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第五十三話 儀式の前夜
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儀式を翌日に控えた夜。
ヴァルハイト公爵邸は、静まり返っていた。だが、その静寂の下には、邸に住まう者たちの、熱い祈りと期待が、まるで地熱のように渦巻いていた。
エリアーナは、自室の窓辺に立ち、夜空に浮かぶ、不完全な月を見上げていた。
明日の夜には、あの月は満ちる。
そして、自分はカインの運命を懸けた、大いなる儀式に臨むのだ。
準備は、万全のはずだった。
精霊たちは、いつでも力を貸してくれると約束してくれた。ゲルダも、ジークハルトも、邸の誰もが、自分を信じ、支えてくれている。
そして何より、カイン自身が、自分を信じてくれている。
それなのに。
エリアーナの胸には、拭いきれない不安が、暗い影を落としていた。
もし、失敗したら?
自分の力が、彼の呪いの力に及ばなかったら?
彼を救うどころか、逆にその命を危険に晒してしまうことになったら?
考えれば考えるほど、指先が冷たくなっていく。背負ったものの重さに、押しつぶされそうだった。
この邸に来てから、ずっと前だけを見て走ってきた。自分の力を受け入れ、前向きに努力を続けてきたつもりだった。だが、決戦を目前にして、かつての弱い自分が、心の奥底から顔を覗かせる。
(私に、本当にできるの……?)
その時、部屋の扉が、静かにノックされた。
びくり、とエリアーナの肩が震える。こんな夜更けに、誰だろう。
「……どうぞ」
か細い声で応じると、扉が開き、長身の影が部屋に入ってきた。
カインだった。
彼は、いつものように夜食の盆を手にしていた。だが、その表情は、いつもよりもどこか硬い。彼もまた、明日の儀式を前に、緊張しているのかもしれない。
「……眠れないのか」
カインが、低い声で問いかけた。
「……はい。少し」
エリアーナは、自分の不安を隠すように、俯いた。
カインは、盆をテーブルに置くと、エリアーナのそばまで歩み寄ってきた。そして、彼女の隣に立ち、同じように窓の外の月を見上げる。
しばらく、沈黙が続いた。
先にそれを破ったのは、カインだった。
「……怖いか」
その声は、驚くほどに優しかった。全てを、お見通しだったのだ。
エリアーナは、もう強がることはできなかった。彼女は、小さく、そして正直に頷いた。
「……はい。とても。もし、私に何か間違いがあって、あなた様を傷つけてしまったらと……そう思うと、怖くて」
声が、震える。
カインは、何も言わなかった。
ただ、そっと手を伸ばすと、震える彼女の肩を、優しく引き寄せた。
そして、その身体を、彼の広い胸の中に、そっと包み込んだ。
「……っ!」
エリアーナは、息を呑んだ。
彼の腕の中は、驚くほどに温かく、そして安心する匂いがした。力強い心臓の鼓動が、彼女の耳元で静かに響く。
それは、今まで感じたことのない、絶対的な安心感だった。
「お前は、一人ではない」
カインが、エリアーナの髪に顔を埋めるようにして、囁いた。
「俺がいる。たとえ、儀式が失敗しようと、お前の力が暴走しようと、俺がお前を護る。何があっても、俺がお前のそばを離れることはない」
その言葉は、どんな魔法よりも、エリアーナの心を強くした。
そうだ。
自分は、一人ではないのだ。
この人が、そばにいてくれる。
それだけで、もう何も怖くはない。
「カイン様……」
エリアーナは、彼の胸に顔をうずめ、その服を強く握りしめた。不安で凍りついていた心が、彼の体温でゆっくりと溶かされていくのを感じる。
カインは、彼女の華奢な身体を、さらに強く抱きしめた。
「エリアーナ。お前が、この邸に来てくれて、よかった」
彼は、初めて、素直な感謝の言葉を口にした。
「お前と出会うまで、俺の世界は、色のない、ただの冬景色だった。だが、お前が、俺の世界に春を連れてきてくれた。花を咲かせ、光を与えてくれた」
彼の声には、深い、深い愛情が込められていた。
「だから、儀式の結果など、どうでもいい。たとえ、この呪いが解けなくとも、俺はもう、何も望まない。お前さえ、俺のそばにいてくれるのなら」
それは、彼の魂からの、真実の告白だった。
彼はもう、呪いを解くためだけに、エリアーナを必要としているのではなかった。
エリアーナという存在そのものが、彼にとってのかけがえのない光であり、生きる希望となっていたのだ。
その想いが、痛いほど伝わってきた。
エリアーナは、顔を上げた。その瞳は、もう涙で濡れてはいなかった。
そこには、愛する人を前にした、一人の女性としての、強く、そして揺るぎない決意の光が宿っていた。
「いいえ。私は、あなたを救います」
彼女は、はっきりと告げた。
「あなた様が、私に光をくれたように。今度は、私があなたを、その苦しみから解放します。必ず」
二人の視線が、交差する。
もう、そこには不安も、恐怖もなかった。
ただ、互いを信じ、未来を共に歩むことを誓った、二つの魂があるだけ。
カインは、ゆっくりと顔を近づけた。
そして、その唇を、エリアーナの唇に、そっと重ね合わせた。
それは、初めての誓いのキス。
甘く、優しく、そしてどこまでも切ない、二人の想いが溶け合った、一瞬の永遠。
唇が離れた時、エリアーナの頬は、熟した果実のように赤く染まっていた。
カインは、そんな彼女の姿を、愛おしそうに見つめると、その額に、もう一度だけ、優しく口づけを落とした。
「……明日に、備えろ」
その声は、もういつものように穏やかだった。
エリアーナは、こくりと頷く。
嵐の前の静けさ。
だが、その夜は、ただ不安なだけの夜ではなかった。
二人の心を、確かな絆で結びつける、何よりも大切な、儀式の前夜となったのだ。
ヴァルハイト公爵邸は、静まり返っていた。だが、その静寂の下には、邸に住まう者たちの、熱い祈りと期待が、まるで地熱のように渦巻いていた。
エリアーナは、自室の窓辺に立ち、夜空に浮かぶ、不完全な月を見上げていた。
明日の夜には、あの月は満ちる。
そして、自分はカインの運命を懸けた、大いなる儀式に臨むのだ。
準備は、万全のはずだった。
精霊たちは、いつでも力を貸してくれると約束してくれた。ゲルダも、ジークハルトも、邸の誰もが、自分を信じ、支えてくれている。
そして何より、カイン自身が、自分を信じてくれている。
それなのに。
エリアーナの胸には、拭いきれない不安が、暗い影を落としていた。
もし、失敗したら?
自分の力が、彼の呪いの力に及ばなかったら?
彼を救うどころか、逆にその命を危険に晒してしまうことになったら?
考えれば考えるほど、指先が冷たくなっていく。背負ったものの重さに、押しつぶされそうだった。
この邸に来てから、ずっと前だけを見て走ってきた。自分の力を受け入れ、前向きに努力を続けてきたつもりだった。だが、決戦を目前にして、かつての弱い自分が、心の奥底から顔を覗かせる。
(私に、本当にできるの……?)
その時、部屋の扉が、静かにノックされた。
びくり、とエリアーナの肩が震える。こんな夜更けに、誰だろう。
「……どうぞ」
か細い声で応じると、扉が開き、長身の影が部屋に入ってきた。
カインだった。
彼は、いつものように夜食の盆を手にしていた。だが、その表情は、いつもよりもどこか硬い。彼もまた、明日の儀式を前に、緊張しているのかもしれない。
「……眠れないのか」
カインが、低い声で問いかけた。
「……はい。少し」
エリアーナは、自分の不安を隠すように、俯いた。
カインは、盆をテーブルに置くと、エリアーナのそばまで歩み寄ってきた。そして、彼女の隣に立ち、同じように窓の外の月を見上げる。
しばらく、沈黙が続いた。
先にそれを破ったのは、カインだった。
「……怖いか」
その声は、驚くほどに優しかった。全てを、お見通しだったのだ。
エリアーナは、もう強がることはできなかった。彼女は、小さく、そして正直に頷いた。
「……はい。とても。もし、私に何か間違いがあって、あなた様を傷つけてしまったらと……そう思うと、怖くて」
声が、震える。
カインは、何も言わなかった。
ただ、そっと手を伸ばすと、震える彼女の肩を、優しく引き寄せた。
そして、その身体を、彼の広い胸の中に、そっと包み込んだ。
「……っ!」
エリアーナは、息を呑んだ。
彼の腕の中は、驚くほどに温かく、そして安心する匂いがした。力強い心臓の鼓動が、彼女の耳元で静かに響く。
それは、今まで感じたことのない、絶対的な安心感だった。
「お前は、一人ではない」
カインが、エリアーナの髪に顔を埋めるようにして、囁いた。
「俺がいる。たとえ、儀式が失敗しようと、お前の力が暴走しようと、俺がお前を護る。何があっても、俺がお前のそばを離れることはない」
その言葉は、どんな魔法よりも、エリアーナの心を強くした。
そうだ。
自分は、一人ではないのだ。
この人が、そばにいてくれる。
それだけで、もう何も怖くはない。
「カイン様……」
エリアーナは、彼の胸に顔をうずめ、その服を強く握りしめた。不安で凍りついていた心が、彼の体温でゆっくりと溶かされていくのを感じる。
カインは、彼女の華奢な身体を、さらに強く抱きしめた。
「エリアーナ。お前が、この邸に来てくれて、よかった」
彼は、初めて、素直な感謝の言葉を口にした。
「お前と出会うまで、俺の世界は、色のない、ただの冬景色だった。だが、お前が、俺の世界に春を連れてきてくれた。花を咲かせ、光を与えてくれた」
彼の声には、深い、深い愛情が込められていた。
「だから、儀式の結果など、どうでもいい。たとえ、この呪いが解けなくとも、俺はもう、何も望まない。お前さえ、俺のそばにいてくれるのなら」
それは、彼の魂からの、真実の告白だった。
彼はもう、呪いを解くためだけに、エリアーナを必要としているのではなかった。
エリアーナという存在そのものが、彼にとってのかけがえのない光であり、生きる希望となっていたのだ。
その想いが、痛いほど伝わってきた。
エリアーナは、顔を上げた。その瞳は、もう涙で濡れてはいなかった。
そこには、愛する人を前にした、一人の女性としての、強く、そして揺るぎない決意の光が宿っていた。
「いいえ。私は、あなたを救います」
彼女は、はっきりと告げた。
「あなた様が、私に光をくれたように。今度は、私があなたを、その苦しみから解放します。必ず」
二人の視線が、交差する。
もう、そこには不安も、恐怖もなかった。
ただ、互いを信じ、未来を共に歩むことを誓った、二つの魂があるだけ。
カインは、ゆっくりと顔を近づけた。
そして、その唇を、エリアーナの唇に、そっと重ね合わせた。
それは、初めての誓いのキス。
甘く、優しく、そしてどこまでも切ない、二人の想いが溶け合った、一瞬の永遠。
唇が離れた時、エリアーナの頬は、熟した果実のように赤く染まっていた。
カインは、そんな彼女の姿を、愛おしそうに見つめると、その額に、もう一度だけ、優しく口づけを落とした。
「……明日に、備えろ」
その声は、もういつものように穏やかだった。
エリアーナは、こくりと頷く。
嵐の前の静けさ。
だが、その夜は、ただ不安なだけの夜ではなかった。
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