが、恐怖のどん底で、ふと一つの事実に気がついた。
俺は今、十歳だ。
ゲームの舞台である王立魔法学園に入学するのは、十五歳の時。物語が本格的に始まるまで、まだ五年もある。そして、断罪イベントは卒業間近の十八歳の時に起こる。
つまり、俺にはまだ八年もの猶予がある。
八年。
それは長いのか、短いのか。
だが、何もしなければ確実に破滅が待っているのだ。ならば、行動しないという選択肢はない。
運命を変える。変えてみせる。
ギロチンなんて真っ平ごめんだ。俺が望むのは、平穏な人生。贅沢は言わない。どこかの田舎で、静かに読書でもしながら穏やかな老後を送りたい。ただそれだけだ。
そのためには、どうすればいい?
まず、原作アレンの行動を徹底的に避ける必要がある。ヒロインをいじめない。闇の教団と手を組まない。傲慢な態度を改める。当たり前のことだ。
だが、それだけで足りるだろうか。
アレン・フォン・クラインフェルトは、クラインフェルト公爵家の嫡男。王国でも有数の大貴族だ。何もしなくても、その立場が彼を物語の中心に引きずり込む可能性がある。
ただ善良に生きるだけでは、破滅の運命から逃れられないかもしれない。
ならば、攻めるしかない。
原作知識。これが俺の唯一にして最大の武器だ。
これから王国で起こる事件、災害、政変。そのほとんどを、俺は知っている。それらを未然に防ぎ、あるいは利用することで、破滅フラグを回避するだけでなく、逆に自身の安泰な未来を築くための布石を打てるのではないか。
ヒロインたちとの関係も重要だ。
彼女たちに嫌われなければ、断罪されることもないはずだ。よし、徹底的に良い人を演じよう。親切に、紳士的に、誠実に対応する。
そうだ。いっそのこと、本来の主人公である平民の少年カイルとヒロインたちが結ばれるのを、全力でサポートするのはどうだろうか。彼らが幸せな恋愛を成就させれば、俺のような悪役が介在する余地もなくなるはずだ。完璧な作戦じゃないか。
思考が回り始めると、恐怖で冷え切っていた体に少しずつ熱が戻ってきた。
そうだ。まだ終わっていない。まだ何も始まってすらいないのだ。
この八年間で、俺はアレン・フォン・クラインフェルトという存在を、破滅する悪役から、誰からも文句を言われない完璧な貴族へと作り変える。
そのためなら、どんな努力も惜しまない。
俺はベッドの上で、固く拳を握りしめた。
その紫の瞳には、先ほどまでの絶望の色はなく、死に物狂いで未来を掴み取ろうとする、強い意志の光が宿っていた。
破滅回避計画、始動だ。
目指すは、平穏な老後。
俺の、二度目の人生を懸けた戦いが、今、静かに幕を開けた。
知らない男の怒声と、悲鳴のようなクラクションが脳内で反響していた。アスファルトに叩きつけられる衝撃。急速に冷えていく体の感覚。それが、俺の最後の記憶だったはずだ。
「……坊ちゃま。アレン坊ちゃま、お気を確かに」
誰かが俺を呼んでいる。柔らかく、少し震えた若い女の声だ。
重たい瞼をこじ開けると、視界に飛び込んできたのは見慣れた安アパートの天井ではなかった。精緻な彫刻が施された豪奢な天蓋。絹のように滑らかなシーツ。そして、俺の顔を心配そうに覗き込む、メイド服姿の少女。
誰だ、ここはどこだ。俺は誰だ。
混乱する頭で必死に思考を巡らせる。俺は確か、山田健一。三十二歳。中小企業の営業職。連日の残業で疲弊しきった体を引きずって帰る途中、信号無視のトラックに……。
そこまで思い出した瞬間、頭に激痛が走った。
山田健一としての三十年余りの人生と、まったく別の、まだ短い十年の記憶が奔流となって流れ込んでくる。混ぜこぜになった記憶は、まるで濁流のように俺の意識を飲み込もうとした。
「う、ぐ……っ」
「坊ちゃま!」
メイドの少女が慌てて俺の額の濡れタオルを替えようとする。その顔を見て、俺は息を呑んだ。亜麻色の髪を三つ編みにした、そばかすの残る素朴な少女。アンナ。俺の、いや、この体の持ち主の専属メイド。
そしてこの体の名前は、アレン・フォン・クラインフェルト。
その名前を認識した瞬間、濁流だった記憶がピタリと静まり、一つの像を結んだ。
アレン・フォン・クラインフェルト。
銀色の髪に紫水晶の瞳を持つ、公爵家の嫡男。神が愛したかのような美しい容姿と、生まれながらにして約束された輝かしい未来。
そして、その全てを自らの手で破滅させる、最悪の男。
「……鏡を」
「え?」
「鏡を、持ってきてくれ」
かすれた声で告げると、アンナは少し怯えたように頷き、すぐに銀細工の手鏡を持ってきた。震える手でそれを受け取り、自分の顔を映す。
鏡の中には、見知らぬ美少年がいた。
プラチナのように輝く銀髪。夜空の星を閉じ込めたような紫の瞳。まだ幼さは残るものの、将来は国中の女を虜にするだろうと確信できるほどの、完璧な造形。
それは紛れもなく、前世の俺が熱中した乙女ゲーム『エターナル・ファンタジア』に登場する、悪役貴族アレン・フォン・クラインフェルトそのものの姿だった。
血の気が引いていくのが分かった。手から滑り落ちた鏡が、絨毯の上に音もなく転がる。
終わった。
俺の人生は、始まる前に終わった。
『エターナル・ファンタジア』。通称エタファンは、平民でありながら聖なる力に目覚めたヒロインが、王立魔法学園を舞台に攻略対象のイケメンたちと恋を育み、世界の危機を救う王道ストーリーの乙女ゲームだ。
そしてアレン・フォン・クラインフェルトは、その物語における最重要キャラクターの一人。
悪役として。
彼は公爵家嫡男という高い身分を鼻にかけ、平民出身のヒロインを徹底的に見下し、いじめ抜く。その傲慢で幼稚な嫌がらせは、他の攻略対象者たちがヒロインに惹かれるきっかけとなる、いわば物語の潤滑油だ。
だが、彼の役割はそれだけでは終わらない。
物語中盤、ヒロインにことごとくやり込められ、嫉妬と憎悪に狂ったアレンは、世界の裏で暗躍する『闇の教団』と手を組む。そして禁断の魔術に手を染め、王国を転覆させようと企むのだ。
もちろん、そんな計画が成功するはずもない。
彼の野望は、ヒロインと恋に落ちた攻略対象者たちによって打ち砕かれる。ゲームの終盤、全ての悪事が白日の下に晒されたアレンを待っているのは、断罪イベント。
民衆が詰めかけた王都の広場で、彼の罪状が読み上げられる。石を投げつけられ、罵声を浴びせられ、泥に塗れる。そして最後は、ギロチンの冷たい刃の下にその首を差し出すのだ。
「……冗談じゃ、ない」
脳裏にゲームのスチルが鮮明に蘇る。
民衆の憎悪の視線を一身に浴びながら、虚ろな目でギロチンを見上げるアレンの姿。刃が落ちる瞬間の、絶望に歪んだ表情。
あれが、俺の未来。
山田健一として死んだと思ったら、次は処刑される運命の悪役に転生?あんまりじゃないか。神様とやらがいるのなら、性格が悪すぎると言わざるを得ない。
「坊ちゃま、大丈夫ですか?お顔の色が……」
アンナが心配そうに声をかけてくる。
このアンナも、アレンの悪行の最初の犠牲者だ。原作のアレンは、この後すぐに些細なミスを咎めて彼女を折檻し、公爵家から追い出す。それが、彼の破滅への第一歩だった。
「……アンナ」
「は、はい!」
ビクリと肩を震わせる彼女の反応に、胸が痛む。原作のアレンは、すでにこの優しい少女に対して、横暴な振る舞いを繰り返していたのだろう。
「下がっていい。少し、一人で考えたい」
「……かしこまりました。何か御用があれば、すぐにお呼びください」
アンナは深々と頭を下げ、静かに部屋から出て行った。
一人になった部屋で、俺は天蓋を見上げる。
死にたくない。
一度死んだからこそ、その思いは誰よりも強い。過労死なんて情けない死に方をした挙句、次はギロチンで首を刎ねられるなんて、絶対に受け入れられない。
それに、あの処刑シーンの記憶は、ただのゲーム知識とは思えないほど生々しいリアリティがあった。首筋を撫でる刃の冷たさ。民衆の歓声。世界から色が消えていく感覚。まるで、自分が一度体験したかのような鮮明さだ。
あれを、現実で味わうことになるのか。
震えが止まらない。恐怖で奥歯がガチガチと鳴る。
だが、恐怖のどん底で、ふと一つの事実に気がついた。
俺は今、十歳だ。
ゲームの舞台である王立魔法学園に入学するのは、十五歳の時。物語が本格的に始まるまで、まだ五年もある。そして、断罪イベントは卒業間近の十八歳の時に起こる。
つまり、俺にはまだ八年もの猶予がある。
八年。
それは長いのか、短いのか。
だが、何もしなければ確実に破滅が待っているのだ。ならば、行動しないという選択肢はない。
運命を変える。変えてみせる。
ギロチンなんて真っ平ごめんだ。俺が望むのは、平穏な人生。贅沢は言わない。どこかの田舎で、静かに読書でもしながら穏やかな老後を送りたい。ただそれだけだ。
そのためには、どうすればいい?
まず、原作アレンの行動を徹底的に避ける必要がある。ヒロインをいじめない。闇の教団と手を組まない。傲慢な態度を改める。当たり前のことだ。
だが、それだけで足りるだろうか。
アレン・フォン・クラインフェルトは、クラインフェルト公爵家の嫡男。王国でも有数の大貴族だ。何もしなくても、その立場が彼を物語の中心に引きずり込む可能性がある。
ただ善良に生きるだけでは、破滅の運命から逃れられないかもしれない。
ならば、攻めるしかない。
原作知識。これが俺の唯一にして最大の武器だ。
これから王国で起こる事件、災害、政変。そのほとんどを、俺は知っている。それらを未然に防ぎ、あるいは利用することで、破滅フラグを回避するだけでなく、逆に自身の安泰な未来を築くための布石を打てるのではないか。
ヒロインたちとの関係も重要だ。
彼女たちに嫌われなければ、断罪されることもないはずだ。よし、徹底的に良い人を演じよう。親切に、紳士的に、誠実に対応する。
そうだ。いっそのこと、本来の主人公である平民の少年カイルとヒロインたちが結ばれるのを、全力でサポートするのはどうだろうか。彼らが幸せな恋愛を成就させれば、俺のような悪役が介在する余地もなくなるはずだ。完璧な作戦じゃないか。
思考が回り始めると、恐怖で冷え切っていた体に少しずつ熱が戻ってきた。
そうだ。まだ終わっていない。まだ何も始まってすらいないのだ。
この八年間で、俺はアレン・フォン・クラインフェルトという存在を、破滅する悪役から、誰からも文句を言われない完璧な貴族へと作り変える。
そのためなら、どんな努力も惜しまない。
俺はベッドの上で、固く拳を握りしめた。
その紫の瞳には、先ほどまでの絶望の色はなく、死に物狂いで未来を掴み取ろうとする、強い意志の光が宿っていた。
破滅回避計画、始動だ。
目指すは、平穏な老後。
俺の、二度目の人生を懸けた戦いが、今、静かに幕を開けた。
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《作者からのお知らせ!》
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今回は3巻はほぼ全編を書き下ろしとなっています。
【貧乏貴族の領地の話や魔導車オーディションなど、】連載にはないストーリーが盛りだくさん!
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