偽りの聖女と罵られたので、隣国の訳あり公爵様と結託して祖国を滅ぼします~本当の力に目覚めた私を今更返せと言われても、もう遅いのです~

夏見ナイ

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第二十九話 カインの過去

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市場の喧騒を離れ、二人は帝都を流れる大きな川のほとりへとやってきた。
川沿いには石畳の遊歩道が整備され、等間隔にベンチが置かれている。行き交う人もまばらで、穏やかな時間が流れていた。
カインは、先程エリアーナが指さした屋台で買った、温かい焼き菓子を彼女に手渡した。蜂蜜がたっぷりかかった、素朴な揚げドーナツのようなお菓子だ。
「ありがとうございます」
エリアーナは礼を言うと、ベンチに腰を下ろした。カインも、その隣に距離を置いて座る。
二人で、黙って焼き菓子を頬張る。さくさくとした食感と、じゅわりと染み出す蜂蜜の優しい甘さが、冷えた身体に染み渡った。
しばらく、川面を滑る水鳥を眺めていたエリアーナだったが、意を決したように口を開いた。
「あの、閣下」
「何だ」
「市場では、皆があなた様を恐れているように見えました」
その言葉は、純粋な疑問だった。彼女の紫水晶の瞳は、ただ真実を知りたいと、真っ直ぐにカインを見つめている。
カインの動きが、一瞬だけ止まった。
「……当然だろう。俺は、ヴァルハイト公爵だ。恐れられてこそ、この地位の意味がある」
その声は、いつも通りの硬質な響きを持っていた。だが、エリアーナはもう、その仮面の下にあるものに気づいていた。
「ですが……寂しくはないのですか」
エリアーナは、そっと問いかけた。
その問いは、カインの心の最も柔らかな部分を、不意に突き刺した。彼は目を見張り、エリアーナの顔を凝視した。今まで誰からも、そんなことを問われたことはなかった。
寂しいだと?
そんな感情は、とうの昔に捨て去ったはずだった。
カインは顔を背け、吐き捨てるように言った。
「余計なことを考えるな。お前には関係のないことだ」
冷たい拒絶の言葉。だが、エリアーナは引かなかった。
「関係なくなど、ありません。私は、あなたの契約者です。あなたのことを、もっと知りたいのです」
その瞳には、憐れみや同情の色はなかった。ただ、ひたむきな真摯さだけが宿っていた。
カインは、その眼差しから逃れることができなかった。彼は重いため息をつくと、諦めたように、ぽつりぽつりと語り始めた。
それは、彼が誰にも明かしたことのない、孤独な過去の物語だった。

「物心ついた時から、俺はこの痣と共にあった」
カインの声は、遠い昔を懐かしむように、静かに響いた。
「俺は、公爵家の跡継ぎではなかった。ただの、『呪われた化け物』だった」
同年代の貴族の子息たちと遊ぶことは、許されなかった。彼らはカインを見ると、悲鳴を上げて逃げ出した。あるいは、遠くから石を投げつけ、「怪物」と罵った。
『近寄るな、呪いがうつるぞ!』
『お前の母も、化け物を産んだ魔女に違いない!』
幼いカインは、ただ一人で、その悪意に耐えるしかなかった。拳を握りしめ、血が滲むほど唇を噛み、決して涙は見せなかった。泣けば、負けだと思っていたからだ。
父である先代公爵もまた、カインを恐れていた。彼は息子を遠ざけ、その存在に触れようとしなかった。この邸の中で、カインは常に孤独だった。

「……ただ一人、母だけは違った」
カインの声に、ほんのわずかに温かい色が混じる。
「母だけは、俺を化け物だとは言わなかった。この痣を、お前の特別な印なのだと、優しく撫でてくれた。『あなたは誰よりも優しくて、強い子よ』と、いつも抱きしめてくれた」
母の腕の中だけが、カインにとって唯一の安息の場所だった。彼女が淹れてくれる、蜂蜜入りのミルクティーの甘い香り。彼女が読んでくれた、古い英雄の物語。その全てが、彼の凍てついた心を支える、たった一つの光だった。

「だが、その母も、俺が十歳の時に病で死んだ」
カインの声から、再び感情が消えた。
「唯一の光を失った。それからは、本当の地獄だったな」
父はますます彼を疎み、使用人たちは影で彼を嘲笑った。カインは、自分の殻に閉じこもった。誰も信じず、誰にも心を許さず、ただひたすらに力を求めた。
剣を振るい、魔法を磨いた。誰よりも強くなること。圧倒的な力で、自分を認めさせること。それしか、彼がこの世界で生きていく術はなかった。
やがて、彼は戦場で功績を上げ、帝国の英雄と呼ばれるようになった。父が死に、公爵位を継いだ。誰もが彼を恐れ、その力にひれ伏した。
だが、彼の心は満たされなかった。手に入れたのは、権力と、そして誰も寄せ付けない、絶対的な孤独だけだった。

「……それが、俺の全てだ」
カインは、話を終えた。彼は、エリアーナがどんな反応をするか、少しだけ身構えていた。同情されるか、あるいは恐れをなして距離を取るか。どちらにしても、気分の良いものではない。
しかし、エリアーナの反応は、彼の予想とは全く違っていた。
彼女は、ただ静かに、彼の話を聞いていた。
そして、彼の話が終わると、そっと自分の胸に手を当てた。
その紫水晶の瞳は、潤んでいた。だが、それは同情の涙ではなかった。もっと深い、魂のレベルでの共感が、その瞳を満たしていた。
彼女は、カインの孤独を、自分の痛みとして感じていたのだ。
エリアーナは、ゆっくりと口を開いた。
その声は、わずかに震えていたが、確かな温もりを持っていた。
「……私も」
彼女が、そう言った。
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