ゲームの悪役貴族に転生した俺、断罪されて処刑される未来を回避するため死ぬ気で努力したら、いつの間にか“救国の聖人”と呼ばれてたんだが

夏見ナイ

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第2話:第一歩はメイドから

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一夜明け、俺はベッドから身を起こした。
高熱は完全に引いている。体の怠さもない。むしろ、前世の慢性的な疲労感が嘘のように、全身に活力がみなぎっていた。十歳の健康な肉体とは、これほどまでに素晴らしいものか。

しかし、精神は別だ。
これから始まる破滅回避計画の重圧で、胃がキリキリと痛む。昨夜はほとんど眠れなかった。天井を睨みながら、何度も何度も脳内でシミュレーションを繰り返した。
最初の関門は、専属メイドのアンナだ。
ゲームのアレンは、高熱で倒れた翌朝、看病してくれたアンナの些細なミスに激昂し、熱い紅茶を浴びせ、公爵家から追放する。この事件が、アレンの残忍さを周囲に印象付ける最初のきっかけとなるのだ。
つまり、今日一日を穏便に乗り切ること。それが俺の計画の第一歩であり、絶対に必要な最低条件だった。

コンコン、と控えめなノックの音が響く。
来たか。俺はゴクリと唾を飲み込み、平静を装って応えた。
「入れ」
「失礼いたします。アレン坊ちゃま、朝のご挨拶に伺いました」
アンナが静かにお辞儀をして入室する。その手には、朝の紅茶を乗せた銀のトレイ。彼女は俺の顔色を窺うように、恐る恐るこちらを見ていた。その瞳には、怯えの色が濃く滲んでいる。
これまでのアレンが、どれだけ彼女に酷い態度を取ってきたかが一目で分かった。胸が痛むと同時に、原作アレンへの怒りが込み上げる。

アンナはサイドテーブルに紅茶を置く。カップとソーサーが触れ合う、か細い音がやけに大きく聞こえた。彼女の指先が、小刻みに震えている。
まずい。このままでは彼女がミスをしてしまう。俺が何か言う前に、先手を打たなければ。
「アンナ」
「は、はい!」
ビクリと、アンナの肩が跳ねた。まるで鞭で打たれるのを待つ小動物だ。
違う。俺は怒鳴りたいわけじゃない。ただ、礼を言いたいだけなんだ。
「昨日は、看病ありがとう。助かった」
俺はできるだけ穏やかな声で、そう告げた。体に染みついた貴族としての所作が、自然と優雅な微笑みを作り出す。
内心では(これでいいのか?貴族っぽいか?もっと自然な方が良かったか?)と冷や汗が止まらない。

アンナは、時が止まったかのように固まっていた。
大きな瞳を瞬かせ、信じられないものを見るような顔で俺を見つめている。やがてその顔は恐怖に引きつり、みるみるうちに蒼白になっていった。
「……も、申し訳ございません!わたくし、何かとんでもない無礼を働いてしまったのでしょうか……!?」
「え?」
「どのような罰でもお受けいたします!ですから、どうか……!どうかそのような恐ろしいことをおっしゃらないでください!」
どうやら俺の感謝の言葉は、彼女にとって処刑宣告前の最後の晩餐のように聞こえたらしい。
そうか。今まで一度も感謝などされたことがないから、逆に不気味に感じるのか。アレン、お前はどれだけ性根が腐っていたんだ。

「落ち着いてくれ、アンナ。罰を与えるつもりなどない。本当に、感謝しているだけだ」
俺は言葉を重ねる。だが、アンナの疑念は晴れない。彼女の頭の中では「坊ちゃまがお礼を?ありえない。きっとこれは、後でもっと酷い罰を与えるための前振りだ」という思考が渦巻いているに違いない。
これ以上言葉で説明しても無駄か。ならば、行動で示すしかない。

「着替えを頼む」
俺は話題を変えることにした。アンナはまだ怯えながらも、プロとしてすぐに気持ちを切り替えたようだった。手際よくクローゼットから今日の衣服を取り出し、俺の着替えを手伝い始める。
そして、運命の瞬間は訪れた。
俺が袖に手を通した時、アンナが持っていたカフスボタンが、彼女の手から滑り落ちた。カラン、と小さな音を立てて、大理石の床を転がる。
来た。
ゲームと全く同じ展開。全く同じミス。
アンナの顔から、完全に血の気が引いた。彼女は凍りついたようにカフスボタンを見つめ、次の瞬間には床に突っ伏していた。
「も、申し訳ございません!申し訳ございません、アレン坊ちゃま!お許しください!」
震える声で、ただひたすらに謝罪を繰り返す。
ここで俺が原作通りに激怒すれば、破滅へのレールががっちりと敷かれる。絶対に、それだけは避けなければ。

俺は深呼吸を一つした。
そして、アンナの隣に静かに膝をついた。
「……坊ちゃま?」
困惑するアンナを尻目に、床に転がったカフスボタンを拾い上げる。それは紫水晶をあしらった、美しい銀細工だった。
「誰にでも間違いはある。気にするな」
俺は立ち上がり、彼女に向かって手を差し伸べた。
「それより、怪我はなかったか?立てるかい?」
内心は、心臓が飛び出しそうなくらいバクバクしている。これでフラグは折れたはずだ。頼むから折れてくれ。

アンナは、差し出された俺の手と、俺の顔を交互に見た。その瞳は大きく見開かれ、信じられないという感情がありありと浮かんでいる。やがて、その大きな瞳から、ぽろぽろと涙が零れ落ちた。
「……あ……う……」
彼女は言葉にならない嗚咽を漏らしながら、俺の手を取ることなく、自力でゆっくりと立ち上がった。そして、深く、深く頭を下げた。
「……もったいなき、お言葉にございます」
その声は、まだ震えていたが、先ほどまでの恐怖の色は薄れていた。

俺はその様子に、内心でガッツポーズをした。
よし。第一関門、突破だ。
紅茶をぶっかけられることもなく、彼女が追放されることもない。俺は、破滅の運命から、ほんの小さな一歩だが、確かに逸れることができた。

だが、俺はまだ知らなかった。
この瞬間、アンナの心の中で、とてつもない勘違いが芽生え始めていたことを。
『アレン坊ちゃまは、高熱を境に生まれ変わられたのだ。あの冷酷な瞳は消え、今は慈愛に満ちた優しい光を宿されている。まるで、物語に出てくる聖人のように……』
俺がただ死にたくない一心で取った行動が、彼女の中で勝手に美化され、聖人伝説の序章として刻み込まれたことなど、この時の俺が知る由もなかった。
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