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第61話 聖人の凱旋
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帝国との不可侵条約締結。
その歴史的なニュースは、俺たちが王都へ帰還するよりも早く王国中に駆け巡っていた。
当初、開戦も辞さないと息巻いていた主戦派の貴族たちは、俺が武力衝突を一切起こさずに、逆に有利な条件で平和を勝ち取ったという事実に完全に沈黙した。
そして民衆は、戦争の恐怖から解放された安堵と、それを成し遂げた若き英雄への熱狂に沸き立った。
俺たち使節団が王都の門をくぐった時、そこには信じられない光景が広がっていた。
道の両脇を数えきれないほどの民衆が埋め尽くしているのだ。
彼らは俺たちの乗る馬車に向かって旗を振り、花びらを投げ、そして歓声を上げている。
「アレン様、万歳!」
「我らが聖宰相様!」
「救国の聖人だ!」
その熱狂はもはや凱旋将軍を迎えるレベルを超えていた。それは神の使いか、あるいは王そのものを迎えるような、狂信的なまでの崇拝だった。
「……すごい」
馬車の窓からその光景を見て、カイルが呆然と呟いた。
セレスティーナも王女である彼女ですら見たことのない民衆の熱狂ぶりに、言葉を失っている。
俺は、その歓声を聞きながら完璧な笑顔で民衆に手を振り続けた。
だがその仮面の下で、俺の胃は人生最大級の痛みに襲われていた。
聖人。
ついに俺はそんな領域にまで足を踏み入れてしまったらしい。
俺はただ戦争が面倒だから避けたかっただけなのだが、その行動が俺を国家の救世主へと完全に祭り上げてしまった。
王城へ凱旋した俺たちを、国王アルベルト自らが出迎えてくれた。
「よくぞ戻った、アレン。そして皆も」
国王は俺の肩を力強く叩き、その労をねぎらった。
「其方の功績は、この国の歴史に黄金の文字で刻まれるだろう。もはや宰相代理などという仮の役職では、其方の器に釣り合わぬ」
その言葉に、俺の背筋を悪寒が走った。
嫌な予感がする。
「よってここに正式に、アレン・フォン・クラインフェルトをエルドラド王国宰相に任命する!」
国王の宣言に、周囲の大臣たちが「おおっ!」とどよめき、祝福の拍手を送る。
父ルドルフは隣で感涙にむせび泣いている。
俺は、その場で崩れ落ちそうになるのを必死で堪えた。
宰相。
ついに俺はこの国のナンバー2の座に正式に就任してしまった。
俺の平穏な老後はもはや原子レベルにまで分解され、宇宙の塵と化した。
その夜、王城で開かれた祝賀会は俺の聖人伝説をさらに強固なものにするための壮大な儀式と化した。
貴族たちは俺に媚びへつらい、騎士たちは俺に畏敬の念を捧げ、そして仲間たちは俺に絶対的な信頼を寄せる。
俺はその全てを完璧な笑顔で受け流し続けた。
もはや俺の胃は痛みという感覚すら失っていた。そこにあるのは巨大な虚無。ブラックホールのように全ての感情を吸い込んでいく、冷たい空洞だけだった。
宴の喧騒から逃れるように、俺は一人、城のバルコニーに出た。
王都の夜景が眼下に広がっている。
俺が守ったこの平和な光景。
だがその平和と引き換えに、俺は自分自身の平穏を完全に失ってしまった。
これで良かったのだろうか。
俺が自問自答した、その時だった。
「――アレン様」
背後から凛とした、しかしどこか儚げな声がした。
振り返ると、そこに立っていたのはリリアーナだった。
彼女は聖女候補としての純白のドレスに身を包み、月明かりを浴びて幻想的なまでに美しかった。
「……リリアーナか。どうしたんだ、こんなところで」
「皆様、アレン様を祝福しておられます。ですが貴方様のお顔には、少しお疲れの色が見えましたから……」
彼女は俺の心の奥底を見透かすように、静かに言った。
この少女だけは、俺の栄光の裏にある疲弊した素顔に気づいているのかもしれない。
「私は知っております」
彼女は俺の隣に立ち、静かに夜景を見下ろした。
「貴方様がどれほどの重圧を、そのお一人で背負っておられるのかを。民は貴方様を聖人と呼び、英雄と讃えます。ですが貴方様も私たちと同じ一人の人間。傷つき、悩むこともあるはずです」
その言葉は俺の心の最も柔らかい場所に、優しく染み渡った。
俺の周りの誰もが俺を完璧な超人だと信じ込んでいる。だが彼女だけは、俺の人間としての弱さを理解しようとしてくれていた。
「ですから……」
彼女は俺の方へと向き直った。
そのエメラルドグリーンの瞳は潤み、そして決意の光を宿していた。
「せめて私だけは、貴方様の本当の安らぎの場所でありたいのです。貴方様がその重すぎる鎧を脱いで、心から休める唯一の場所に」
彼女はそっと俺の手に自分の手を重ねた。
その手は温かく、そして少しだけ震えていた。
「アレン様。私は聖女になるでしょう。ですがその力は、世界のためではなく貴方様お一人のために捧げたいのです」
それは紛れもない愛の告白だった。
俺は何も言えなかった。
彼女の純粋な、あまりにも純粋な想いを前にして、俺は全ての言葉を失っていた。
俺がこれまで築き上げてきた全ての栄光。
その中心で、俺は一人の少女からのあまりにも重い愛を受け止めることになってしまった。
俺の胃は虚無の中から再び鈍い痛みを取り戻し始めていた。
それは平穏を失った男が代わりに手に入れてしまった、温かく、そしてあまりにも切ない痛みだった。
俺の聖人としての凱旋は、一人の少女の愛と共に俺の心をさらに複雑な迷宮へと誘っていくのだった。
その歴史的なニュースは、俺たちが王都へ帰還するよりも早く王国中に駆け巡っていた。
当初、開戦も辞さないと息巻いていた主戦派の貴族たちは、俺が武力衝突を一切起こさずに、逆に有利な条件で平和を勝ち取ったという事実に完全に沈黙した。
そして民衆は、戦争の恐怖から解放された安堵と、それを成し遂げた若き英雄への熱狂に沸き立った。
俺たち使節団が王都の門をくぐった時、そこには信じられない光景が広がっていた。
道の両脇を数えきれないほどの民衆が埋め尽くしているのだ。
彼らは俺たちの乗る馬車に向かって旗を振り、花びらを投げ、そして歓声を上げている。
「アレン様、万歳!」
「我らが聖宰相様!」
「救国の聖人だ!」
その熱狂はもはや凱旋将軍を迎えるレベルを超えていた。それは神の使いか、あるいは王そのものを迎えるような、狂信的なまでの崇拝だった。
「……すごい」
馬車の窓からその光景を見て、カイルが呆然と呟いた。
セレスティーナも王女である彼女ですら見たことのない民衆の熱狂ぶりに、言葉を失っている。
俺は、その歓声を聞きながら完璧な笑顔で民衆に手を振り続けた。
だがその仮面の下で、俺の胃は人生最大級の痛みに襲われていた。
聖人。
ついに俺はそんな領域にまで足を踏み入れてしまったらしい。
俺はただ戦争が面倒だから避けたかっただけなのだが、その行動が俺を国家の救世主へと完全に祭り上げてしまった。
王城へ凱旋した俺たちを、国王アルベルト自らが出迎えてくれた。
「よくぞ戻った、アレン。そして皆も」
国王は俺の肩を力強く叩き、その労をねぎらった。
「其方の功績は、この国の歴史に黄金の文字で刻まれるだろう。もはや宰相代理などという仮の役職では、其方の器に釣り合わぬ」
その言葉に、俺の背筋を悪寒が走った。
嫌な予感がする。
「よってここに正式に、アレン・フォン・クラインフェルトをエルドラド王国宰相に任命する!」
国王の宣言に、周囲の大臣たちが「おおっ!」とどよめき、祝福の拍手を送る。
父ルドルフは隣で感涙にむせび泣いている。
俺は、その場で崩れ落ちそうになるのを必死で堪えた。
宰相。
ついに俺はこの国のナンバー2の座に正式に就任してしまった。
俺の平穏な老後はもはや原子レベルにまで分解され、宇宙の塵と化した。
その夜、王城で開かれた祝賀会は俺の聖人伝説をさらに強固なものにするための壮大な儀式と化した。
貴族たちは俺に媚びへつらい、騎士たちは俺に畏敬の念を捧げ、そして仲間たちは俺に絶対的な信頼を寄せる。
俺はその全てを完璧な笑顔で受け流し続けた。
もはや俺の胃は痛みという感覚すら失っていた。そこにあるのは巨大な虚無。ブラックホールのように全ての感情を吸い込んでいく、冷たい空洞だけだった。
宴の喧騒から逃れるように、俺は一人、城のバルコニーに出た。
王都の夜景が眼下に広がっている。
俺が守ったこの平和な光景。
だがその平和と引き換えに、俺は自分自身の平穏を完全に失ってしまった。
これで良かったのだろうか。
俺が自問自答した、その時だった。
「――アレン様」
背後から凛とした、しかしどこか儚げな声がした。
振り返ると、そこに立っていたのはリリアーナだった。
彼女は聖女候補としての純白のドレスに身を包み、月明かりを浴びて幻想的なまでに美しかった。
「……リリアーナか。どうしたんだ、こんなところで」
「皆様、アレン様を祝福しておられます。ですが貴方様のお顔には、少しお疲れの色が見えましたから……」
彼女は俺の心の奥底を見透かすように、静かに言った。
この少女だけは、俺の栄光の裏にある疲弊した素顔に気づいているのかもしれない。
「私は知っております」
彼女は俺の隣に立ち、静かに夜景を見下ろした。
「貴方様がどれほどの重圧を、そのお一人で背負っておられるのかを。民は貴方様を聖人と呼び、英雄と讃えます。ですが貴方様も私たちと同じ一人の人間。傷つき、悩むこともあるはずです」
その言葉は俺の心の最も柔らかい場所に、優しく染み渡った。
俺の周りの誰もが俺を完璧な超人だと信じ込んでいる。だが彼女だけは、俺の人間としての弱さを理解しようとしてくれていた。
「ですから……」
彼女は俺の方へと向き直った。
そのエメラルドグリーンの瞳は潤み、そして決意の光を宿していた。
「せめて私だけは、貴方様の本当の安らぎの場所でありたいのです。貴方様がその重すぎる鎧を脱いで、心から休める唯一の場所に」
彼女はそっと俺の手に自分の手を重ねた。
その手は温かく、そして少しだけ震えていた。
「アレン様。私は聖女になるでしょう。ですがその力は、世界のためではなく貴方様お一人のために捧げたいのです」
それは紛れもない愛の告白だった。
俺は何も言えなかった。
彼女の純粋な、あまりにも純粋な想いを前にして、俺は全ての言葉を失っていた。
俺がこれまで築き上げてきた全ての栄光。
その中心で、俺は一人の少女からのあまりにも重い愛を受け止めることになってしまった。
俺の胃は虚無の中から再び鈍い痛みを取り戻し始めていた。
それは平穏を失った男が代わりに手に入れてしまった、温かく、そしてあまりにも切ない痛みだった。
俺の聖人としての凱旋は、一人の少女の愛と共に俺の心をさらに複雑な迷宮へと誘っていくのだった。
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